佳景探訪
兼六園
石川県金沢市の兼六園は日本三名園のひとつに数えられる庭園だ。国の特別名勝にも指定された名園は、国内のみならず海外からも多くの観光客が訪れる。日本を代表する観光地のひとつと言っていい。夏の暑さも退き始めた九月の初め、兼六園を訪ねた。



兼六園

兼六園

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兼六園

兼六園
石川県金沢市はかつての加賀百万石、前田家のお膝元だ。市内には往時を偲ばせる風景が数多く残っている。兼六園はその象徴的存在だろう。歴代の加賀藩藩主によって長い歳月をかけて形作られたという兼六園は国の特別名勝に指定され、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに「日本三名園」に数えられている。まさに江戸時代の大名庭園を代表するもののひとつと言っていい。

神仙思想に基づいて作庭された庭園は、中央部には海に見立てた池を置き、池には島を浮かべ、周囲の小池とを曲水で結び、要所に築山を設け、多種多様な木々を配し、それらを縫うように観賞のための小径を巡らせる。小径を辿りながら四季折々の表情を愛でる、いわゆる「回遊式庭園」で、その見事さは確かに「日本三名園」の名に恥じない。

兼六園は当初から現在の形に作庭されたものではなく、歴代の加賀藩主によってさまざまに変遷を経てきたという。

兼六園の礎となる庭園を築いたのは五代藩主綱紀(つなのり)で、金沢城と堀を挟んで面する傾斜地に別荘を建てて周囲を庭園としたのが始まりなのだそうだ。別荘が建てられたのは、現在金沢城公園に面して10軒ほどの茶屋が並ぶ辺り、兼六園西側の「蓮池庭」が庭園部分で、接待や迎賓の施設として使われていたという。別荘が建てられた場所は、1601年(慶長6年)に徳川秀忠の娘である珠姫が輿入れしたとき、江戸から付いてきた伴の者たちのための長屋が造られていたが、珠姫が没して伴の者が江戸に戻ると跡地は藩の役所などに使われていた。綱紀がそれを城内に戻し、別荘を建てたということらしい。蓮池庭は1759年(宝暦9年)に大火で一部が焼失、その後、十一代藩主治脩(はるなが)が翠滝と夕顔亭、内橋亭を造営したという。

「蓮池庭」東南側の平坦な台地部分は千歳台と呼ばれ、これも歴代藩主によってさまざまに利用されてきたらしい。1792年(寛政4年)には治脩が千歳台に藩校「明倫堂」と「経武館」を建てたが、十二代藩主斉広(なりなが)が藩校を移転させ、1822年(文政5年)、跡地に自分の隠居所「竹沢御殿」を建てた。斉広の依頼によって奥州白河藩主松平定信がこれを「兼六園」と命名したいう。「六勝」を兼ね備えた名園という意味での命名だったようだ。

「六勝」とは中国宋時代の書物「洛陽名園記」に記述のある「宏大(こうだい)」、「幽邃(ゆうすい)」、「人力(じんりょく)」、「蒼古(そうこ)」、「水泉(すいせん)」、「眺望(ちょうぼう)」のことだ。この六勝は三対になっており、「宏大」と「幽邃」、「人力」と「蒼古」、「水泉」と「眺望」が、作庭においてそれぞれ相反するものとして述べられている。すなわち、広々とした魅力(宏大)と深淵で静寂な佇まい(幽邃)とは両立せず、人の手が加われば(人力)古色を帯びた趣(蒼古)が失せ、池や滝、曲水(水泉)は低地に造らざるを得ず、遠くを見晴らす魅力(眺望)は犠牲にしなくてはならない、というわけだ。この六勝を兼ね備えた作庭は難しく、実現できているのは湖園だけだと「洛陽名園記」は結んでいる。その六勝を、斉広が建てた「竹沢御殿」が兼ね備えていると、松平定信は評価したのだろう。

斉広は「竹沢御殿」が完成してわずか2年後に亡くなったという。「竹沢御殿」は建坪2000坪、部屋数200超という立派なものだったらしいが、十三代藩主斉泰(なりやす)はそれを取り壊し、池を広げ、木を植え、庭を拡張した。さらに1860年(万延元年)、蓮池庭と一体化する形に整備、壮大な庭園に仕上げたという。これが現在の兼六園のほぼ原形である。現在の成巽閣は1863年(文久3年)に真龍院の隠居所「巽御殿」として建てられたものという。

そして明治維新、1874年(明治7年)に兼六園は市民に開放される。1922年(大正11年)には国の名勝に指定、1950年(昭和25年)には文化財保護法によって改めて国の名勝に指定、さらに1985年(昭和60年)、国の特別名勝へと格上げされている。1994年(平成6年)から2000年(平成12年)にかけては南側の長谷池周辺の整備が行われた。明治初期に取り壊された「時雨亭」と「舟之御亭(ふなのおちん)」が、この整備によって復元されている。

現在(2010年9月現在)の兼六園は約三万坪、11ha超の面積を誇る。「日本三名園」の中では最小だが、それでも充分に広く、壮大な庭園である。金沢城に面した北西側に兼六園発祥となった蓮池庭があり、その東側の一段高所となった千歳台に兼六園の中心部が広がる。中央部には霞ヶ池が横たわり、優雅な曲水が南東へと辿っている。霞ヶ池の南西側は近年整備が行われた長谷池周辺で、時雨亭や舟之御亭が風雅な姿を見せている。園内随所にさまざまな“見所”が点在し、それらを辿っての庭園散策はとても楽しい。絵葉書や観光案内などで見慣れた風景を探してみるのも一興だろう。そして何より、名園の持つさまざまな興趣の中に“六勝”を感じながらの散策が、兼六園観賞の王道というべきだろう。

今回(2010年9月)、香林坊に宿を取ったお陰で兼六園が近かったこともあり、開園間もない早朝に来園した。平日だったこともあってか、朝の兼六園にはほとんど人の姿がなかった。観光客で賑わう様子も、それはそれで興趣のあるものだが、喧噪を避けてのんびりと兼六園散策を楽しみたい人には早朝の来園はお勧めの方法である。
虹橋と徽軫灯籠、霞ヶ池、内橋亭


虹橋と徽軫灯籠、霞ヶ池

虹橋と徽軫灯籠、霞ヶ池

虹橋と徽軫灯籠、霞ヶ池

虹橋と徽軫灯籠、霞ヶ池
金沢城石川門に面した桂坂口から兼六園に入ると、まず目の前に現れるのが虹橋と徽軫灯籠、そしてその向こうに横たわる霞ヶ池の織りなす景観だ。この景観こそは兼六園を象徴するものと言っていい。観光案内などの兼六園の紹介ではほとんどがこの景観が使われる。誰もが一度は写真などで目にしたことがあると言っても過言ではないのではないか。

虹橋の手前に立てば霞ヶ池を背景に虹橋と徽軫灯籠とが間近に見え、さらに蓬莱島や霞ヶ池の西南の岸辺に建つ内橋亭なども視界に収まる。それらが巧みに植栽された木々の緑と共に織りなす景観は実に素晴らしいものだ。虹橋に立って霞ヶ池を眺めるのも悪くはないが、やはり虹橋の優雅な曲線が添えられることで景観の見事さが増すように思える。

徽軫灯籠(ことじとうろう)は、その二股になった足の形が琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ていることからその呼び名があるという。手前の虹橋は琴橋ともいうそうだ。それらの向こうに横たわる霞ヶ池は兼六園で最も大きな池で、1837年(天保8年)に掘り広げられ、広さは5800u、深さは最も深いところで15mあるという。

霞ヶ池の中には蓬莱島が浮かぶ。蓬莱島は亀の甲の形をしているというので亀甲島ともいうらしい。霞ヶ池の西南の岸辺に建つ内橋亭は、もともとは蓮池庭にあった四亭のうちのひとつだそうで、1874年(明治7年)に兼六園が一般に開放された後に移築されたものという。内橋亭は石脚で支えられて水面に張り出して建てられており、霞ヶ池の水面に映る姿も美しい。蓬莱島や内橋亭の姿は虹橋からの眺めも美しいが、岸辺を辿って別の角度からも見てみるとまた違った魅力が感じられる。
眺望台


眺望台
霞ヶ池の北東側、兼六園外縁部から庭園の外側に視線を向けると、眼前には広々とした眺望が広がる。「眺望台」である。正面には卯辰山、その手間に金沢の市街地を見下ろし、遠く日本海も見える。さらには能登半島の姿も見えるのだという。六勝のひとつ、「眺望」というわけだが、なるほど、これほど眺望に恵まれた高台に位置する日本庭園というものはなかなか類例がないのではないか。
雁行橋


雁行橋
曲水にはいくつかの橋が架かっているが、その中で最も趣のある橋が雁行橋(がんこうばし)だ。11枚の赤戸室石を用いて夕空に列をなして飛んでいく雁の姿を象ったものという。それぞれの石が亀の甲の形をしているので亀甲橋とも呼ばれているそうで、“渡ると長生きできる”そうだが、石の摩耗が激しく、残念ながら現在は実際に渡ることはできない。それでも風雅な佇まいの橋は景観としてもたいへんに美しく、“鑑賞”の対象として充分に楽しめる。
七福神山


七福神山
雁行橋の横手には七福神山がある。1822年(文政5年)に十二代藩主斉広が建てた「竹沢御殿」の庭園の一部の築山だそうで、当時の様子をそのまま残しているらしい。恵比寿、大黒天、寿老人、福禄寿、布袋、毘沙門天、弁財天に見立てた自然石を配していることから「七福神山」、あるいは「福寿山」と呼ばれているという。
根上松


根上松
七福神山から大きく曲がった曲水に沿ってゆくと見事な松が見えてくる。根上松(ねあがりまつ)といい、大小の根が地上にせり上がった姿が目を引く。十三代藩主斉泰が盛り土に若い松を植え、松が生長した後に土を取り除いて根を露わにしたものと伝えられているという。兼六園には他にも唐崎松(からさきまつ)をなど、見事な枝振りの松がある。冬には雪の重みで枝が折れるのを防ぐために「雪吊り」が施され、兼六園の冬の風物詩にもなっている。
辰巳用水


辰巳用水

辰巳用水
虹橋から南東側へと巡る大きな曲水もまた兼六園の魅力を象徴するもののひとつと言っていい。優美な曲線を描いて流れる様子はたいへんに美しく、庭園の景観に潤いを与えている。虹橋に近い北西側では広々とした庭園を優雅にゆったりと流れ、南東側に奥まったところでは木々に包まれて深山の趣を増し、渓流を思わせる佇まいだ。そうした表情の違いも素晴らしい。

この流れはそもそもは1632年(寛永9年)に三代藩主利常(としつね)が)金沢城の堀の水や防火用水として引かせたもので、それを兼六園の曲水として用いているのだそうだ。虹橋近くには辰巳用水を金沢城二の丸へ導くために設けられた水道の取水口の遺構が残されている。それも併せて見ておきたい。辰巳用水の水はここから11kmほど離れた犀川上流から引かれているという。用水工事の設計施工は小松の町人、板屋兵四郎という人物だそうだ。
時雨亭と長谷池周辺


時雨亭と長谷池周辺

時雨亭と長谷池周辺
辰巳用水を後に、成巽閣の塀に沿って南東側へ降りてゆき、梅林を抜けると2000年(平成12年)に整備が終了した長谷池周辺の区域だ。細い曲水が巡り、復元された「時雨亭」と「舟之御亭」が建っている。

時雨亭は蓮池庭にあった四亭のうちの中心的な建物で、今の噴水の前にあったそうだ。明治初期に取り壊されてしまったものを長谷池周辺の整備に伴って2000年(平成12年)に現在地に復元したものという。有料だが亭内での抹茶や煎茶の呈茶も可能という。

霞ヶ池周辺が比較的広々として優雅な雰囲気を漂わせているのに対し、時雨亭周辺は全体の佇まいが密で、閑寂な風情を感じさせる。近年になって整備されたことで、表情が異なっているのだろう。そうした違いを味わうのも兼六園散策の愉しみのひとつだ。
瓢池と夕顔亭


瓢池と夕顔亭

瓢池と夕顔亭

瓢池と夕顔亭
兼六園西端に位置する瓢池と夕顔亭の辺りがかつての蓮池庭の跡、兼六園発祥の地である。瓢池(ひさごいけ)は中ほどがくびれた瓢箪(ひょうたん)形をしているというので、後になって名付けられたものという。神仙思想に基づいた作庭らしく、不老長寿の島である神仙島を象った小島が浮かぶ。その島のひとつに立つ塔は海石塔(かいせきとう)という。高さは4m超、六重に重ねられた淡茶色の笠石の虫食いのような穴が独特の風情を感じさせる。海石塔の由来ははっきりしないようだが、朝鮮出兵の際に加藤清正が持ち帰り、後に豊臣秀吉から前田利家に贈られたという説もあるそうだ。池奥にある滝は翠滝(みどりたき)、1774年(安永3年)に造られたものという。

瓢池の東岸には夕顔亭が建っている。蓮池庭に四棟あった茶亭のうちのひとつで、1774年(安永3年)に建てられたものだ。今も当時の姿のままに残っているという。袖壁に夕顔(瓢箪のこと)の透かし彫りがあることから、この名がある。藩政時代は「滝見の御亭(たきみのおちん)」とも呼ばれていたそうだが、これもまたなかなか風雅な名である。
噴水


噴水
夕顔亭のやや北東側に設けられた小さな池には噴水がある。日本庭園に噴水というのは珍しいが、1800年代中頃に造られたもののようで、日本最古ではないかという。この噴水、背後の高所に位置する霞ヶ池を水源としており、その高低差を利用して、すなわち「サイフォンの原理」を利用して水を噴き上げている。水は高さ3.5mほど吹き上がっているという。
茶店


茶店
兼六園には有料区域の内外に十軒余りの茶店が建っている。これらは明治期になって一般開放された際に出店したものという。特にお堀通りを挟んで金沢城に面する北西側、桂坂口の南には十軒近くの茶店が軒を並べ、風情ある景観を見せる。お昼が近くなれば多くの観光客で賑わうのだろうが、今回訪れたのは早朝、まだ客の姿はない。静けさに包まれた茶店の佇まいもなかなか興趣のあるものである。




金沢城趾

金沢城趾

金沢城趾

金沢城趾
兼六園の北西側は金沢城趾、その間を抜ける「お堀通り」はその名が示すようにかつての堀の跡という。兼六園の北端、桂坂口から石川橋という人道橋がお堀通りを跨いで金沢城趾へと繋いでいる。

石川橋を渡ると石川門だ。石川門は櫓と櫓を長屋で繋いだ枡形門で、金沢城の裏門に当たる。河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれていたという。宝暦の大火(1759年)で焼失したが、1788年(天明8年)に再建され、現在まで残されている。1950年(昭和25年)には国の重要文化財に指定されている。

石川門をくぐって城内に入ると河北門や菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓といった建物を見ることができる。これらはいずれも明治期に一度失われ、後に復元したものという。復元された建物であっても往時の姿を偲ぶには充分だ。在りし日の金沢城はきっと壮大な城だったことだろう。

金沢城趾は終戦から1995年(平成7年)まで金沢大学のキャンパスとして使われていた。ここに金沢大学があった頃に一度金沢を訪れたことがある。今回(2010年9月)、そのときとずいぶん様子が違うので少しばかり驚いたのだが、金沢大学は1995年(平成7年)に郊外への移転を完了、跡地は公園として整備されることが決まり、今はまだその整備事業が進められている途中のようだった。整備工事に伴う立入禁止区域もあり、時間的な余裕もあまりなかったため、金沢城趾をゆっくりと見学できなかったのが残念だった。整備工事が終了した後の金沢城址公園を、もう一度訪ねてみたい気がする。
参考情報
兼六園は通常は入園料が必要だ。年に数回、年末年始やお盆の時期、桜の時期などには無料開放が行われるとのことだ。ペット連れの入園はできない。入園料金や開園時間、開園日、その他の注意事項については兼六園公式サイトや兼六園観光協会サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通

金沢へはJR北陸本線で、金沢駅から兼六園へはバスを利用する。路線バスで10分強とのことだ。また金沢駅と兼六園とを結ぶシャトルバスや、市内周遊バスなども利用できる。詳細は兼六園公式サイトや兼六園観光協会サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)の「アクセス」ページを参照されたい。

車で来訪する場合は北陸自動車道金沢森本ICから国道159号線を南下、あるいは金沢東ICから国道8号線を西進、途中で県道200号線に折れて南下、または金沢西ICから国道8号線を北上、すぐに県道25号線へと折れて東進、国道157号線を北へ折れるなどすれば兼六園に向かうことができる。兼六園周辺は地元の人でなければ少々道がわかりづらいため、予め地図をよく確認しておくか、ナビの利用をお勧めする。

駐車場は兼六園北側の「兼六園下」交差点の角に「兼六駐車場」が設けられており、これを利用すればよい。兼六駐車場はもちろん有料だが、500台を超える収容台数がある。兼六園周辺には他に駐車場はないようだが、西方の香林坊周辺には数多くの民間駐車場が点在している。

遠方から車で金沢観光に訪れ、香林坊に宿泊した人なら、宿泊施設の駐車場に車を駐めたまま、兼六園に徒歩で向かうのがお勧めだ。

飲食

兼六園は国の特別名勝の庭園ということもあり、庭園保護のため、庭園内でシートを敷いてお弁当を広げることはできない。

本文にも記したように兼六園には有料区域の内外合わせて10件ほどの茶店があり、食事も可能だ。兼六園から出て、西へ向かえば金沢市中心部の繁華街で、数多くの飲食店がある。場所を変えて食事を楽しむのもお勧めだ。

周辺

兼六園は金沢市のほぼ中心に位置しており、周辺には数多くの観光名所が点在している。

本文にも記したが兼六園の北西側には道路を挟んで金沢城趾を整備した金沢城公園がある。兼六園の桂坂口と金沢城公園の石川門が石川橋で繋がれており、兼六園と金沢城公園と合わせて一組の観光地と言ってもいい。

兼六園の南西側には県立歴史博物館や県立美術館、中村記念美術館、金沢21世紀美術館などが並ぶ。金沢21世紀美術館と金沢城公園の間には旧県庁をリニューアルした石川県政記念しいのき迎賓館があり、その西の中央公園には石川四高記念文化交流館が建っている。さらにその西は香林坊の交差点、金沢市中心部の繁華街だ。香林坊の交差点から西へ入り込んでゆけば長町武家屋敷跡、江戸時代を彷彿とさせる景観が楽しめる。

兼六園の北、浅野川大橋の袂には主計町茶屋街、浅野川を越えるとひがし茶屋街が風情ある町並みを見せる。ひがし茶屋街の東には寺社が数多く建ち並び、その東方では卯辰山が金沢の町を見下ろしている。兼六園から南西へ進んで犀川を越えるとにし茶屋街、その東側の寺町にも数多くの寺院が建ち並んでいる。
兼六園

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