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JR根岸線の関内駅を北口から出て、そのまま少しばかり進むと、馬車道が海岸方向へ向かって延びている。馬車道とは反対の方角へは吉田橋を渡って伊勢佐木町の繁華街が続く。その伊勢佐木町を歩いてみた。 |
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関内駅から北西の方角へ国道16号を渡ってさらに少しばかり進むと馬車道の南端にあたる交差点に至る。馬車道から延びる道路は根岸線の線路をくぐって橋を渡る。少々古めかしい意匠の欄干が印象的な橋だが、この橋が吉田橋だ。かつて横浜開港期、開港場と外部とは堀川で隔てられていたわけだが、当時吉田橋はこの堀川に架けられて開港場と外部とを繋いでいた。
吉田橋は当初は木造の橋だったが、横浜の街が栄えるに従って交通量も増加、より堅牢な橋が望まれるようになった。1869年(明治2年)に完成した鉄橋は横浜開港期の数々の土木事業の功績で知られるイギリス人の土木技師プラントンの設計によるもので、1868年(慶応4年)に架けられた長崎の「くろがね橋」や1870年(明治3年)に完成した大阪の「高麗橋」などとともに日本の鉄橋の先駆けとなったもののひとつだった。珍しい鉄の橋は「かねの橋」と呼ばれ、横浜の新名所になったという。その後、1911年(明治44年)には鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられている。 現在、橋の下には首都高速が走っている。車の流れを跨ぐ現在の吉田橋の欄干は「かねの橋」時代の吉田橋のものを復元したのだという。吉田橋を「関外」側へと渡った先に延びる賑やかな通りが伊勢佐木町の商店街だ。 |

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現在の横浜の中心市街にあたる地域は古い時代には海だったという。深く入り込んだ浦の先には細長く砂州が横へ延びていて、そこから「横浜」の名があるのだという。その入江の一部を吉田勘兵衛が埋め立てた。これがほぼ現在の伊勢佐木町周辺の一帯にあたる。吉田勘兵衛は江戸の幕府御用商人だった人物で、この埋め立てには九年の歳月を要した。埋め立てた土地には「吉田新田」の名が与えられた。この偉業を讃えた四代将軍徳川家綱による命名ともいう。 やがて時代は下って1800年代後半、横浜の開港が決まると入江の残りの部分も埋め立てられて開港場が造られ、波止場が築かれた。開港場と外部とを遮断するために堀川が開削され、その土砂によって吉田新田の沼地も埋められる。そして1858年(安政5年)、横浜開港を迎えるが、それから十年と経たない1866年(慶応2年)に「豚屋火事」と呼ばれる大火によって開港場の大部分が焼失してしまった。現在の横浜公園にあった港崎(みよざき)遊郭も焼けてしまい、火災からの復興に際して遊郭は関外へと移されることになった。
それらも関東大震災では壊滅、復興した街には洋画の封切館として知られるオデヲン座などの映画館が建ち並んだ。昭和初期の伊勢佐木は流行の先端の街だったと言ってよいだろう。封切された洋画や食事を楽しみつつ伊勢佐木の街を散策することは「イセブラ」と呼ばれ、粋でお洒落な人々で溢れた。その伊勢佐木も1945年(昭和20年)の横浜大空襲で焼失、戦後は米軍に接収された。1950年代半ばになる頃には接収も解除され、再び復興、以来、横浜を代表する繁華街のひとつとして賑わっている。 |

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吉田橋から伊勢佐木町の商店街に入ると、高くそびえたモニュメントが出迎えてくれる。「ウェルカムゲート」と呼ばれるそのモニュメントは夜はライトアップされて美しい。歩行者専用となった「イセザキモール」は買い物客などで賑わっている。「ウェルカムゲート」からすぐ左手には「横濱カレーミュージアム」がある。少し先の右手には「スターバックス」もある。伊勢佐木町の新しい顔と言ってよいだろう。
歩行者専用なのは四丁目までで、五丁目から七丁目にかけては通りの中を車道も抜けている。車両の通行はそれほど多くはなく、のんびりと散策を楽しむことができる。一丁目から七丁目に向けて歩くととさすがに次第に人々の姿も少なくなってくるが、それもかえって地元の人々のための街としての魅力が静かな佇まいの中に感じられて良いように思える。 |
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並ぶ店は多岐に渡る。服飾店、軽食の店、菓子店、雑貨の店、理容店、居酒屋、貴金属店、歯科医、靴店、古書店、陶器店などなどが軒を並べ、それらの店先の様子を眺めてゆくのは楽しい。個人商店らしいそれらの店々に混じってスーパーや銀行なども並ぶ。 昔ながらの珈琲店が健在なのも嬉しい。ファミリーレストランやファーストフード店の増加の影響などで街角からいわゆる「喫茶店」が少なくなったと言われるようになって久しい。最近ではいわゆる「カフェ」が台頭し、ますます「喫茶店」は姿を消しつつある。街角の喫茶店はどこか「隠れ家」的な雰囲気が良く、ちょっと薄暗い店内に好みの音楽などが流れていれば妙に落ち着いたものだった。そうした少し懐かしい佇まいの珈琲店が、伊勢佐木町にはある。
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「伊勢佐木町ブルース」という歌がある。1968年(昭和43年)に青江三奈が唄って大ヒットとなった曲だった。川内康範の作詞、鈴木庸一作曲による「伊勢佐木町ブルース」は優れた楽曲であったことももちろんだが、イントロ部分の「ためいき」がひどく印象的で、青江三奈の魅惑的な歌唱によって100万枚を売り上げるヒットとなり、その年のレコード大賞歌唱賞を受賞した。 この「伊勢佐木町ブルース」に唄われた町が、横浜伊勢佐木町だった。伊勢佐木町はもちろんこの曲のヒットを待つまでもなく横浜の代表的な繁華街のひとつだったが、この曲の大ヒットによって全国的な知名度を得たと言ってよいだろう。青江三奈によって唄われる「伊勢佐木町ブルース」は、どこか秘め事めいた雰囲気もあって、大人の夜の街の風情をうまく表現して素晴らしかった。地方に暮らして横浜を知らない者にとっても、それは横浜の繁華街の夜の情景をまざまざと連想させて、遠い街への憧れにも似た想いを抱かせてくれたものだった。 |
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青江三奈は本名を井原静子という。1945年(昭和20年)、東京都江東区に生まれている。高校時代からジャズを唄い、高校を卒業するとクラブ歌手として唄っていたという。1966年(昭和41年)、「恍惚のブルース」で歌謡界にデビュー、ジャズをルーツに持つ歌唱とハスキーな声質が人気を集め、「ブルースの女王」と呼ばれることになった。ヒット曲は数多く、「長崎ブルース」や「大阪ブルース」、「池袋の夜」といったいわゆる「ご当地ソング」も多い。「伊勢佐木町ブルース」もそうした曲のひとつだった。 1980年代以降は日本歌謡界の様相が変わっていったこともあってテレビ番組などでその姿を見る機会も少なくなっていった観があるが、息長く活動を続け、1993年(平成5年)にはマル・ウォルドロンやグローバー・ワシントンjrといった錚々たるメンバーをゲストに迎えて本格的なジャズ・アルバムも発表している。しかし、2000年(平成12年)7月、すい臓ガンのために惜しまれつつ世を去る。享年54歳、早すぎる死だった。
歌碑の前面の下部に小さなボタンがある。押すと「伊勢佐木町ブルース」が一分間ほど流れる仕組みで、あの「ためいき」を聞くことができる。買い物客が行き交う昼間の伊勢佐木町には、その歌声は少々不釣り合いであるような気もして、一人で歌碑の前に立って耳を傾けるのは少しばかり気恥ずかしいようでもある。 |

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伊勢佐木町を、人々は「ザキ」と呼んだ。「ザキ」の響きには「伊勢佐木町ブルース」に唄われた街の匂いがある。「伊勢佐木町ブルース」からすでに三十年以上が経つ。あの歌は昭和歌謡を代表する歌のひとつだっただろう。流行歌にも唄われ昭和の時代を謳歌した「ザキ」、その街の佇まいには今も強く「昭和」の香りが残っている。ところどころに新しい店の並ぶモールをその香りが覆い、伊勢佐木の街をいっそう魅力的に見せてくれるようでもある。 |
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伊勢佐木町の南東側には国道16号が平行して走り、その向こうにはこれもほぼ平行して大通り公園がある。北西側には大岡川が流れ、一丁目から七丁目に辿るに連れて商店街と大岡川は近づく。六丁目と七丁目との境の交差点から南東へ向かえば市営地下鉄の阪東橋駅が、北西側に迎えば太田橋で大岡川を渡って京浜急行の黄金町駅が近い。さらに七丁目を抜けると富士見川公園という小さな公園がある。最寄りの駅から周辺の散策を兼ねて伊勢佐木町を訪ねるのも楽しい。 |
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