横浜線沿線散歩街角散歩
相模原市古淵〜町田市矢部町
境川河畔
(古淵〜矢部町)
Visited in November 2008
境川河畔
11月中旬の秋晴れの日、境川の河畔を歩いた。今回は古淵駅付近から上流側へと辿ってみよう。終着点は特に決めずに歩き、適当なところでバスに乗ることにしよう。
境川河畔
横浜線を古淵駅で降り、北へ進んで「古淵駅北」交差点をそのまま直進、住宅が並ぶ中を辿るとやがて坂を下り、鹿島神社の前に出る。鹿島神社の木々が秋の色に染まり始めている。鹿島神社の前を東に折れるとすぐに「なつつばき通り」、「境川橋西」交差点だ。すぐ北側を境川が流れており、境川橋が架かっている。境川の河岸に出て、上流側に向かって左側、右岸側の舗道を辿ってゆこう。対岸の町田市側は団地だが、こちら側の河岸は林だ。鬱蒼と木々が茂っている。ところどころに半円状の広場が設けられているのは境川の蛇行の跡だろう。そうした広場はたいていは東京都管理地となっている。広場のひとつで尺八の練習をしている男性の姿があった。境川橋を離れると車の音も聞こえなくなる。辺りはとても静かで、川の水音だけが聞こえている。

龍像寺坂
やがて「境橋」、境橋を渡る道路を左手(南側)に向かうと木々に包まれた坂道になっている。「龍像寺坂」というそうだ。地名標柱が立っており、龍像寺の山門へ続いているのでこの名があり、昔は「大坂」とも呼ばれていたと解説が添えられている。坂道の横手は鬱蒼とした林になっているが、相模原市の保存樹林なのだそうだ。坂を少し上ると道の分岐があり、そこに「一本松跡地」との案内がある。「右当麻山道、左磯部街道」と添えられている。ここが当麻山道と磯部街道との分岐点で、かつての奥州古道の跡であるらしい。「一本松跡地」との名があるということは、かつて道の分岐の目印となるような見事な松の木があったのだろう。龍像寺坂を上って河岸の台地上へ出ると淵野辺東小学校が建っているが、坂を上らず、坂下から西へ分岐する道へと進もう。

龍像寺
「龍像寺坂」の下から少し進むと左手に龍像寺が建っている。縁起に依れば、暦応年間(1338年〜1341年)、境川に棲んでいたという大蛇をこの地の地頭淵辺義博が退治し、三体に分散して葬り、それぞれ龍頭寺、龍像寺、龍尾寺としたという。やがて三寺とも荒廃してしまったが、1556年(弘治2年)に巨海和尚によって龍像寺だけが再興されたものという。龍骨の一部と義博の矢じりなどが寺宝として所蔵されているという。江戸時代にこの地の地頭だった岡野一族の墓所も龍像寺の墓地にあるという。寺の前の駐車場脇ではテイオウダリアが咲き、秋の日を浴びている。薄ピンクの花が秋の青空に映えてとても美しい。

龍像寺の前の道路を進もう。道は北西の方角に向かって延びている。道脇は河岸に広がる平地で、田園風景の中に住宅が建ち並んでいるが、中には立派な構えの農家もある。昔からこの地に住まわれているのだろう。
縁切り榎
しばらく進むと複雑な形の交差点に出る。合計すると六本の道路が交わっている形だ。車で通りかかると運転に気を遣いそうな交差点だが、普段は車両の通行も少なく、あまり混乱もないのだろう。その交差点の北側に、印象的に一本のエノキが立っている。「縁切り榎」という。エノキの根方に、その由来を簡単に記した案内板が「大野北公民館」の名で設けられている。「縁切り榎」には龍退治伝説に語られる淵辺義博にまつわる別の伝説が残っている。

鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による建武の新政が始まった頃、関東では鎌倉に将軍府が置かれて足利尊氏の弟である足利直義が執権を務めていた。淵辺義博はその足利直義に仕えていた。1334年(建武元年)、後醍醐天皇の子、護良親王に皇位簒奪の嫌疑が掛けられ、護良親王は鎌倉の足利直義に預けられて幽閉の身となる。翌年、旧鎌倉幕府第14代執権だった北条高時の子、時行が反乱を起こす。世に言う「中先代の乱」である。援軍を得て大群となった北条時行軍は各地で鎌倉将軍府軍に勝利する。井出の沢(現在の町田市、菅原神社境内)に於いて足利軍が諏訪頼重らの軍に大敗するのもこの時である。足利直義は鎌倉から落ち延びるが、この時、北条時行が護良親王を奉じて旗印とすることを恐れ、淵辺義博に護良親王殺害を命じた。「太平記」に依れば護良親王は淵辺義博によって命を絶たれているが、他の伝説が残っている。護良親王を憐れんだ淵辺義博は主君の命に背いて護良親王を逃がし、妻子に咎めが及ぶのを恐れて境橋に架かる中里橋の袂、榎の木の下で妻子との縁を切ったというのだ。それが「縁切り榎」の名の由来だ。

中里橋
「縁切り榎」の近く、境川には中里橋が架かっている。もちろん境川も中里橋も往時のままの姿で残っているわけではないが、ひととき古い時代の伝説に思いを馳せるのも楽しい。伝説のように淵辺義博が護良親王を逃がし、この榎の下で妻子との縁を切ったのか、あるいはまた別のエピソードが長く語れるうちに姿を変えたものか、もう七百年近くも前の出来事だ。この縁切り榎の伝説にしても、龍退治の伝説にしても、淵辺義博がこの地の地頭として人々の信頼と尊敬を得ていたのだろうということが覗えるエピソードだ。
河川水質汚濁常時自動監視所のイチョウ
「縁切り榎」を後にして境川の河岸をさらに進もう。「新中里橋」が架かり、新しい広い道路が境川を跨いでいる。道路を横切り、境川の河岸を辿る。右岸側の岸辺に何やら施設がある。見ると「河川水質汚濁常時自動監視所」と書かれている。どのような施設なのか、その名から一目瞭然だ。その敷地内にはイチョウの木が立っており、そろそろ黄色に染まり始めている。境川の両岸は住宅地だ。11月も半ばだというのに、日差しが強く、歩いていると汗ばむほどだ。木陰に入ると吹き抜ける風が涼しい。

境川山根緑地付近
境川の右岸をさらに上流側に歩く。やがて根岸橋を過ぎ、河川管理境界を示す標識があった。ここから下流側は「東京都南多摩東部建設事務所」、上流側は神奈川県相模原土木事務所」の管理なのだそうだ。境川は町田市と相模原市との市境にほぼ等しいわけだが、右岸側を神奈川県が、左岸側を東京都が管理するというわけにもいかないだろうから、区間によって管理が分かれているのだろう。さらに進むと山根橋が近い。左岸の町田市側には木々が茂っている。「境川山根緑地」という緑地であるようだ。右岸の相模原市側、山根橋の袂に小さな緑地スペースがあり、「根岸橋水車小屋の跡地」と書かれている。昔、水車小屋があったのだろう。その頃の境川は蛇行していて、周辺は長閑な田園風景だったに違いない。その頃の風景を見てみたい気がする。

コサギ
山根橋を過ぎて間もなく、境川の川面にコサギの姿を見つけた。どうやら川の中の小魚を狙っているようだ。しばらく見ていると、捕食の瞬間を見ることができた。残念ながら一度捕らえた小魚を逃がしてしまい、再チャレンジでようやく飲み込むことができたようだった。コサギの姿も、コサギの捕食の瞬間も、それほど珍しいものではないが、こうして見ているのはやはり楽しい。

コサギが下流側に飛び去ってゆくのを見届け、こちらもまた歩を進めることにしよう。しばらく行くと両国橋という橋が架かっている。幹線道路ではないために交通量も少ない。この橋を渡って左岸側へ移動し、そのまま境川の河岸を離れて箭幹八幡宮を目指すことにしよう。
箭幹八幡宮
箭幹八幡宮
両国橋から北へ百数十メートル進むと町田街道の「桜美林学園東」交差点と淵野辺駅とを繋ぐ道路に出る。そのまま横切って数十メートル進めば箭幹八幡宮の鳥居が迎えてくれる。「箭幹」は「やがら」と読む。木々に包まれた参道を辿るとやがて社殿が見えてくる。

箭幹八幡宮
箭幹八幡宮は616年、勅命によって京都の石清水八幡宮を勧請して建立された神社だという。なかなかの古社である。1062年(康平5年)、奥州を平定して鎌倉に戻る途中の源義家がこの地に立ち寄った際、病になって悪鬼に責められる夢に苦しんでいたが、八幡宮に祈願したところ、夢に白髪の老人が現れて弓矢をもって悪鬼を追い払い、病が快復したという伝説がある。源義家は八幡宮の神に感謝して本社、末社を再興し、八幡宮を箭幹八幡宮と名付けたという。「矢部」という地名の由来もこれにあるという。

箭幹八幡宮
社殿の前には町田市有名文化財の随身門(ずいしんもん)が建っている。随身門も本殿も江戸時代中期に建てられたものらしい。箭幹八幡宮は古社らしく木々に包まれて境内は広く、一角には滑り台やブランコ、シーソーといった遊具類が置かれており、近所の子どもたちが遊んでいる。昔から子どもたちは神社やお寺の境内で遊んだものだが、そうした昔ながらの光景が残っている。散策の無事を願って参拝してゆこう。
箭幹八幡宮
根岸日向根公園
箭幹八幡宮を後にして少し南東側へ戻ろう。町田駅前から北西へと延びてきた道路が小高い丘の下をトンネルで抜けるところがある。トンネルは「日向根(ひなたね)トンネル」という。このトンネルの上、丘の上は根岸日向根公園という小公園になっている。広場があり、ブランコや滑り台などの遊具が置かれただけの公園だが、この付近は忠生遺跡が発掘された場所らしい。忠生遺跡は忠生地区の区画整理事業の際に発掘調査されたもので、旧石器時代、縄文時代の集落跡、古墳時代、室町時代の集合墓地跡が発掘されたという。公園隅に忠生遺跡に関する解説板が設けられている。この遺跡があったために、道路が造られたときも丘を切り崩すことをせず、こうしてトンネルになったのだろう。

根岸日向根公園からバス通りに戻り、そろそろ帰路を辿ることにしよう。「箭幹八幡前」のバス停から淵野辺駅行きのバスに乗るのがよいかもしれない。
境川河畔にて境川河畔にて
今回の境川散策では縁切り榎と箭幹八幡宮だけは見てみたいと思っていたから、両方を見ることができてよかった。次の機会には今回境川の河岸を離れた両国橋の付近から上流側へと歩いてみたい。
境川