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1970年代後半、ポップ・ミュージック・シーンはパンクとディスコとAORの時代だった。従来のロックに見切りをつけた若者たちはパンクを支持した。1970年代半ばにニューヨークのアンダーグラウンド・シーンから始まったパンク・ムーヴメントはロンドンに飛び火し、1977年頃にそのピークを迎えていた。ロックにもパンクにも興味のない若者たちはディスコで踊っていた。ビージーズやEW&Fがヒット・チャートを席巻していた。パンクもディスコも「卒業」した人々はマイケル・フランクスやジョージ・ベンソンやボビー・コールドウェルを聴いて「大人」を気取っていた。1970年代の後半は、乱暴に言い切るならばそんなふうに象徴される時代だった。 ケイト・ブッシュのデビュー・アルバム「The Kick Inside」はそのような時代の真っ直中に発表されたのだった。1978年に発表されたこの作品は、もし何かがほんの少し違っていたなら、注目されることもなく時代の中に埋もれてしまっていたかもしれなかった。しかしそうはならなかった。彼女の音楽はパンクでもなく、ディスコでもなく、AORでもなかったが、それでも少なからぬ音楽ファンの耳を捉え、魅了した。決して「追い風」とは言えない時代の状況の中にあって、彼女のデビュー・アルバムが評価され、支持されたことは、彼女の圧倒的な才能と個性、そしてその結実としての作品の質の高さに依るものと言って間違いない。シングルとして発表された「Wuthering Heights(嵐が丘)」一曲だけで、彼女の魅力の虜となったファンも少なくはなかっただろう。 |
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ケイト・ブッシュは自ら楽曲を創作し、ピアノを演奏し、そして唄う。そのスタイルは簡単に言えば「シンガー・ソングライター」と呼ぶべきものだった。しかし彼女の音楽の不思議な魅力は、彼女を単なる「シンガー・ソングライター」と呼ぶことに躊躇いを感じさせるものだった。その楽曲の魅力、その歌唱の魅力、声質そのものの魅力は、「シンガー・ソングライター」という素朴な印象を与える呼称が似合わなかった。彼女はまさに本来の意味での「アーティスト」だった。 デビューに際してピンク・フロイドのデイヴ・ギルモアの協力が得られたということだが、そうしたエピソードは彼女の音楽に「プログレッシヴ・ロック」の面影を感じさせるものでもあった。このデビュー・アルバムの一部にもデイヴ・ギルモアは名を連ね、当時一部の「プログレッシヴ・ロック」ファンの支持を得たのも事実だっただろう。しかし彼女の音楽は従来の「プログレッシヴ・ロック」とは一線を画していた。と言うより、1970年代前半に隆盛を誇った「プログレッシヴ・ロック」の地平をさらに超えたところに、彼女の音楽はあったようにも思える。 ポップ・ミュージックのファンの中には「ジャンル」にこだわらずに「美しい女性ヴォーカル」を好む人々がいる。そうした人々がフェイバリット・シンガーとしてルネッサンスのアニー・ハズラムやイリュージョンのジェーン・レルフらの名と共にケイト・ブッシュの名を挙げることも当然のことだろう。「プログレッシヴ・ロック」の中に位置して捉えられるそうした音楽、叙情的で耽美的、そして少しばかり翳りを帯びたロック・ミュージックの一端としてケイト・ブッシュの音楽を捉えることも間違いではあるまい。ケイトの歌声はそうした女性ヴォーカルの音楽を好む人々の耳を魅了するのに充分なものだ。しかし、ケイト・ブッシュの音楽はそれらのどのような音楽とも似ていないし、その歌声は他の誰にも似ていない。その唯一無二の音楽的才能とオリジナリティが、デビュー当時に少なからぬ音楽ファンに驚きを与えたと言ってもいい。ケイト・ブッシュのデビューはまさに衝撃的な出来事だったのだ。 |
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アンドリュー・パウエルのプロデュースによるこの作品は、ケイト・ブッシュの独創的で魅力的な歌唱を中心に据え、それを抑制の効いた知的なロック・ミュージックが支えている。ケイトの歌唱の印象は時に幻想的、あるいは神秘的であり、耽美的でさえあるが、それを支える演奏は決して従来の「プログレッシヴ・ロック」のイディオムを踏襲したものではない。その演奏には過剰な大仰さなどは皆無で、常に知的でクールだ。そうした適度にポップで、ウイットに富み、インテレクチュアルな演奏が、いかにも英国のロック・ミュージック的な翳りを感じさせて、ケイトの楽曲と歌唱の魅力を際だたせている。ケイト・ブッシュの音楽が「ジャンル」というものを遙かに超えたところに存在するのは明白だが、しかしその一方でこの作品が紛れもない「ブリティッシュ・ロック」の作品としての一級品であることまた事実だろう。 英国のロック・ミュージックとして正統的とも言える音像の中で、しかしケイト・ブッシュの歌声は聴き手の想像を超えて変幻自在にさまざまな表情を見せる。独創的なメロディを綴るその高く澄んだ歌声は、まるで妖精の飛翔のようだ。深く暗い森の奧から陽光眩しい草原へ、幻想の花畑から霧に沈んだ街の路地裏へ、恋の熱情から愛の哀しみへ、無垢な幼さから母性の逞しさへ、ケイトの歌声は聴き手の感覚を弄ぶかのように、まさに透明な翼を持った小妖精のように自由に飛び回る。そのイメージは幻想的で神秘的な感触に彩られつつもリアリティに溢れ、美しい表情を保ちつつも決して耽美的に過ぎない。 その音楽、その歌唱は、時に物語的で寓話的な感触さえ感じさせるが、それはケイト・ブッシュが単なる「シンガー」ではなく、真の意味での「アーティスト」であることの証左であるだろう。その歌唱は「唄う」という行為より「演じる」という行為に近いかもしれない。希に「歌唱」という行為によって楽曲に表現された世界を「演じて」みせる才能の持ち主がいるものだが、ケイト・ブッシュはまさにそうした才能なのだと思える。創作という行為、歌唱という行為、さらにはステージ上でのパフォーマンスなども含めたすべての表現行為を通して、彼女は自身の内的世界を作品として昇華し、聴衆の前に提示してみせる。そうした彼女の「表現者」としての在り方と才能とを、聴き手はこの音盤に刻まれた音像の中に読みとるのだ。 |
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デビュー・シングルとして発表され、ケイト・ブッシュの名を世界に知らしめた「Wuthering Heights(嵐が丘)」は、エミリー・ブロンテ作の同名の小説にインスパイアされて作られた楽曲で、曲中には小説の登場人物「ヒースクリフ」の名が印象的に登場する。日本ではテレビ番組のオープニングに使用されたために耳に馴染みのある人も多いだろう。 「Them Heavy People」は歌詞中に登場する「Rolling the ball」というフレーズが印象的で、そのため「ローリング・ザ・ボール」という邦題が付けられている。この曲は日本では当時テレビCMにも使用され、「Wuthering Heights」に続くシングルとしても発売されたためによく知られている楽曲だろう。 新人アーティストのデビュー・アルバムでは、シングルとして発売された楽曲だけが突出し、他の楽曲は凡庸であったりするが、ケイト・ブッシュのこのアルバムはそんなことはない。もちろん「Wuthering Heights」はケイト・ブッシュの代表曲と言える名曲には違いないが、アルバムの中でこの楽曲だけが「浮いて」しまっていることはない。この楽曲も含めたすべての楽曲が同等の完成度をもって全体の作品世界を形作っている。 絵画的で映像を喚起するイメージ、シュールで意味深い歌詞など、ケイト・ブッシュの音楽の魅力の断片を語れば限りがない。しかし、彼女の音楽の最も大きな魅力は、その高く澄んだ歌声そのものにあるのではないか。例えば「Wuthering Heights」のサビの部分で、そして他にもさまざまに自在に印象を変える彼女の歌声の表情に、「鳥肌が立つ」ような、あるいは「ゾクッとする」ような感触を味わったことのあるファンも少なくないのではないだろうか。その声の持つ表情は幻惑的な魅力を放ち、時にエロティックなほどに扇情的であり、あるいは聴き手の心の深層をえぐり取るように刹那的で鋭い。そうした彼女の「歌声」そのものの持つ表現力、「迫力」と言ってもよいような、聴き手に迫る「声」そのものの力が、彼女の音楽を無比なものにしているようにも思える。 |
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この作品が制作され、発表された時点で、ケイト・ブッシュはまだ10代だった。このデビュー・アルバムは、彼女のその若さ故の「危うさ」と「繊細さ」とを併せ持っているとも言えるだろう。若いケイトは自らの溢れる才能と表現への欲求を、ある意味で少しばかり持て余していたのかもしれない。しかしそうした「若さ」はこの作品の欠点となっているわけではない。そうした「危うさ」や「繊細さ」はそのまま彼女の音楽の魅力となり、彼女の才能を示し、その可能性を示唆するものに成り得ていると言ってよいだろう。 ケイト・ブッシュの音楽は、少々難解で、「聴き手を選ぶ」性質のものであるかもしれない。その個性的な歌声は万人向けのものではないかもしれない。しかし、そこに表現された彼女の作品世界に少しでも共感し、心惹かれる者にとって、ケイト・ブッシュは唯一無二のアーティストであるだろう。決してヒット・チャートを賑わすようなタイプの音楽ではないが、そもそもそうした在り方とは全く異なった地平の上に彼女の音楽は在る。彼女の音楽はまさに「孤高」という言葉が相応しい。パンクとディスコとAORの時代の中に埋もれてしまうことのなかった理由も、そこにある。この後、ケイトの音楽世界はさらに深化してゆく。その孤高の音楽世界の出発点が、この作品である。 |
This text is written in April, 2002 by Kaoru Sawahara.
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