幻想音楽夜話
Queen II
1.Procession
2.Father To Son
3.White Queen (As It Began)
4.Some Day One Day
5.The Loser In The End
6.Ogre Battle
7.The Fairy Feller's Master-Stroke
8.Nevermore
9.The March Of The Black Queen
10.Funny How Love Is
11.Seven Seas Of Rhye

Freddie Mercury : vocals, piano / harpsichord.
Brian May : guitars, vocals, bells.
John Deacon : bass guitar, acoustic guitar.
Roger Meddows Taylor - percussion, vocals.

Produced by Roy Thomas Baker and Queen except 'Nevermore' and 'Funny How Love Is' prodeced by Robin G. Cable and Queen, 'The March Of The Black Queen' produced by Roy Thomas Baker, Robin G. Cable and Queen.
1974
Thoughts on this music(この音楽について思うこと)

 日本ではデビュー・アルバムの発売が本国よりも遅れたせいもあって、その数ヶ月の後にはセカンド・アルバムが発売された。デビュー・アルバムでクイーンの魅力に心惹かれていたファンにとって、だからセカンド・アルバムは「待ちに待った」というよりは、たたみかけるように続けざまに届けられたという印象がある。

 デビュー曲「炎のロックン・ロール(Keep Yourself Alive)」からデビュー・アルバムの発売、そしてセカンド・アルバムからの先行シングル「輝ける七つの海(Seven Seas Of Rhye)」の発売とセカンド・アルバムの発売まで、まさに興奮の冷める間もなく次の興奮がもたらされたという印象がある。そのような中に届けられたクイーンのセカンド・アルバムは、「ブリティッシュ・ロックの期待の新星の登場」に感じた興奮の頂点だったと言っていい。

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 クイーンのセカンド・アルバムはタイトルをシンプルに「QUEEN II」というものだった。その音楽性は明らかにデビュー・アルバムの延長上にあったが、だからこそクイーンのファンを狂喜させるものだった。当時はまだLPレコードの時代だったから、アルバムはA面とB面とに分けて構成され、A面には「White Side」、B面には「Black Side」との形容が付加されていた。それと呼応するように、メンバーの顔写真をあしらったジャケットも外側は「黒」を基調とし、見開きとなった内側は「白」を基調にデザインされたものだった。「White Side」には「White Queen (As It Began)」という楽曲が、「Black Side」には「The March Of The Black Queen」という楽曲がそれぞれ収録され、「白」と「黒」の対比はこのアルバムのコンセプトになっていたのだ。

 「Procession」から「The Loser In The End」までが、LP時代のA面、すなわち「White Side」、「Ogre Battle」から「Seven Seas Of Rhye」までがB面、すなわち「Black Side」となる。「White Side」と「Black Side」とでは明らかに音楽のもたらす印象が異なる。「The Loser In The End」までを聴き終わった後、LP時代には盤を裏返すという手間があり、その手間が「White Side」から少しばかり味わいの異なる「Black Side」へ移行するための緩衝地帯のような役割を果たしてくれたものだった。CD時代となった今ではすべての楽曲がそのまま一気に聴けてしまうが、LP時代を知らない若いファンであれば、「The Loser In The End」と「Ogre Battle」との間でいったんプレイヤーを止め、一呼吸置いてから再び聞き始めるということを試してみるといい。「Black Side」のもたらす印象、特に「Ogre Battle」のイントロ部の与える興奮が、少し違って聞こえるかもしれない。

 このクイーンのセカンド・アルバムは、冒頭に導入部として「Procession」という小品が置かれるあたりや、そして特に「Ogre Battle」から「Seven Seas Of Rhye」に於ける見事な構成によって、コンセプト・アルバムのように思われている場合もあるようだが、「白と黒の対比」というコンセプト以外に、ストーリー性のあるコンセプトを携えているわけではない。しかし全体の統一感、特に「Black Side」に於けるドラマティックな構成が素晴らしく、アルバム全体でひとつのまとまった作品であるかのような完成度を誇っている。

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 「White Side」は、ロジャーのペンによる「The Loser In The End」を除く全楽曲がギターのブライアン・メイによる楽曲だ。そのせいもあるのか、どの楽曲もギター・ミュージック的な印象があり、楽曲そのものも比較的シンプルな印象がある。

 冒頭の「Procession」は単語の意味としては「行列」とか「行進」などといった意味で、アルバムの導入部的な役割を果たす楽曲だ。響き渡るブライアンのギターは、それまでの一般的な「ロック・ギター」というものの常識を覆す音色だ。初めて耳にした時には「本当にギターによる演奏なのか」と思ったものだ。このアルバムでも「誰もシンセサイザーを演奏していない」との旨のコメントが誇らしげに添えられていたのが印象深く記憶に残っている。

 その「Procession」に導かれて演奏される2曲目の「Father To Son」はとても雄大な広がり感のある楽曲だ。煌めくようなギターの音に続いて一気にクイーンの音楽世界が繰り広げられ、聴き手を興奮に誘う。6分を超える長い楽曲だが、ドラマティックな構成を見せて飽きさせない。緩やかに流れるような曲想の中、中盤でハードにアグレッシヴな演奏が展開される様も聴き応えがある。遠ざかるようにフェイド・アウトしてゆくエンディングもいい。

 「Father To Son」のエンディングに被さるように始まる「White Queen (As It Began)」は静謐な中に荘厳さを湛えて、初期クイーンの隠れた名曲のひとつと言えるかもしれない。中世の古城を彷彿とさせる幻想性、悲劇的な曲想、ドラマティックな展開など、味わい深い楽曲だ。ブライアン・メイの奏でるギターの音色が印象深い。

 「Some Day One Day」は基本的にはシンプルなポップ・ソングだが、この頃のクイーンの音楽世界特有の色彩に彩られて幻想的な味わいを醸し出している。ギターの演奏、ベースの演奏、ドラムの演奏それぞれが美しく響いている。あまり興奮を誘わず、抑制された観のある曲想だが、そこがまたいい。風に流れてゆくような美しいメロディも印象的だ。

 「The Loser In The End」はドラム奏者のロジャー・テイラーのペンによる楽曲であるからか、ドラムの演奏を主体にしたパーカッシヴな印象のヘヴィなロック・ナンバーだ。ヴォーカルもロジャー自身が担当しており、他の楽曲とは少々異なった表情を見せる。この頃のクイーンの楽曲、演奏の中では、最もそれまでの一般的な「ハード・ロック」の文法に近い。そうした理由からこの曲を好むファンも少なくはない。

 絡みつくようなギターの演奏とともに「The Loser In The End」がフェイド・アウトしてゆき、「White Side」は終わりを迎える。こうして聞いてみれば、確かに「白」という色の印象を感じ取ることもできる。ブライアン・メイによる楽曲とロジャー・テイラーによる楽曲とによって構成されているが、壮大さを感じさせるブライアンの楽曲が続いた後に、ロジャーのロック・ナンバーが引き締めているという印象があり、なかなか構成が巧みだ。

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 そして「Black Side」だ。当時、LPレコードのB面すべてを費やして収録された楽曲群の織りなすドラマティックな音楽世界に衝撃を覚えたファンも少なくないだろう。すべてフレディ・マーキュリーによって書かれた楽曲で、楽曲そのものの魅力自体も素晴らしく、そしてまた巧みに構成された楽曲の並びによって、それぞれの楽曲の魅力がさらに増しているという印象がある。

 ノイズのような音のフェード・インから魔物の叫びのようなコーラスを経て、テープの逆回転によるギミックを使用した「Ogre Battle」の鬼気迫る演奏が始まった瞬間、鳥肌の立つような興奮を感じたファンも多かっただろう。「ogre」は「オゥガー」というふうに発音し、童話の世界に出てくる「人食い鬼」のことであるらしい。現在のCDや公式サイトのディスコグラフィなどでは日本語タイトルもそのまま「オウガ・バトル」となっているが、当時、この楽曲には「人喰い鬼の闘い」という日本語タイトルが付けられていたように記憶している。まさに幻想世界の幕開けである。たたみかけるようなハードな演奏が凄まじく、随所に挿入されたコーラスも印象的だ。中盤で効果音として挿入された叫び声など、まさに幻想の世界で繰り広げられる壮絶な闘いのシーンを垣間見るようだ。

 そして息つく間もなく「The Fairy Feller's Master-Stroke」だ。日本語タイトルは「フェリー・フェラーの神技」と付けられている。この日本語タイトルもなかなかいい。幻想の世界はなおも続く。「Ogre Battle」が闇の中で繰り広げられる壮絶な闘いのシーンであったとすれば、「The Fairy Feller's Master-Stroke」は光り輝く妖精たちの世界だ。ハードな演奏ではないが、煌めくような音像が飛び交いながら、めまぐるしくさまざまに表情を変える曲想が聴き手を不思議な幻惑の世界へと誘う。

 「The Fairy Feller's Master-Stroke」のエンディングと重なるようにリリカルなピアノが聞こえてくると「Nevermore」だ。1分少々の短い楽曲だが、ピアノを主体にしたロマンティックな曲想が印象的だ。「Ogre Battle」から「The Fairy Feller's Master-Stroke」と続いた後にこうした楽曲が置かれることによって、全体の音楽世界はさらに深まり、味わい深いものになっていると言えるだろう。コーラスの美しさも素晴らしい。

 その「Nevermore」を導入部とするかのように「The March Of The Black Queen」が始まる。イントロ部のピアノとギターが、何やら予兆めいた響きを伴っていてドラマティックだ。そして印象的なコーラスとともに「The March Of The Black Queen」の世界が繰り広げられてゆく。6分半という長さの楽曲で、その世界はまさに変幻自在、緩急を織り交ぜて、聴き手を幻想の世界へと連れ去ってしまう。やがて「ボヘミアン・ラプソディ」で完成するクイーンのドラマティックな音楽世界の、これは直接的な原点とも言えるのではないか。初期クイーンの楽曲の中でも人気が高く、ファンの間でも初期の名曲として知られている楽曲だ。この一曲を聴くだけで、ひとつの物語を味わうような興奮を感じる。エンディングにさしかかったときに味わう高揚感は何とも形容の言葉すら見つからない。

 そしてその高揚感がまさに頂点に達して「Funny How Love Is」へと続く。「The March Of The Black Queen」のエンディングから「Funny How Love Is」に移行する瞬間の高揚感は一種のカタルシスさえ与えてくれる。聴き手のイメージは遙かな空の高みに舞い上がり、世界を俯瞰しながら飛び去ってゆく。そのイメージが地平線の彼方に消えるようにフェイド・アウトしてゆき、「Seven Seas Of Rhye」へと戻ってくる。

 「Seven Seas Of Rhye」はこのアルバムの先行シングルになった楽曲で、ファースト・アルバムにはこの曲のヴォーカル無しの短いヴァージョンが収録されていた。当時はクイーンの人気が一気に高まっていた頃だったし、このシングルはなかなかのヒットになった。このアルバムの中で聞くと比較的シンプルなハード・ロックだが、アルバムの最後として引き締める役目を充分に果たしている。ハードな演奏の中に響くピアノの音色や高音のコーラスが美しい。エンディングの酔っぱらいの歌声のようなコーラスが面白い。シングルとして発表されて初めてこの曲を聴いた時、このエンディングはシングル用に短く編集されたものかと思ったものだった。アルバムでは「酔っぱらいのコーラス」から再びハードな演奏に戻って、さらに長い楽曲になっているのではないかと思ったのだ。手にしたアルバムで聞いてみるとシングルと同様なエンディングで、意外に思いながらも、これはこれでいいのだと満足したものだった。

 「Ogre Battle」から「Seven Seas Of Rhye」まで、楽曲の構成の妙が何とも素晴らしい。楽曲から次の楽曲への繋がりがとても見事で、それによって楽曲それぞれの魅力が倍加しているようにも思える。歌詞をよく見てみれば決して全体でひとつのストーリーを紡いでいるわけではないのだが、「Ogre Battle」から「Seven Seas Of Rhye」まで、組曲形式として構成されたひとつの作品のようにも思えてくる。実際にそのように解釈するファンも少なくはないのだ。まさに圧巻の6曲である。

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 クイーンがデビューした時、日本では「レッド・ツェッペリンとイエスの音楽性を併せ持つ」といった旨の形容で語られることがあった。もちろんレッド・ツェッペリンは「ハード・ロック」の象徴として、イエスは「プログレッシヴ・ロック」の象徴として、その名を用いられたものであって、クイーンの音楽性にレッド・ツェッペリンやイエスとの類似点が見られるという意味ではない。その形容が意味するように、確かに初期クイーンの音楽性には「ハード・ロック」的なアグレッシヴでヘヴィな演奏の魅力と、「プログレッシヴ・ロック」の要素を感じさせる劇的な展開や神話的幻想性の魅力が垣間見える。しかし言うまでもなくクイーンの音楽は「プログレッシヴ・ロック」ではなかった。では「ハード・ロック」だったのか。

 「ハード・ロック」と呼ぶなら、それも間違いではないのだろう。しかし、クイーンの音楽性には一般的な「ハード・ロック」に特有の手触りが感じられない。おそらくこのアルバム中で最もハードでヘヴィな演奏が繰り広げられているであろう「Ogre Battle」でさえ、どこか「ハード・ロック」とは異質な地平の上に立脚しているように見える。「汗の匂いがしない」という形容も当を得たものだろう。あるいは「リアリティがない」という形容でもいい。クイーンの音楽はあまりに華麗で流麗であるために、言い方は悪いが「上っ面を滑ってゆく」ような感覚があり、「フラストレーションの捌け口としてハード・ロックを聴く」というような聴き方に応えてくれないのだ。

 例えば世の中のすべてに不満を抱えながら生きる十代の日々に、ザ・フーの「マイ・ジェネレイション」を聴きながら、あるいはディープ・パープルの「ブラック・ナイト」を聴きながら、そしてまたヤードバーズの「トレイン・ケプト・ア・ローリン」やブラック・サバスの「パラノイド」を聴きながら、その音楽を聴くことによってそれが自分の代わりに何かを蹴っ飛ばしてくれるような、そんな痛快感を味わったものだった。クイーンの音楽は、そのような聴き方に適さない。

 なぜか。誤解を恐れずに言うなら、クイーンの音楽は基本的な立脚点が「ロック」ではないのだ。クイーンの音楽は「ロック」の意匠を借りて繰り広げられる第一級のエンターテインメントであり、「ロック」を超えたところに立脚する普遍的なポップ・ミュージックなのだ。クイーンの音楽は「ロック」という音楽のイディオムを含んでいるが、クイーンの音楽は「ロックであること」にその立脚点を置いていない。そしてクイーン初期のアルバム2枚、ファースト・アルバムとこのセカンド・アルバムは、「ハード・ロック」というものをその中に孕みながら結実した、クイーンによるエンターテインメントとしてのポップ・ミュージックの原点に他ならない。

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 しかし、実のところ、「ハード・ロック」であるとかないとか、「リアリティ」があるとかないとか、そんなことはどうでもいい。初期のクイーンが当時の「ブリティッシュ・ロック」というものの「香り」を濃厚に感じさせ、陰影に富んで幻惑的で華麗な音楽によってファンを魅了したのは事実だ。このアルバムに収録されたクイーンの演奏の何と魅力的であることか。何と美しく劇的で幻想的であることだろうか。何とスケール感に富み、雄大で奥深いことだろうか。この作品がもたらす興奮と高揚感の何と素晴らしいことか。このアルバムを聴くことによって感じる感動の前には、如何なる形容も意味をなさないような気がする。

 クイーンは続くサード・アルバムで微妙に音楽性を変化させて幻想的で神話的な色彩を脱ぎ捨て、さらに「オペラ座の夜」でクイーン・ミュージックのひとつの完成形を提示してみせる。それ以降にクイーンを知ったファン、そして1980年代以降になってクイーンを知った若い世代のファンにとって、このセカンド・アルバムはあまり評価の高いものではないらしい。確かに、後に音楽性を変化させて「ロック・ミュージック」の意匠を借りた「エンターテインメント・ショウ」を完成させたクイーンにとって、初期の2枚のアルバムの音楽はいわば「仮の姿」であったのかもしれない。若いファンにとっては充実期を迎える前の過渡期のような音楽性に見えるのかもしれないし、確かにそうであるのかもしれない。

 しかし、このクイーンのセカンド・アルバムは、クイーンの音楽性の変化の経緯や、「ロック・ミュージック」の基本的意義や、安易なジャンル論や、そういったものから遙かに隔たって「作品」として独立し、1970年代のブリティッシュ・ロックが生み出した名盤のひとつとしての輝きを失わない。このアルバムが発表されて、すでに30年ほどを経た。飽きるほど聴いてきたアルバムであるはずだが、未だに何度聴いても、聴くたびに引き込まれてしまう。聴き終わっても、「Father To Son」の雄大なイントロが、「Ogre Battle」の壮絶な演奏が、そして「The March Of The Black Queen」の高揚感溢れる展開が、耳の中に残って鳴り響く。その音楽的感動は決して色褪せることなく、時代の推移の中で陳腐化することがない。傑作である。