幻想音楽夜話
Sentimental City Romance
1.うちわもめ
2.うん、と僕は
3.あの娘の窓灯り
4.庄内慕情
5.籠時(こもりどき)
6.暖時(くつろぎ)
7.恋の季節Part1
8.小童(こわっぱ)
9.おかめとひょっとこ
10.マイ・ウディ・カントリー
11.ロスアンジェルス大橋Uターン

告井延隆 (Nobutaka Tsugei) : guitar, pedal steel, keyboards and vocal
中野督夫 (Tokuo Nakano) : guitar and vocal
細井豊 (Yutaka Hosoi) : keyboards and vocal
加藤文敏 (Fumitoshi Kato) : bass and vocal
田中毅 (Takeshi Tanaka) : drums

Produced by Sentimental City Romance
1975
Thoughts on this music(この音楽について思うこと)

 「Sentimental City Romance(センチメンタル・シティ・ロマンス)」という、そのバンド名が、とにかく素晴らしいではないか。昼下がりの街路を吹き渡る風のようにカラリと乾いて軽快でありながら、しかしその中にせつなく物憂い情感をしっとりと漂わす、そのような「ウエスト・コースト・サウンド」に、そしてそのような「ウエスト・コースト・サウンド」を志すバンドの名として、それはまさに象徴的ではないか。

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 「Sentimental City Romance(センチメンタル・シティ・ロマンス)」は1970年代の中頃にデビューした日本のバンドで、自らの名をタイトルにしたファースト・アルバムを発表するのは1975年のことだ。当時の日本ロック・シーンで「ウエスト・コースト・サウンド」を指向するバンドは少数派だったと言っていい。CS&Nタイプの音楽を志すグループもあるにはあったが、当時の「フォーク・ミュージック」の潮流に飲み込まれるようにして「フォーク・グループ」扱いされることがほとんどだった。だから「ロック・バンド」としてのアイデンティティを保ちながら「ウエスト・コースト・サウンド」を演奏するバンドとして、「Sentimental City Romance(センチメンタル・シティ・ロマンス)」は希有な存在だった。

 日本のロック・シーンで、ウエスト・コースト・サウンドとしてのアメリカン・ロックを指向し、音楽的成果を得た最初のバンドは、おそらく「はっぴいえんど」だろう。「はっぴいえんど」は1969年に結成され、1972年末で解散した(1973年と1985年に再結成コンサートを行っている)。「はっぴいえんど」が後世に与えた影響、後にメンバーたちが果たした功績はあまりに大きいが、そのことについてはまた別の機会してここでは敢えて述べずにおきたい。ともかくセンチメンタル・シティ・ロマンスがデビューした時点で「はっぴいえんど」は既に「過去の」バンドだったわけだが、両者の音楽性の相似から、そしてまたセンチメンタル・シティ・ロマンスのデビュー・アルバム制作に当たって細野春臣がプロデューサーとしてのオファーを受けたことなどもあって、センチメンタル・シティ・ロマンスが「はっぴいえんど」の弟分的なバンドとして扱われることもあった。

 実際には細野春臣はセンチメンタル・シティ・ロマンスのデビュー・アルバムのプロデュースは行っていないようで、プロデュースは「Sentimental City Romance」名義になっており、細野春臣は「Sentimental Romantist」という肩書きでクレジットされている。アルバムに寄せられた細野春臣の手記によれば、センチメンタル・シティ・ロマンスの音楽性は「プロデュースの余地がない完璧なスタイル」だったそうで、「チーフ・オーディエンスにいすわる」ことにしたという。ちなみにこの手記で細野春臣はセンチメンタル・シティ・ロマンスのことを「自分と同じ血の流れるロック・バンド」と述べている。

 しかし、その「はっぴいえんど」もまた、当時の日本の音楽シーンの中ではマイナーな、アンダーグラウンドな存在でしかなかった。当時の日本のポピュラー音楽の主流は「歌謡曲」だったし、若者たちは「フォーク」を聞いており、芽吹いたばかりの日本ロックは「ブリティッシュ・ロック」を目指していた。「はっぴいえんど」が、彼らの成し遂げた音楽的成果と、そのメンバーたちが後の日本のポップ・ミュージック界に果たした功績の大きさによって「再評価」されるのは、ずいぶんと時が経ってからのことだ。

 「はっぴいえんど」解散の翌年、センチメンタル・シティ・ロマンスが結成され、1975年になって彼らのデビュー・アルバムが発表される。しかし、「はっぴいえんど」の頃からあまり事情は変わっていなかった。当時の日本ロック・シーンに君臨していたバンドのほとんどは、ブルース・ロック系のハード・ロックやプログレッシヴ・ロックといった「ブリティッシュ・ロック」を指向するバンドだった。

 「はっぴいえんど」もセンチメンタル・シティ・ロマンスも、彼らの指向した「ウエスト・コースト・サウンド」は1972頃から主流となるイーグルスやドゥービー・ブラザース、スティーリー・ダンといったバンドたちの音楽ではなく、それに先立つ1960年代末から1970年代初期にかけて活躍したバンドたち、すなわちバッファロー・スプリングフィールドやポコ、モビー・グレープといったバンドたちの音楽だったわけだが、それらのバンドも日本での一般的な知名度はかなり低いものだった。そのような「ウエスト・コースト・サウンド」を指向するセンチメンタル・シティ・ロマンスは、当時の日本ロックの潮流からは外れた位置にいたといっていい。

 そのセンチメンタル・シティ・ロマンスが相応の評価を得て、当時の日本ロックを経験したファンたちの記憶にしっかりと刻み込まれているのは、その存在そのものの希少価値的な印象の強さもあるが、やはり彼らの音楽性の魅力にあったのは言うまでもない。特にポコの音楽性の影響を強く感じさせる彼らの音楽は、当時の「ウエスト・コースト・サウンド」の持っていたエッセンスを見事に昇華したものだったと言っていい。じめじめとした湿気を感じさせない、からりと乾いた爽快なサウンドの印象、すっきりと晴れた空を連想させるような開放感に富んだ曲想、その中にそこはかとない哀感が漂い、物憂げなせつなさの中にしっとりとした情感が滲む。それはまさに「ウエスト・コースト・サウンド」の魅力そのものだった。

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 センチメンタル・シティ・ロマンスは名古屋出身のバンドだ。当時、彼らがこれほど本格的な「ウエスト・コースト・サウンド」を演奏できることの背景として、名古屋という街とアメリカ西海岸との風土の共通性などが語られたものだった。土地の風土が人の感性を育み、結果的に特有の音楽スタイルを生み出すことは少なくない。アメリカ西海岸で「ウエスト・コースト・サウンド」が生まれたように、アメリカ南部で「スワンプ・ロック」が生まれたように、ロンドンで「グラム」が生まれたように、ニューヨークのアンダーグラウンド・シーンで「パンク」が誕生したように、だ。だから名古屋という街の風土にアメリカ西海岸との共通性があり、それがセンチメンタル・シティ・ロマンスというバンドの音楽性を育んだと考えることにもそれほど無理はないことだろう。

 そう考えるならば、如何に見事な「ウエスト・コースト・サウンド」を演奏していたとしても、センチメンタル・シティ・ロマンスが「日本のバンド」だという事実は、厳然としてその音楽性に影響を与えることになる。センチメンタル・シティ・ロマンスの「ウエスト・コースト・サウンド」は、「ウエスト・コースト・サウンド」でありながらその中にしっかりと日本的な情緒感が息づいていることは特筆しておかなくてはいけない。どれほどウエスト・コーストに憧れ、そこで育まれた音楽に憧れ、それを自分のものとして実現しようとしても、そしてそれが高い水準で成功したとしても、やはり感性の奥底に息づく「日本人の血」とでもいうようなものを消し去ることはできないということだ。それは決して悪いことではない。むしろ「ウエスト・コースト・サウンド」への理解と憧憬との中で生み出された音楽の中に日本的な情緒感が同居しているからこそ、センチメンタル・シティ・ロマンスの音楽はこれほどまでに魅力的なのだ。「ウエスト・コースト・サウンド」の音楽的エッセンスをそのままに、その背景にある風土的感性を日本に置き換えたとき、センチメンタル・シティ・ロマンスの音楽が誕生した、と言っても、あながち間違いではあるまい。

 彼らの音楽には「本場のウエスト・コースト・サウンド」がそうであるように「街路の匂い」とでもいうものが濃厚に漂っているが、その「街」は、おそらく「東京」ではない。その「街」は、良い意味でもっと規模の小さな、緑濃い山々を背負った海辺の街だ。センチメンタル・シティ・ロマンスの出身地が名古屋だからだ言ってしまえば身も蓋もないが、彼らの音楽が都市的な洗練の中に土臭い素朴さを併せ持っているのは確かで、それが「地方都市的風土感」とでも言うべき印象へと繋がっている。良くも悪くも「東京的」だった「はっぴいえんど」との、それが違いのひとつでもある。

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 センチメンタル・シティ・ロマンスがデビュー・アルバムを発表した頃、個人的には「プログレッシヴ・ロック」や「ハード・ロック」をこよなく愛する身で、しかしその一方で他のスタイルの音楽へも本格的に目を向け始めていた時期だった気がする。当時聴いていた「ウエスト・コースト・サウンド」と言えば、イーグルスやドゥービー・ブラザースやスティーリー・ダン、リンダ・ロンシュタットといった知名度の高いものばかりで、バッファロー・スプリングフィールドもポコもよく知らなかった。センチメンタル・シティ・ロマンスの「うちわもめ」を初めて聴いたとき、紛れもない「ウエスト・コースト・サウンド」であるのに自分の知らないスタイルであることに少しばかりの驚きを感じたことを覚えている。彼らのルーツがポコにあることは、ずいぶん後になって気づいた。ともかく当時初めて聴いた「うちわもめ」がなぜか妙に耳に残り、「センチメンタル・シティ・ロマンス」というバンドの名が(その素敵な語感とともに)記憶に刻まれてしまったのは事実だった。

 しかし当時はセンチメンタル・シティ・ロマンスのデビュー・アルバムを買い求めることはしなかった。レコードを買うほどの魅力を感じなかったというわけではなく、要するに金銭的にそこまで「手が回らなかった」からで、結果的に「うちわもめ」以外の曲をしっかりと聞き込む機会に恵まれないままに時が過ぎた。センチメンタル・シティ・ロマンスのデビュー・アルバムをようやく購入したのは、「CD選書」シリーズでCD復刻されてからだった。「CD選書」シリーズに於けるセンチメンタル・シティ・ロマンスのデビュー・アルバムがいつ発売されたものか、もうよくわからないが、おそらく1990年代中頃だったのではないだろうか。オリジナルLP発表から20年ほどを経てから、ようやくCDで買い求め、その全体像を初めて耳にしたことになる。

 あれから三十年ほどを経た今になって、センチメンタル・シティ・ロマンスのデビュー・アルバムをよく聴く。そしてこのアルバムを聴きながら感じる、このせつないほどの懐かしさは何だろうかと、思う。「うちわもめ」以外の楽曲は当時は聞いた憶えはない。どこかで耳にしていたかもしれないが、「聞き覚えがある」というほどの記憶はない。それなのにこの音楽を聴いて感じる郷愁にも似た思いは何だろうか。「ああ、これは1970年代の、あの頃の空気の匂いだ」と、思う。そうした「あの頃の空気の匂い」は、もちろん音楽的流行やサウンド・プロデュースの時代的傾向といったものによってもたらされるものだ。その歌声やコーラス、ベダル・スティールののびやかな音色や軽快なピアノの響き、少々風変わりな歌詞の世界が、当時の空気を纏ったまま音楽の中に刻まれ、当時の「匂い」を封じ込められているのだ。その音楽が描き出す心象風景は、1970年代の街路の匂いに彩られている。その「匂い」が、過ぎ去ってしまった1970年代という「季節」への強烈な郷愁を呼び起こす。

 いや、そうではないかもしれない。それだけではないかもしれない。1970年代当時にこのアルバムを聴いていたとしても、きっと同じような郷愁をこの音楽の中に感じたに違いないのだ。過ぎた季節、忘れたはずの恋の傷み、そんな記憶を探し求めるようなせつなさが、その音楽の中に濃厚に漂っている。それは彼らの音楽が日本の地方都市的な風土感覚に彩られていることにも無関係ではあるまい。若い日々を過ごした小さな海辺の街、いつも潮の匂いのする風が街路を渡り、ビル街の向こうに山々の稜線が霞んで見える。その街で恋をして、恋に破れた。やがてその街を離れ、時は過ぎ、街路の風景は遠い恋の傷みとともに色を失ってゆく。この音楽はそんな情景を聴く者の心に呼び起こす。センチメンタル・シティ・ロマンスの音楽は、きっとそのような音楽なのだ。そうだとするなら、あれから三十年ほどを経た今だからこそ、センチメンタル・シティ・ロマンスのデビュー・アルバムはまた新しい魅力に彩られて聞こえるのかもしれない。

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 センチメンタル・シティ・ロマンスのデビュー・アルバムは、今になって聴けば音楽的にはやはり少々古臭いものかもしれない。1970年前後の「ウエスト・コースト・サウンド」のエッセンスを濃厚に漂わせているということは、すなわちそれだけ時代性に依存しているということに他ならない。しかし、それで良いではないか。過ぎた時代への郷愁の拠り所として聴いたとしても、それで良いではないか。それはすなわち、時代が移ればただの流行遅れの陳腐なものに成り下がるような、浅薄な音楽ではなかったのだということだ。「時代」というものが持っていた空気の煌めきを、その中に封じ込めた音楽として、「過ぎた時代への郷愁の拠り所」となり得るほどの魅力を、この作品が持っていたということだ。そのような作品のことを「名盤」と呼ぶのだ。