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八王子市日吉町
紫陽花の咲く日吉八王子神社
Visited in June 2023
紫陽花の咲く日吉八王子神社
八王子市日吉町の住宅街の中に日吉八王子神社という神社が鎮座している。國狹槌尊(くにさつちのみこと)を祀る神社で、古くから地元の人々の信仰を集めてきた神社だ。境内にはさまざまな種類の紫陽花が植えられ、近年、八王子の“紫陽花の名所”として広く知られるようになった。紫陽花が咲き揃った六月半ば、日吉八王子神社を訪ねた。
紫陽花の咲く日吉八王子神社 八王子市日吉町は八王子市の中心市街の西、陣馬街道に沿って東西に細長く町域が横たわっている。住宅地の中に企業や店舗の建物の混じる土地柄だ。その中に日吉八王子神社という神社が鎮座している。日吉八王子神社の創立は古く、平安時代中期の940年(天慶3年)、一尺一寸の國狭槌尊(くにさづちのみこと)の立像を祀ったのが始まりという。

1500年代終わり頃の天正年間、北条氏照は滝山城を廃して牛頭八王子権現を祀る深沢山に新たな城を築いて移り住んだ。氏照は牛頭八王子権現を氏神として崇敬し、城を「八王子城」とした。これが「八王子」の地名の起こりである。1590年(天正18年)、八王子城は豊臣秀吉の小田原征伐の際に落城する。5年後の1595年(文禄4年)、八王子城落城を生き延びた修験者、法印島之坊俊盛が徳川家康から除地を拝領し、島之坊宿(現在の日吉町)にあった社祠を再興、八王子城の八王子権現を勧請して日吉山八王子明神社と称した。これが現在の日吉八王子神社の実質的な起源だ。

明治期の神仏分離によって日吉山八王子明神社は日吉八王子神社に改称、明治から昭和にかけて幾度かの再建・改修が施され、1945年(昭和20年)8月2日の八王子空襲の際にも焼失を免れ、現在に至っている。日吉山八王子明神社(日吉八王子神社)もまた「八王子」の地名の起こりのひとつと言われる。「日吉町」という町名はもちろんこの神社に由来するものだ。
紫陽花の咲く日吉八王子神社 日吉八王子神社の境内地には数多くの紫陽花が植えられており、さまざまなメディアで紹介される機会も多く、八王子の紫陽花名所として広く知られるようになった。神職のご家族が2010年(平成22年)頃から境内で紫陽花を育成、丹精込めて手入れされているようだ。参拝する人が少しでも気持ちよく過ごせるようにとの思いから始められたらしい。その数、約300株とも言うが、新たに植えられているものもあり、年を経るごとに増えているようである。

紫陽花は(現在は)北側に面した鳥居から参道脇、社殿の北側辺りに数多く植えられている。一般的なアジサイに加え、あまり見かけないような珍しい品種も植えられており、紫陽花愛好家の人でも楽しく鑑賞していけるだろう。

紫陽花の咲く日吉八王子神社 日吉八王子神社はそれほど広い境内地を誇るわけではない。地域の氏神として町に溶け込むように鎮座している。その境内にさまざまな品種の紫陽花が咲き誇る。神域の凜とした空気感と紫陽花の鮮やかさの調和が興趣に富んでいる。見事な景観だ。どの紫陽花も手入れが行き届いて美しい姿だ。それぞれの紫陽花を丹念に観賞していくと時の経つのを忘れる。

神職のご家族の方が紫陽花の手入れをされているところに出会うこともあるかもしれない。興味のある人はお話をうかがっているのも楽しいだろう。
紫陽花の咲く日吉八王子神社
紫陽花の名所として有名になったとは言っても、日吉八王子神社は公園でも観光名所でもなく、神社である。境内地は神域、訪れたときにはまず参拝を済ませ、感謝の気持ちを忘れず、静かに鑑賞していきたい。

日吉八王子神社は季節毎にデザインの異なる御朱印を頒布している。紫陽花の時期はもちろん紫陽花のデザインだ。御朱印は北側道路(旧陣馬街道)を西へ50mほど行ったところの社務所でいただける。

日吉八王子神社には参拝者用駐車場はなく、JR中央線西八王子駅から徒歩か、駅周辺のコインパーキングなどに車を駐めて徒歩で訪れなくてはならない。西八王子駅から神社まで1km足らず、15分ほど歩けば着く。
紫陽花の咲く日吉八王子神社
紫陽花の咲く日吉八王子神社
紫陽花の咲く日吉八王子神社
紫陽花の咲く日吉八王子神社
紫陽花の咲く日吉八王子神社