横浜市中区日本大通
横浜開港資料館
Visited in July 1999
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)
横浜市中区日本大通の海岸通り沿いに「横浜開港資料館」が建っている。その名の通り、横浜の開港時からの歴史的資料を収集して展示したものだが、それらの資料もさることながら日米和親条約締結の地に建つというその立地の縁によっても興味が尽きない。
日本の開国の発端は1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国の国書を携えたペリー提督の艦隊が浦賀に来航したときだったと言って良いだろう。ペリーはなかば脅迫するように幕府に開国を迫ったということだが、幕府は回答を保留、その一年後の1854年(安政元年)にペリーは再び来航して幕府に開港を迫った。対して幕府はついに日米和親条約を締結し、下田と函館の二港を開港したのだ。この時、開国に関わる会談が行われ、条約締結の地となったのが、現在の神奈川県庁から横浜開港資料館、開港広場付近であったという。
条約締結後、ペリー一行は下田に向かい、下田の調査を行うとともに「下田条約」と呼ばれる日米和親条約の細則を取り決めた。吉田松陰がアメリカに渡ろうとして小舟で米軍艦に乗り付け、幕府の役人に捕らえられるという事件が起こるのはこの時である。
下田が開港して間もない1856年(安政3年)、アメリカ合衆国総領事としてハリスが下田に着任、日本で最初の領事館となった下田の玉泉寺に暮らすことになった。日米和親条約によって日本が開国したとは言え、この条約は貿易を承諾したものではなかった。日米間の貿易開始の交渉の任を負っていたハリスだったが、ようやく将軍家定への拝謁が許されたのは翌1857年(安政4年)のことだった。ハリスは合衆国大統領の親書を手渡し、貿易交渉に入るが、この交渉は度々の延期を重ね、遅々として進まなかった。この間、ハリスは下田の地で三年ほどを過ごしたが、地元の人々との交流はほとんどなかったのだという。
1858年(安政5年)、ついに日本とアメリカ合衆国の間に日米修交通商条約が締結された。この条約は関税自主権がないなど、かなりの不平等条約だったが、ともかくこの条約によって下田、函館に加えて、兵庫(神戸)、新潟、長崎、神奈川(横浜)の四港の開港が約束され、日本にいよいよ自由貿易の時代がもたらされることになった。
アメリカ側が開港を望んだ港の中に元々は神奈川の名は無く、これは幕府側の要望によるものであったという。それを受け容れたアメリカ側は当初神奈川宿(現在の東神奈川付近)を想定していたというが、宿場として賑わう神奈川での外国人と日本人とのトラブルを恐れた幕府は、当時はまだほんの小さな漁村でしかなかった横浜を「横浜も神奈川の一部である」として強引に推した。当時の横浜には港としての設備は無いに等しかったが、沖合の水深が深いこともあって港に適しており、また寒村であったことは新規に町を造るのに適していたからであろうともいう。開港に当たって運上所先の海岸にふたつの石組み突堤が造られたが、その内の東側突堤の名残が大桟橋の根本に今も残る「象の鼻」である。
こうして1859年(安政6年)、横浜は開港し、その後の横浜港は一大国際貿易港として発展してゆき、横浜の街は国際都市として発展、数々の海外文化を日本に広めることになるのである。
横浜の開港は陰暦の6月2日、現在の暦の7月1日にあたる。開港当日には特に記念行事などは無かったらしいが、翌1860年(万延元年)には開港1周年を記念して洲干弁財天で祭礼が執り行われた。1909年(明治42年)には開港50周年が盛大に行われて、市章と市歌がこの時に定められている。1958年(昭和33年)には開港100年祭が行われ、現在も6月2日は横浜の開港記念日として祝われ、その前後には横浜開港祭が盛大に実施されている。
条約締結後、ペリー一行は下田に向かい、下田の調査を行うとともに「下田条約」と呼ばれる日米和親条約の細則を取り決めた。吉田松陰がアメリカに渡ろうとして小舟で米軍艦に乗り付け、幕府の役人に捕らえられるという事件が起こるのはこの時である。
下田が開港して間もない1856年(安政3年)、アメリカ合衆国総領事としてハリスが下田に着任、日本で最初の領事館となった下田の玉泉寺に暮らすことになった。日米和親条約によって日本が開国したとは言え、この条約は貿易を承諾したものではなかった。日米間の貿易開始の交渉の任を負っていたハリスだったが、ようやく将軍家定への拝謁が許されたのは翌1857年(安政4年)のことだった。ハリスは合衆国大統領の親書を手渡し、貿易交渉に入るが、この交渉は度々の延期を重ね、遅々として進まなかった。この間、ハリスは下田の地で三年ほどを過ごしたが、地元の人々との交流はほとんどなかったのだという。
アメリカ側が開港を望んだ港の中に元々は神奈川の名は無く、これは幕府側の要望によるものであったという。それを受け容れたアメリカ側は当初神奈川宿(現在の東神奈川付近)を想定していたというが、宿場として賑わう神奈川での外国人と日本人とのトラブルを恐れた幕府は、当時はまだほんの小さな漁村でしかなかった横浜を「横浜も神奈川の一部である」として強引に推した。当時の横浜には港としての設備は無いに等しかったが、沖合の水深が深いこともあって港に適しており、また寒村であったことは新規に町を造るのに適していたからであろうともいう。開港に当たって運上所先の海岸にふたつの石組み突堤が造られたが、その内の東側突堤の名残が大桟橋の根本に今も残る「象の鼻」である。
こうして1859年(安政6年)、横浜は開港し、その後の横浜港は一大国際貿易港として発展してゆき、横浜の街は国際都市として発展、数々の海外文化を日本に広めることになるのである。
横浜の開港は陰暦の6月2日、現在の暦の7月1日にあたる。開港当日には特に記念行事などは無かったらしいが、翌1860年(万延元年)には開港1周年を記念して洲干弁財天で祭礼が執り行われた。1909年(明治42年)には開港50周年が盛大に行われて、市章と市歌がこの時に定められている。1958年(昭和33年)には開港100年祭が行われ、現在も6月2日は横浜の開港記念日として祝われ、その前後には横浜開港祭が盛大に実施されている。
現在、この横浜開港縁の地に横浜開港資料館が建っている。1981年(昭和56年)6月2日の開港記念日に開館したもので、その名の通り日本の開国と横浜港開港に関する資料や、明治期の横浜の様子の模型などを展示しており、当時の様子を伝える数々の資料が興味深い。奥に建つ古い建物は1931年(昭和3年)に建てられた旧イギリス領事館だ。
中庭の玉楠の木(タブノキ)は、この木の近くに設けられた応接所で日米和親条約が締結されたことで有名だが、関東大震災の際に焼けてしまい、現在の木は焼け残った根の部分から芽を出した二代目の木である。関東大震災の前の木はかつて横浜の漁民たちが目印にしたほどの大木であったという。1988年(昭和63年)にこの玉楠の木は横浜市の史跡に指定されている。
開港資料館受付では開港期の横浜の姿を解説した小冊子なども販売しており、また資料閲覧室も利用できるので、興味のある人には見逃せない。敷地内の片隅には喫茶室があり、軽食もできるので散策途中の一休みや昼食などには便利だろう。また玉楠の木を中心にした中庭部分は建物に囲まれた静かな空間で、ベンチなども置かれていて一休みによい。お昼休みなどにはベンチでお弁当を広げるOLの姿を見ることもあり、それを真似てみるのも一興かもしれない。
開港資料館に隣接して交差点の角には「開港広場」がある。広場は中央の噴水が涼しげで、周囲にはベンチなども置かれて市民の憩いの場となっている。一角には地球をかたどった日米和親条約締結の地の石碑が建っており、その前ではときおり記念撮影をする人の姿を見ることがある。
開港資料館受付では開港期の横浜の姿を解説した小冊子なども販売しており、また資料閲覧室も利用できるので、興味のある人には見逃せない。敷地内の片隅には喫茶室があり、軽食もできるので散策途中の一休みや昼食などには便利だろう。また玉楠の木を中心にした中庭部分は建物に囲まれた静かな空間で、ベンチなども置かれていて一休みによい。お昼休みなどにはベンチでお弁当を広げるOLの姿を見ることもあり、それを真似てみるのも一興かもしれない。
開港資料館に隣接して交差点の角には「開港広場」がある。広場は中央の噴水が涼しげで、周囲にはベンチなども置かれて市民の憩いの場となっている。一角には地球をかたどった日米和親条約締結の地の石碑が建っており、その前ではときおり記念撮影をする人の姿を見ることがある。
横浜市の中心部は各地に歴史的建築物や海外文化の日本発祥の碑などが点在しているが、それらのひとつひとつのエピソードをつなぎ合わせて横浜の昔を思い描くためにはやはり開港時から明治期の横浜の歴史の理解が欠かせない。記念すべき日米和親条約締結の地に立ち、そこから横浜の歴史を辿る散策の旅に出てみるのもよいものだろう。
【追記】
2004年(平成16年)2月、東急東横線との相互乗り入れとなる「みなとみらい線」が開業、同路線の日本大通り駅から横浜開港資料館へ至近になった。【追記】
大さん橋の根元に残っていた「象の鼻」は周辺が公園として整備され、2009年(平成21年)6月2日、横浜開港150周年の開港記念日に「象の鼻パーク」として開園した。横浜開港資料館の北西側、海岸通りと日本大通りとの「開港資料館前」交差点が市街地側からの「象の鼻パーク」へのメインエントランスとなり、周辺の景観も大きく変わっている。