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横浜市中区の中央部、南区との境に近い西の端に、山元町という街区がある。「横浜駅根岸道路」に沿って延びる細長い街区だが、道路沿いに商店が建ち並び、「山元町商店街」を成している。アーケードを設けた商店街で、その佇まいには古き佳き時代の面影が残っている。この「山元町商店街」を歩いてみたいと思い、よく晴れた十月初旬、横浜へ出かけた。 |
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山手214番館の西南側には横浜共立学園が建っている。山手214番館から南へ延びる道を進んで横浜共立学園の周囲を辿って行こう。横浜共立学園は1871年(明治4年)、アメリカから派遣された女性宣教師、プライン、クロスビー、ピアソンの三人によって山手48番地に設立された亜米利加婦人教授所がその起源だ。日本最古のプロテスタント系ミッション・スクールのひとつであるという。翌1872年(明治5年)、山手212番地、すなわち現在地に移り、校舎が建てられた。その最初の校舎はすでに無いが、関東大震災後の1931年(昭和6年)に建てられた校舎が今も残り、横浜市指定文化財となっている。この横浜共立学園本校舎はW.M.ヴォーリズの設計によるもので、学校建築の傑作と言われる美しい建物だが、残念ながらこれも門外からの見学だ。
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「牛坂」を下りきると片側二車線の広い道路に出る。「横浜駅根岸道路」だ。道路はほぼ南北に真っ直ぐの緩やかな坂道で、両脇に崖面が迫る「切り通し」となって丘上の山元町へと繋いでいる。昔は「根岸新道」とも呼ばれていた。坂道の中ほどは打越の街区に当たっているからか、「打越坂」という呼び方もあるようだ。かつてはここを横浜市電の長者町線が走っていた。山が削られて「切り通し」の坂道となったのは市電を通すためで、坂の中ほどに「猿坂」、後に「打越」と改称された電停があったという。
打越橋の下をくぐってさらに打越坂を上れば、丘の上に出て丁字路の交差点に出る。交差点には「山元町」の名がある。この交差点の付近に、かつての横浜市電長者町線の「山元町」電停があった。交差点の信号機には市電が使っていた電柱が使われているという。交差点を右(北東側)に折れれば山手本通りで、300メートルほど辿れば「地蔵坂上」交差点に至っている。交差点を左(西南側)に折れれば山元町商店街だ。 |
商店街にはさまざまな種類のお店が軒を並べている。「生活」というものに関わるありとあらゆる店が在ると言っていい。精肉店、青果店、鮮魚店、酒屋、パン屋、総菜店、豆腐店、衣料品店、生花店、履物店、自転車屋、工務店、電気工事店、畳屋、理容店、歯科医、接骨院、薬店と、それこそ無いものはないと言っていいほどだ。もちろん蕎麦屋や洋食屋、中華料理店などといった飲食店も軒を並べる。散策の途中での一休みや食事に、それらの店のどれかを選んでみるのも悪くない。 どの店も小さな個人商店のようだ。店構えや看板の様子から、どの商店もずいぶんと長く商売を続けてこられているであろうことは察しがつく。こうした商店街は今では少なくなってしまった。昔はどの町にもこうした商店街があって、買い物客で賑わっていたものだ。商店街を歩いていると、ふと子ども時代のことが思い出されてしまう。そんな郷愁を誘う雰囲気が山元町商店街にはある。 商店街の佇まいを楽しみながらのんびりと歩いてゆくと、やがて坂を下りきって「大芝台入口」交差点に至る。ここから西に入り込むと寺の建ち並ぶ一角があり、1892年(明治25年)に造られた地蔵王廟なども見てみたいところだが、そちらを訪ねるのはまた次の機会にしよう。 |
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石川町駅を降りて根岸駅まで、「打越の霊泉」からはほぼ「横浜駅根岸道路」に沿って歩いた。石川町駅近辺と山元町、根岸台の辺りとそれぞれに街の佇まいに特徴があったのが面白い。主な目的が山元町商店街散策だったのだが、それにも関わらず先を急いでただ通り抜けただけになってしまったのが少し悔やまれる。商店街に店を構える飲食店のどれかを選んでランチタイムを過ごせばよかったと、後になって思ったのだった。 今回の散策では、横浜市中区公式サイトのコンテンツ「緑と洋館の巡り道」(頁末「関連する他のWebサイト」蘭のリンク先)を参考にした。石川町駅から山元町商店街までの区間では「コース3」の「打越から柏葉・竹之丸へ」の前半部分をほぼなぞっている。散策の際には参考にされたい。 |

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