谷津バラ園は、そもそもは谷津遊園の施設として1957年(昭和32年)に開園したのが始まりという。翌年には規模を拡大、東洋一とまで謳われたバラ園だったらしい。その谷津遊園はさらに歴史が古く、1925年(大正14年)に京成遊園地として開園、後に谷津遊園に改称されたものだ。京成電鉄の運営による谷津遊園は海岸の立地で、海水浴のできる遊園地として人気を集めたという。現在の谷津駅が当然のことだが谷津遊園の最寄り駅で、当初は谷津海岸駅、後に谷津遊園駅と改称され、行楽客の足を担っていた。
やがて戦後の高度成長期、周辺の東京湾岸が次第に埋め立てられてゆく。現在は埋め立て地の中に池のように残された谷津干潟は、谷津遊園が開園した当時の海岸の名残だという。1965年(昭和40年)にはバラ園が現在地に移設される。バラ園の敷地が京葉道路の建設地にかかってしまったためだった。そして1982年(昭和57年)、谷津遊園は社会情勢の変化などに伴う諸事情により閉園、園内の施設は売却、あるいは廃棄され、跡地には高層住宅の建物が建った。バラ園も一旦は閉園されたが、惜しむ声も多かったようで、習志野市の都市公園として再スタートすることになる。こうして現在の谷津バラ園が開園した。1988年(昭和63年)のことだという。
現在の谷津バラ園は京成線谷津駅の南方300mほどのところに位置している。周辺は住宅地で、高層の建物もあり、バラ園の中からもその姿が見える。現在のバラ園周辺の風景の中にかつての谷津遊園の面影を探すのは難しい。谷津駅から商店街を抜け、京葉道路をくぐったあたりにかつての谷津遊園の正面入口があったらしい。今はそこからさらに少し歩かなくてはならない。
谷津バラ園の北側には小公園が隣接しているが、バラ園を含めた全体が「谷津公園」という公園を成しており、隣接する小公園は谷津公園の「花木広場」という位置付けのようだ。この「花木広場」は谷津遊園時代には運動場だったところらしい。
やがて戦後の高度成長期、周辺の東京湾岸が次第に埋め立てられてゆく。現在は埋め立て地の中に池のように残された谷津干潟は、谷津遊園が開園した当時の海岸の名残だという。1965年(昭和40年)にはバラ園が現在地に移設される。バラ園の敷地が京葉道路の建設地にかかってしまったためだった。そして1982年(昭和57年)、谷津遊園は社会情勢の変化などに伴う諸事情により閉園、園内の施設は売却、あるいは廃棄され、跡地には高層住宅の建物が建った。バラ園も一旦は閉園されたが、惜しむ声も多かったようで、習志野市の都市公園として再スタートすることになる。こうして現在の谷津バラ園が開園した。1988年(昭和63年)のことだという。
現在の谷津バラ園は京成線谷津駅の南方300mほどのところに位置している。周辺は住宅地で、高層の建物もあり、バラ園の中からもその姿が見える。現在のバラ園周辺の風景の中にかつての谷津遊園の面影を探すのは難しい。谷津駅から商店街を抜け、京葉道路をくぐったあたりにかつての谷津遊園の正面入口があったらしい。今はそこからさらに少し歩かなくてはならない。
谷津バラ園の北側には小公園が隣接しているが、バラ園を含めた全体が「谷津公園」という公園を成しており、隣接する小公園は谷津公園の「花木広場」という位置付けのようだ。この「花木広場」は谷津遊園時代には運動場だったところらしい。