栃木県栃木市は日光例幣使街道の宿場町だったところだ。巴波川の舟運によって商業も栄えた。市内には白壁の蔵が数多く残り、「蔵の街」として知られる。晴天に恵まれた十月初旬、「蔵の街」栃木を訪ねた。
蔵の街とちぎ
蔵の街とちぎ
蔵の街とちぎ
徳川家康は1616年(元和2年)に駿府(現在の静岡)で亡くなり、すぐに久能山に葬られたが、その翌年、日光に改葬され、東照宮に神として祀られることになる。その後、朝廷の勅使が幣帛(祭祀の際に神に奉るもののこと)を奉献するために東照宮に参向するのが恒例となる。この勅使を例幣使といい、例幣使が通った道は例幣使街道と呼ばれた。栃木は、この例幣使街道の宿場として発展した。

町の中心部には巴波(うずま)川が流れ、巴波川を利用した舟運が江戸との交易を結び、栃木の商業は大いに発展した。江戸からは日光御用荷物や塩、鮮魚類などが運ばれ、栃木から江戸へは木材、麻、木綿などが運ばれたという。それらの交易で財を成した木材回漕問屋の蔵が巴波川の岸辺に建ち並び、現在も風情ある景観を残している。

明治を迎え、1871年(明治4年)の廃藩置県によって下野国北部が宇都宮県となり、下野国南部と上野国の一部とで栃木県が誕生した。1873年(明治6年)に栃木県は宇都宮県を合併、県庁は栃木町(現在の栃木市)に置かれた。1884年(明治17年)、県庁は栃木から宇都宮へ移転したが、県名は栃木のままに残された。栃木県の県庁所在地が県名と同じ名の栃木市ではなく宇都宮市であるのは、こうした経緯によるものだ。
蔵の街とちぎ
蔵の街とちぎ
「蔵の街」と謳われるように、栃木の町には「蔵」が多く残り、“北関東の商都”としての繁栄を今に伝えている。栃木に残る「蔵」はほとんどが土蔵だそうだ。“蔵”というものは通常は倉庫として使われるものだが、店舗として利用するために建てられたものもあり、「見世蔵(店蔵)」と呼ばれる。見世蔵が普及するのは明治期に入ってからのことらしいが、江戸時代に造られたものもあり、栃木には日本で最古の部類に入る見世蔵も残っているという。

そしてまた明治の一時期に県庁が置かれた町としての遺構や、明治期から昭和初期にかけて建てられた“レトロな”佇まいの建築物も点在し、それも栃木の魅力のひとつと言っていい。
蔵の街とちぎ
蔵の街とちぎ
栃木の町の中心部を南北に抜ける「蔵の街大通り」から例幣使街道の古い佇まいが残る嘉右衛門町の辺りへ、県庁の遺構の残る地区から白壁の蔵が建ち並ぶ巴波川の川辺へ、古くから栄えた町の風情を感じながらの散策はたいへんに楽しい。

町に点在する古い建築物は国の登録有形文化財や栃木県指定の有形文化財となっているものも少なくなく、それぞれに興味深いものだ。「山本有三ふるさと記念館」や「とちぎ蔵の街美術館」、「とちぎ山車会館」、「郷土参考館」、「塚田歴史伝説館」といった施設も点在し、興味に応じて立ち寄ってみるのも悪くない。

ガイドブックや案内マップを片手に足早に観光スポットを辿るのも悪くはないが、のんびりと時間をかけて、時には気の向くままに横道に入り込んだりしながら、町の佇まいそのものを楽しみつつ歩くのが栃木観光の醍醐味だろう。
蔵の街とちぎ
蔵の街とちぎ
栃木駅から北へ1kmほどの辺りが、「蔵の街」の中心部と言っていいのだろう。町の中心部を南北に抜ける県道11号はかつての例幣使街道で、「蔵の街大通り」という愛称が付けられている。「蔵の街大通り」はおそらく往時の例幣使街道のままではなく、拡幅されて現代的に整備されたものと思うが、沿道には江戸末期から明治期に建てられた見世蔵や大正期の洋館など、古い建物が数多く残り、“北関東の商都”としての賑わいを今に伝えている。

「蔵の街大通り」は幹線路としての役割も担っているために車の通行も多いが、広く取られた歩道のお陰で散策は快適だ。通り沿いには古い建物ばかりが建ち並んでいるわけではないが、現代の建物に混じって建つ古建築はひときわ存在感を放っている。そうした古い建築物を活用して営業する店舗も少なくなく、気の向くままに立ち寄ってみるのも楽しい。
とちぎ蔵の街観光館
「とちぎ蔵の街観光館」は栃木観光の拠点として設けられた施設だ。「とちぎ蔵の街観光館」に使われている建物は「八百金」の屋号で知られた荒物問屋田村家の見世蔵と土蔵群だそうだ。

「蔵の街大通り」に面した見世蔵は1904年(明治37年)に上棟されたものという。現在は観光案内所と土産物販売の店舗として使われている。栃木観光の際にはまずここを訪ねて観光案内のリーフレットや散策用のマップなどを貰っておくといい。

見世蔵の奥に建つ土蔵群は戦後は「蔵のアパート」として利用されてきたという。現在は土産物店や飲食店として利用されている。

土蔵群の中に「文庫蔵」という蔵がある。設置された案内パネルの記述によれば、1868年(慶応4年)に建てられたもののようだ。他の荷蔵に比べて造りが良く、当初から家財道具を収納するための蔵として建てられたものだろうという。現在では昔の生活用具などを展示した“ミニ資料館”として活用されている。展示された品々から明治期の商家の生活を想像してみるのも楽しい。

「とちぎ蔵の街観光館」は観光拠点としての役割があるのはもちろんだが、その建物自体も見所のひとつだ。重厚な佇まいの見世蔵や白壁の土蔵など、その外観もゆっくりと見学しておきたい。
とちぎ蔵の街観光館
とちぎ蔵の街観光館
とちぎ蔵の街観光館
好古壱番館(旧安達呉服店店舗)
現在蕎麦屋を営む好古壱番館の建物は、元は安達呉服店という呉服商の店舗として建てられたものだ。1923年(大正12年)の建築という。木造二階建ての洋館だが、道路に面した外壁に石張りや煉瓦積みを施してあり、一見すると石造りのようにも見える。一階部分にはポーチが張り出し、二階はバルコニーが設けられている。国の登録有形文化財である。
好古壱番館(旧安達呉服店店舗)
山本有三ふるさと記念館
山本有三は栃木出身の小説家で、「路傍の石」や「真実一路」、「女の一生」などの著作で知られる。この記念館は江戸時代に建てられた見世蔵を「山本有三記念会」が改修、整備して1997年(平成9年)に開館したものという。館内には山本有三の自筆原稿や椅子、帽子といった愛用の品々が展示されているとのことで、有料で入館、見学することができる。興味のある人は見学してゆくといい。
山本有三ふるさと記念館
古久磯提灯店見世蔵
古久磯提灯店見世蔵は「蔵の街大通り」に対して少し斜めに建っている。見世蔵の奥には木造二階建ての住居があるそうだ。傍らに設置された解説板によれば、この見世蔵は1845年(弘化2年)の上棟で、建築年代の判明している蔵造り店舗として「蔵の街」の中で最古、全国的に見ても古いものという。個人所有の建物で、栃木県指定の有形文化財である。
古久磯提灯店見世蔵
下野新聞社栃木支局
下野新聞は1878年(明治11年)創刊の「栃木新聞」が前身という。わずか五ヶ月で廃刊となったが、自由民権運動などで知られる田中正造らによって翌年に再興、以後、他紙との合併などを経て現在に至っている。この建物は「毛惣」として知られた肥料商、毛塚惣八の二代目が1861年(文久元年)に建てたもので、国の登録有形文化財である。1999年(平成11年)、下野新聞の創刊115周年を記念してこの見世蔵を栃木支局としたものという。
下野新聞社栃木支局
旧足利銀行栃木支店
遠目には石造りの建物のようにも見えるが実は木造平屋建て、切妻造鉄板葺の周囲にパラペットと呼ばれる外壁を立ち上げ、陸屋根(傾斜の無い平たい屋根のこと)に見せているという。足利銀行栃木支店の建物として1934年(昭和9年)に建てられたもので、1973年(昭和48年)から2004年(平成16年)までは栃木市の教育委員会庁舎としても使われていたそうだ。その後は解体も検討されたそうだが、市民の保存運動もあって残されることになったらしい。現在は洋食のレストランとして利用されているが、外観はほぼ往時のままという。“昭和前期の銀行建築の好例”ということで2008年(平成20年)に国の登録有形文化財に選定されている。

この建物は2005年(平成17年)に公開された映画「Always 三丁目の夕日」のロケ地になったことでも知られる。吉岡秀隆の演じる茶川竜之介が指輪を買う銀座の宝石店として使われたのが、この建物である。
旧足利銀行栃木支店
旧足利銀行栃木支店
万町交番
「とちぎ蔵の街観光館」から「蔵の街大通り」を北へ500メートルほど行くと万町の交差点だ。南東側の角には万町交番が建っている。そもそもは1897年(明治30年)に万町巡査派出所として設置されたものという。この交番も「蔵」の意匠の建物だ。1992年(平成4年)に全面改築されたそうだから、古い蔵を交番の建物として利用したものではなく、蔵造りのモチーフで新しく建てられたもののようだ。交番には道を訊ねる観光客が多く訪れるという。
万町交番
日光例幣使街道(嘉右衛門町通り)
日光例幣使街道(嘉右衛門町通り)/館野家住宅
万町の交差点から少し西へ入ると、「嘉右衛門町通り」という名の通りが北へ延びている。通りの入口には「日光例幣使街道」である旨を示す標柱が建てられている。「蔵の街大通り」も、もちろんかつての例幣使街道なのだが、沿道に古い建物が残っているとはいえ、拡張されて現代的に整備された道路からは昔の例幣使街道の風情を感じることは難しい。「嘉右衛門町通り」は幹線路としての役割を「蔵の街大通り」の延長として北へ延びる県道3号に譲ったため、今も旧街道の佇まいを残し、沿道には古い時代の建物が数多く残っている。

「嘉右衛門町通り」の南端近くには館野家住宅が建っている。通りに面して建つ店舗は1932年(昭和7年)に建てられたものという。木造二階建て、ベランダや窓のアーチなどが洋風の意匠だが内部は和風の造りらしい。この店舗の他、同じ時期に建てられた主屋、明治期に建てられた土蔵、味噌蔵、鼻緒蔵が、国の登録有形文化財に選定されている。
日光例幣使街道(嘉右衛門町通り)/岡田記念館
日光例幣使街道(嘉右衛門町通り)
日光例幣使街道(嘉右衛門町通り)
日光例幣使街道(嘉右衛門町通り)
「嘉右衛門町通り」が緩やかにカーヴを描く辺りには岡田記念館がある。岡田家は550年以上の歴史を持つという旧家で、歴代当主は代々「嘉右衛門」を名乗り、現当主(2011年10月現在)で26代目だそうである。設置された「岡田嘉右衛門家由緒書」によれば、古い時代には武家だったそうだが、慶長の頃(1596〜1615年頃)にこの地に移住し、周辺の荒れ地を開墾して新田を開き、村落の発展の基礎を築いた。この新田を「嘉右衛門新田」といい、現在の嘉右衛門町の名の由来にもなっている。江戸時代になって例幣使街道の往来が盛んになると、邸宅内には近郷の陣屋も置かれ、当主は代官職の代行も務めたという。また歴代当主は芸術文化の分野にも関心が深く、多くの文人墨客が岡田家に逗留したそうである。4000平方メートルにも及ぶという邸宅は現在「岡田記念館」として観光客を迎えている。敷地内に残る土蔵や岡田家伝来の宝物などが見学できるという。入館は有料だが、興味のある人は見学していくといい。

「嘉右衛門町通り」はほとんど車両の通行もなく、今は静かな裏通りという雰囲気だ。昔からの道らしく緩やかにS字を描いて曲がり、それに沿って古い建物が建ち並ぶ様子は風趣に富んだ味わいがある。かつての例幣使街道の面影を感じながら、時間をかけて歩きたいところだ。
追記 嘉右衛門町周辺の例幣使街道沿いの地域は“街道沿いに発展した在郷町の特色ある歴史的風致を伝え”、価値が高いとのことで、「栃木市嘉右衛門町伝統的建造物群保存地区」として2012年(平成24年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
栃木病院
栃木病院
万町の交差点から100メートルほど西には栃木病院が建っている。1913年(大正2年)に建てられたものという。栃木市教育委員会によって設置された解説には“横浜方面の建築家、または栃木高校講堂の設計者に依頼”とあるから、今では設計者が判然としないのだろう。

建物は木造二階建て、外壁は「ハーフティンバー形式」と呼ばれる様式で、木造の構造材を意図的に露出させて装飾としている。下から見上げるとわかりにくいが、屋根は複雑な構造をしており、切妻と入母屋を組み合わせて非対称なデザインになっている。一段高くなった屋根には採光用の窓も設けられている。ベランダも設けられ、一見すると病院とは思えないような洒落た意匠の建物だ。

前述の解説によれば“栃木を代表する本格的な洋風建築”だそうで、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に選定されている。
県庁堀
県庁堀附漕渠
栃木病院の横から南に下りながら西へ向かうと、巴波川の西に明治初期の一時期に県庁が置かれていた一角がある。

1871年(明治4年)に廃藩置県によって設けられた栃木県と宇都宮県は1873年(明治6年)に栃木県に統合されたが、県庁の所在地となったのが栃木町(現在の栃木市)である。現在、栃木市役所や栃木中央小学校、栃木高校などの建つ一角がかつての県庁の敷地という。

県庁の周囲には堀が設けられた。この堀は県庁跡地としての唯一の遺構として現在も残っており、「県庁堀」と呼ばれている。「県庁堀」は幅約6メートル、運河を造って巴波川と繋ぎ、敷地内には荷揚げ場が設けられていたという。当時の栃木の物流に於ける巴波川の舟運の重要性が窺える。現在の「県庁堀」には鯉の泳ぐ姿もあり、長閑な佇まいを見せている。「県庁堀」は栃木県指定の文化財である。
栃木高校記念図書館
旧栃木町役場庁舎
旧栃木町役場庁舎
旧栃木町役場庁舎
「県庁堀」の描く四角は南北方向に長い長方形で、長辺は約315メートル、短辺が約246メートル、だから周長が約1.1kmということになる。地図を見ると、栃木市役所や栃木中央小学校、栃木高校などを囲んで矩形を描く「県庁堀」の様子がよくわかる。

「県庁堀」に囲まれた県庁跡地の北寄りには栃木高校が建っている。栃木高校は1896年(明治29年)に栃木県尋常中学校栃木分校として創立されたもので、戦後になって栃木高等学校となったものだ。敷地内には学校創立時に建設された旧栃木県尋常中学校栃木分校本館(現在の栃木高校記念館)や1910年(明治43年)に建てられた講堂、1914年(大正3年)に同窓会の記念事業として建てられたという記念図書館など、いずれも国の登録有形文化財となった建物が残っている。今回は横の道から記念図書館の外観を見学するだけにしておこう。

県庁跡地の南端部分には今は栃木市役所が建っている。東側に建つ市役所別館の建物が存在感を放っている。この建物は1921年(大正10年)に当時の栃木町役場庁舎として建てられたもので、国の登録有形文化財に選定されている。当時の町の職員で技師の堀井寅吉による設計だそうだ。建物は木造二階建ての洋風建築で、なかなか瀟洒な佇まいだ。元々は1階に事務室や食堂などがあり、2階には議場や貴賓室などが設けられていたという。間近から見上げるとわかりにくいが、壁面に時計を設置した塔屋も設けられている。

「県庁堀」の周辺は栃木の町が明治期以降に経験した歴史のひとこまに触れることのできる一角と言えるだろう。「県庁堀」の横を歩きながら、明治の頃の栃木に思いを馳せるのも一興だろう。

1883年(明治16年)に栃木の県令となった三島通庸(みしまみちつね)は、その翌年に半ば強引に県庁を栃木から宇都宮に移転させている。栃木が県庁所在地だった期間はわずか13年だった。県庁移転の理由には諸説あるが、自由民権運動が盛んだった栃木を三島が嫌ったからではないかともいう。三島は自由民権運動を弾圧しており、この年の9月には民権運動家の急進派による三島暗殺未遂事件も起こっている。いわゆる「加波山事件」である。
巴波川
巴波川
栃木市役所から少し東へ行けば巴波川へ出る。栃木の発展を支えた巴波川の舟運は、そもそもは徳川家康が日光へ改葬された際、御用荷物を栃木河岸に陸揚げしたことに始まるのだそうだ。

河岸の遊歩道に「巴波川綱手道について」と題された解説パネルが設置されており、かつての巴波川の舟運についての説明が記されている。それによれば、巴波川沿いには「栃木三河岸」と言われる栃木河岸、片柳河岸、平柳河岸と沼和田河岸があって賑わっていたという。巴波川の舟運によって江戸からは日光御用荷物の他、塩や油、鮮魚類、黒砂糖などが運ばれ、栃木から江戸へは木材、薪炭、米、麦、麻、木綿、瓦などが運ばれた。当時の巴波川はいたるところに湧水があり、流れが速かった。水深も浅く、川幅も広くはなかったため、江戸から戻る舟は岸辺から麻綱などで曳いて川を上った。その舟を曳いた道のことを綱手道というそうだ。ちなみに東京都墨田区の地名「曳舟」も同じく舟を曳いたことから生まれた地名である。
巴波川
巴波川
巴波川の岸辺には江戸との交易で財を成した豪商の蔵が建ち並び、商業で栄えた町の風情を漂わせている。河岸には遊歩道が整備され、観光に訪れた人たちがそぞろ歩きを楽しんでいる。川面には観光遊覧用の小舟がゆっくりと行き交い、興趣に富んだ風景を見せている。この風景は「蔵の街」としての栃木を象徴する風景だろう。かつて物流の動脈として栃木の発展を担った巴波川、今は静かな川面に歴史の名残を映し、栃木の観光を担っている。
銀座通り商店会
銀座通り商店会
銀座通り商店会
「とちぎ蔵の街観光館」から「蔵の街大通り」を200メートルほど南へ下ると「倭町」の交差点がある。この交差点から西へ200メートルほどで巴波川に架かる幸来橋なのだが、その間の通りは「銀座通り商店会」の商店街を成している。アーケードを設けた商店街には衣料品店から家電店、時計宝飾店、カメラ店、和菓子店、喫茶店など、多種多様の店が並んでいる。どの店も古くから商いを続けているらしい佇まいだ。

この商店街がいい。いわゆる“昭和レトロ”な味わいがあって町歩きの好きな人には魅力的なところだろう。今では「アーケード」というもの自体が一般的ではなく、こうした昔から続く商店街でなければ見ることができない。「銀座通り商店会」という名も素敵だ。昔は「銀座」という名は繁華街の代名詞で、全国各地に“銀座”があったものだ。“昭和”を感じさせる町並みの好きな人にはお勧めの商店街である。

今回訪れた際(2011年10月)、「銀座通り商店会」に店を構える和菓子店、山本総本店に立ち寄り、土産物を購入した。山本総本店は1892年(明治25年)創業という老舗和菓子店である。どのお菓子も商業で栄えた町の和菓子店に相応しく魅力的なもので、どれを購入するか迷ってしまう。蔵の形に焼かれたサブレを、蔵をモチーフにしたデザインのパッケージに入れた「蔵サブレー」などは、手軽な栃木のお土産に好適かもしれない。
大場医院
大場医院
「倭町」の交差点から細い道を東へ入り込んだところに「大場医院」という医院がある。この医院の建物が素晴らしい。現在(2011年10月)は特に文化財の指定などは受けていないようで、詳細はわからないのだが、大正期に建てられたものらしい。木造二階建ての堂々とした建物で、奥には入院棟らしい建物も建っており、なかなか規模の大きな医院である。町歩き趣味の人、古い建築物に興味のある人なら必見の建物だろう。大場医院は現在も現役の医院である。迷惑にならないよう、外観だけを静かに見学していこう。
お蔵のお人形さん巡り
お蔵のお人形さん巡り
今回栃木を訪れたのは10月の初旬だったが、街を歩いていると行く先々で雛人形の飾り付けがなされているのに気付いた。実は「お蔵のお人形さん巡り」というイベントが開催されており、その加盟店が雛人形を飾っているということのようだった。

旧暦9月9日(2011年は10月5日)は「重陽の節句」、別名「菊の節句」ともいい、現在ではあまり盛んではないが、昔は菊を飾ったり、菊酒を飲むなどして、邪気を払い、長命を願うという風習があった。この「重陽の節句」に、仕舞っていた雛人形を出して、虫干しを兼ねて飾る「後(のち)の雛」という風習もあった。

そこで、この「後の雛」に合わせて、その前後の一ヶ月間ほど、市内数十ヶ所でこうして雛人形を飾り、観光に訪れた人たちにも見てもらおうと行われているのが「お蔵のお人形さん巡り」であるらしい。「お蔵のお人形さん巡り」は今年(2011年)で10回目、知名度も高くなり、この期間に合わせて栃木を訪れる人も少なくないようだ。通り沿いの見世蔵に飾られた雛人形などはたいへんに良い風情があり、飲食店のフロアの一角に飾られているのもなかなか素敵だ。この時期に栃木を訪れたなら、ぜひ「お蔵のお人形さん巡り」を楽しんでおきたい。
蔵の街とちぎ
蔵の街とちぎ
蔵の街とちぎ
栃木の街はたいへんに魅力的なところだ。河岸に蔵の並ぶ巴波川の風景や、昔ながらの家並みが残る嘉右衛門町通りなどは“風景”としても美しく、ふらりと観光に訪れても充分に楽しめる。江戸時代末期から明治期にかけて建てられた見世蔵や、明治期から大正期にかけて建てられた洋館などは建築物に興味のある人には見逃せないものだろう。“昭和レトロ”な雰囲気を漂わせる商店街の佇まいも素敵だ。街全体にかつて“北関東の商都”として賑わった面影が残り、町歩きの好きな人にはお勧めのところだと言っていい。有名な“観光スポット”から外れて足を延ばしても、そこにもまた興趣に富んだ風景が見つかる。マニアックな町歩きファンの期待にも応えてくれるだろう。季節毎にさまざまなイベントも開催されるようだ。それらのイベントに合わせて訪れてみるのも良いものだろう。
参考情報
交通
鉄道を利用して栃木市へ訪れるなら東武日光線やJR両毛線の栃木駅で降りればいい。東北新幹線を利用する場合は小山駅で両毛線に乗り換えるといい。栃木駅から北へ1kmほど行けば蔵の並ぶ街並みだ。

車で訪れる場合は東北自動車道栃木ICを利用し、栃木ICから県道32号を東進するのがわかりやすいだろう。東北自動車道を東京方面から来るなら、佐野藤岡ICで降りて国道50号を東進、県道11号へ折れて北上して栃木市街へ向かってもいい。

栃木市街に観光客用の駐車場が点在しているので利用するといい。2011年10月に訪れたときは「とちぎ蔵の街観光館」近くにある「蔵の街第1駐車場」を利用した。駐車場の場所や料金などについては栃木市観光協会サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

「岡田家記念館」には専用の来館者用駐車場が設けられている。

飲食
市街地なのでさまざまな飲食店が点在している。散策しながら好みの店を探してもいいし、訪れる前に調べておき、予め目当ての店を決めておくのもいい。

基本的に市街地なので、のんびりとお弁当を広げられるような場所はなさそうだ。

周辺
「蔵の街」の市街地から北東へ数キロ行くと、かつて国府村と呼ばれていた地域で、古い時代には下野国の中心として国庁が置かれていたところだ。大神神社や国庁跡などがある。市街地の南西には、これも数キロ離れて大平山という小高い山がある。周辺は自然が豊かで、紫陽花の名所や寺社の点在する風光明媚なところだそうだ。余裕があれば足を延ばしてみるのもいい。
町散歩
栃木散歩