茨城県北茨城市の北東部、五浦海岸と呼ばれる景勝地がある。大小五つの入り江が連なることから、その名がある。岡倉天心が愛した地としても知られ、一角には天心邸が残されている。九月の半ば、五浦海岸を訪ねた。
五浦海岸
五浦海岸
茨城県北茨城市、太平洋に面した海岸部の最北部に「五浦(いづら)海岸」と呼ばれる景勝地がある。大小五つの入り江が連なることからその名があり、太平洋の荒波に洗われた断崖が興趣に富んだ景観を見せるところだ。「日本の渚100選」のひとつにも選ばれ、「日本の音風景100選」にも「五浦海岸の波音」が選ばれている。

五浦海岸は岡倉天心が愛した土地としても知られ、一時期は自らの主宰する美術院の拠点を五浦に移し、居宅を構えている。その居宅跡は「茨城大学五浦美術文化研究所岡倉天心旧居(研究室)」として国の登録有形文化財(建造物)となっており、2014年(平成26年)には天心関連遺跡と海岸とを含めて「岡倉天心旧宅・庭園及び大五浦・小五浦」として国の登録記念物に選定されている。
五浦海岸
五浦海岸の中央部には岡倉天心の旧居跡や庭園、有名な六角堂などがあり、これらを訪ねることこそ五浦海岸観光そのものだと言っていい。これらの天心関連遺跡は国立大学法人茨城大学五浦美術文化研究所が管理しており、岡倉天心関連の事物が往時のままに保存されている。所定の入場料を支払って長屋門をくぐれば、そこはかつて岡倉天心が居を構えたところだ。母屋の中心部分や長屋門は建築当時のものがそのままに残っているという。
五浦海岸
五浦海岸
海を見下ろす岩盤の上に築かれた居宅と庭園は華美ではないが風趣に富み、美術思想家としての岡倉の嗜好がそのままに現れているのだろう。母屋は中に立ち入ることはできないが、外側から内部の様子を見学することができる。その様子から岡倉の暮らしぶりを思い描くのも一興というものだろう。
五浦海岸
庭園の端から小径を辿って、海に張り出した岩盤の上に築かれた六角堂へ行くこともできる。六角堂は岡倉天心自身の設計によって建てられたもので、「観瀾亭」と名付けられた。小さな岬のような岩盤の上に立つ六角堂の姿は五浦海岸の象徴と言っていい。
五浦海岸
六角堂の北には大五浦、南には小五浦と呼ばれる入り江があり、その間に挟まれた小半島のような岩盤上に六角堂は建っている。そこからは五浦海岸の景勝を存分に堪能することができる。北にも南にも荒々しい景観の断崖が連なり、そこへ波が打ち付ける景観は迫力満点だ。六角堂正面の岩床に石灯籠が据えられているのも風雅な景観だ。かつて岡倉が心惹かれた景観を、自分の目で見ておきたい。
五浦海岸
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による津波は、この五浦海岸にも大きな被害をもたらした。六角堂は建物全体が土台から引き離されて崩壊、沖に流された。庭園と母屋は海面からの高さが10.2mあったにも関わらず、北東側の崖から遡上した津波が襲い、浸水高は55cmに達したという。10.7mほどの遡上高は茨城県で最も高いもののひとつとなった。現在の六角堂は、震災後に再建されて2012年(平成24年)4月28日から公開されているものだ。
五浦海岸
岡倉天心は本名を角蔵(後に、自ら「覚三」と変えている)といい、1863年(文久2年)、福井藩士岡倉覚右衛門の二男として生まれている。生まれたのは横浜だ。当時、越前藩の出資による生糸貿易の商館「石川屋」が横浜にあった。その石川屋の支配人を務めていたのが岡倉覚右衛門である。

天心は幼少期を横浜で過ごし、アメリカ人宣教師に英語を学んだ。1871年(明治4年)、藩命によって石川屋は閉鎖、岡倉家は一家で東京に移った。天心は東京開成学校(現東京大学)に学び、1878年(明治11年)、東京開成学校の教師として来日したアメリカの東洋美術史家フェノロサに出会う。その出会いが天心の運命を決定づけることになる。

天心は東京開成学校在学中からフェノロサを手伝い、その後も古美術の調査や保護に努めたという。1889年(明治22年)、自ら設立に尽力した東京美術学校の初代校長に就任した。しかし、学内での対立などによって排斥され、1898年(明治31年)に辞任、その後、横山大観や下村観山、菱田春草らと共に東京谷中の地で日本美術院を設立する。1905年(明治38年)、天心はこの五浦海岸に別荘を建て、その翌年には日本美術院をこの地に移転する。

しかし、その頃の天心はボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられて渡米することが多くなり、「The ideals of the East(東洋の理想)」、「The Awakening of Japan(日本の覚醒)」、「The Book of Tea(茶の本)」といった英文著作をロンドンやニューヨークで出版するなど、東洋美術の紹介に注力、日本美術院での活動はままならなかった。1910年(明治43年)、天心はボストン美術館中国・日本美術部長に就任して渡米、日本美術院は事実上の解散となった(日本美術院は天心の死後、横山大観らによって再興されている)。

1911年(明治44年)に帰国した天心はいったん五浦に戻ったが、1913年(大正2年)、静養のために訪れていた新潟の赤倉でその生涯を閉じた。墓所は東京の染井墓地にあるが、遺言によって分骨され、五浦にも天心の墓がある。
五浦岬公園
五浦岬公園
岡倉天心旧宅・庭園のやや南側、大津岬の突端部分に五浦岬公園という公園が設けられている。入口から園路を辿ってゆけば、高みとなった岬の上で、園路から五浦海岸の景勝を一望できる。岬突端部の広場には展望塔も設けられており、塔の上に登ればさらに広々とした眺望が楽しめる。南には木々の中に大津岬燈台が顔を出し、北には五浦海岸の荒々しい景観を見下ろす。
五浦岬公園
岡倉天心旧宅・庭園や六角堂も眼下に見え、海に張り出すように岩盤の上に築かれた六角堂の姿もよく見える。ここから見る六角堂の姿こそは、五浦海岸の象徴と言っていい。その周辺の岩場に波が打ち寄せる景観は迫力に満ちて圧倒される思いがする。五浦海岸を訪れたときには絶対に見ておかなくてはならない景観と言っていい。
五浦岬公園
公園内の広場の一角に、何やら建物が建っている。これは映画「天心」の撮影ロケセットだという。映画「天心」は松村克弥監督によって2013年(平成25年)に制作されたもので、若き日の横山大観の目を通して天心と弟子たちの日々を描いている。天心を竹中直人、横山大観を中村獅童、菱田春草を平山浩行、下村観山を木下ほうかといった人たちが演じた。映画を見た人なら見ておきたいロケセットだろう。
参考情報
岡倉天心旧宅・庭園は敷地内への入場に入場料が必要だ。開館日や開園時間、入場料など、詳細は茨城大学五浦美術文化研究所のサイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通
五浦海岸はJR常磐線大津港駅が最寄りだが、岡倉天心旧宅・庭園までは3kmほど、五浦岬公園入口まではさらに数百メートルの距離があり、徒歩では少しつらい。岡倉天心旧宅・庭園入口を経由する北茨城市巡回バスのルートもあるが、運行曜日が限られており、便数も少ない。大津港駅からタクシーの利用が賢明だろう。

岡倉天心旧宅・庭園入口付近や五浦岬公園入口付近には来訪者用の無料駐車場が用意されており、車での来訪が便利だ。駐車スペースはあまり多くはないが、駐車が困難なほど混み合うことは少ないように思える。

遠方から訪れる場合は常磐自動車道の北茨城ICやいわき勿来ICを利用すればいい。ICから国道6号へと出て、北茨城IC方面からは北上、いわき勿来IC方面からは南下、六角堂を指し示す案内標識に従って「美術館入口」交差点を県道354号へと(海側へと)折れ、「美術館入口」交差点からしばらく(1.6kmほど)走って、再び六角堂を指し示す案内標識に従って海側への道へ折れればいい。五浦岬公園入口は少しばかりわかりにくいが、最も海寄りの道を辿ればいい。

飲食
岡倉天心旧宅・庭園の施設内には飲食の可能な店は併設されていない。周辺に飲食店が点在しているが、大津港周辺や大津港駅周辺まで足を延ばせば飲食店の数も多くなる。車で移動しつつ探すのが賢明かもしれない。

周辺
岡倉天心旧宅・庭園の北には「茨城県天心記念五浦美術館」が建っている。興味のある人は併せて訪ねてみるといい。六角堂から南西側へ回れば大津港がある。港の風情を楽しみながら散策してみるのも悪くない。

国道6号を数キロ南下すれば北茨城市の中心部、野口雨情の生家や資料館などがある。海岸は磯原海水浴場、波間には二ツ島が浮かぶ。

県道27号を西へ、山間部へと辿れば花園渓谷、周辺には滝が点在し、風光明媚なところだそうだ。
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