新潟県上越市の春日山城跡は戦国の名将である上杉謙信の居城だったところだ。天然の地形を活かした難攻不落の山城だった。日本百名城のひとつであり、国指定史跡。夏の暑さの残る九月上旬、春日山城跡を訪ねた。
春日山城跡
新潟県上越市、高田平野に西から迫る西頸城山地の端に位置して、春日山城跡がある。春日山城は戦国時代の名将、上杉謙信の居城として広く知られている。現在も空堀や土塁などが残っており、当時の山城の様子を窺い知ることができる。国指定史跡であり、日本百名城にも名を連ねる。上越市の誇る名所のひとつとして多くの観光客を集めている。
春日山城跡
春日山城跡
春日山城跡
春日山城の築城については詳しくわかっていないという。南北朝時代(1336〜1392年頃)にはすでに存在していたようで、一説には越後国の守護であった上杉氏が直江津にあった越後府中の守りを強固なものにするために詰城を築いたのが始まりだろうという。

やがて越後は守護代であった長尾氏の権力が増大、1507年(永正4年)、守護である上杉房能から謀反の疑いをかけられた長尾為景が房能の居館を襲撃、房能を追放し、上杉定実を守護に擁立する。定実の守護はもちろん傀儡であり、長尾為景が越後の実権を掌握しようとしたわけである。この頃から、春日山城は長尾為景によって本格的な山城として整備されていったのだろうという。

しかし房能の実兄である関東管領の上杉顕定が長尾為景に報復、1509年(永正4年)に大群を率いて越後に攻め込む。劣勢に追い込まれた為景はいったんは佐渡に逃れるものの、態勢を立て直し、翌1510年(永正5年)に反撃に転じる。上杉軍は敗退、顕定は敗死する。1513年(永正10年)には傀儡であることに不満を抱いた上杉定実が反乱を起こすものの失敗、守護の権威は完全に失墜、春日山城主として越後の実権を掌握した長尾為景は勢力を拡大してゆく。
春日山城跡
春日山城跡
春日山城跡
1536年(天文5年)、為景は隠居、実子である長尾晴景が家督を継いで春日山城主となる。晴景は穏健派であったといい、領内の争乱を鎮めることにはある程度成功したものの、やがて領内勢力の均衡は崩れてゆく。特に1542年(天文11年)に為景が病死した後は、長尾氏の求心力が急速に失われてゆく。

1530年(享禄3年)、長尾晴景の異母弟として生まれたのが虎千代である。虎千代は為景に疎んじられていたといい、幼少期は城下の林泉寺に入門していた。1543年(天文12年)、晴景は虎千代を元服させて長尾景虎と名乗らせる。1544年(天文13年)、元服したばかりの景虎を侮った越後の国人衆が反乱を起こす。ところが栃尾城を守っていた景虎はわずかな兵で反乱の兵を鮮やかに蹴散らしてみせるのである。後に上杉謙信として名を馳せ、“軍神”と呼ばれるようになる武将が世に出た戦いである。

当然のように晴景を排して景虎を擁立しようとする動きが起こり、1548年(天文17年)、上杉定実の調停によって晴景は景虎を養子として家督を譲る。景虎はわずか19歳で家督を継ぎ、春日山城主となって、越後の守護代を任され、越後国主となる。景虎の家督相続に不満を持つ者もあったが、景虎はこれらを鎮圧、ついに越後を統一するのである。1551年(天文20年)、景虎が22歳のときである。
春日山城跡
春日山城跡
春日山城跡
その後の長尾景虎の武勇については枚挙にいとまがない。やがて10年ほどが過ぎた1561年(永禄4年)、景虎は山内上杉家の家督と関東管領の職を相続、上杉政虎と名を改める。さらに後に輝虎に改名、出家した後は謙信と号することになる。それからさらに十数年が過ぎた1578年(天正6年)、遠征の準備中だった謙信は春日山城内で倒れ、急死する。死因は脳溢血とみられている。謙信の死後、家督の相続を巡って「御館の乱」が勃発、乱を制した謙信の養子上杉景勝が城主となるが、以後、上杉家は弱体化してゆく。

その頃、天下の覇者となっていたのは織田信長だ。しかし1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」で事態は一変する。信長の死後、天下人となったのが羽柴秀吉である。1598年(慶長3年)、秀吉の命によって春日山城主だった上杉景勝が会津へ転封となり、代わって春日山城主となったのが堀秀治である。同年、秀吉が死去、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こり、世は徳川の時代を迎える。春日山城主の堀秀治は1606年(慶長11年)に急死、子の堀忠俊が跡を継ぎ、かねてから築造中だった福島の新城を完成させて移り、春日山城は廃城となるのである。
春日山城跡
春日山城跡
堀氏が春日山城を去ってからすでに四百年余、城跡にはもちろん当時の建造物は残されていない。天然の地形を活かして造られた山城は難攻不落、天下の名城と言われた。今も当時の空堀や土塁の跡が残る。丘の斜面を辿る小径を歩きながら、かつてここに長尾氏や家臣たちの館が建ち、戦国武者が闊歩していた頃の姿を思い浮かべるのは、山城散策の醍醐味だろう。

標高180mの本丸跡からは東に高田平野を見下ろし、遠く直江津の港を見ることもできる。かつて長尾為景も上杉謙信もここから領内の田畑や人家を眺めていたのだろう。西に視線を向ければ西頸城山地の山々が幾重にも重なって続く。素晴らしい眺望である。

本丸跡の近くに「井戸曲輪」がある。山頂近くの井戸に水が湧くのはなかなか不思議だが、西の山々と礫層で繋がっており、サイフォンの原理で水が湧くのだそうである。井戸は今も満々と水を湛えている。
春日山城跡
春日山城跡
上杉謙信と言えば毘沙門天である。毘沙門天は戦の神、謙信は毘沙門天を崇敬し、「毘」の文字をあしらった軍旗を掲げた。春日山城跡には今も毘沙門堂が祀られている。道半ばで急逝した謙信は毘沙門天と一体となって今も領内の平穏を見守っているのかもしれない。

山の中腹に設けられた観光駐車場の脇には上杉謙信の像が建っている。これは1969年(昭和44年)に放送されたNHK大河ドラマ「天と地と」に合わせて制作されたものだという。像の右手奥には春日山神社が鎮座している。上杉謙信を祭神として祀る神社で、1901年(明治34年)に山形県米沢市の上杉神社から分霊されて建立されたものという。創建した小川澄晴は童話作家である小川未明の父だそうである。上杉謙信の縁の地を訪ねているという人なら、像と共に記念写真を撮って春日山神社に参拝しておきたいところだ。
春日山城跡
春日山城跡
春日山城跡は壮麗な天守などの残る城跡の観光地的な要素を求めて訪れると少しばかり物足りないところもあるだろう。城跡というものや戦国時代の歴史に特に興味の無い人なら、“城跡を訪ねる”というより標高180mの山への手軽な登山を楽しむつもりで訪れるといい。木々に包まれての山歩きや、山頂からの眺望はきっと満足できるものだろう。

そしてもちろん、戦国時代の山城を訪ね歩いている人や、上杉謙信縁の土地を訪ね歩いている人なら、春日山城跡は一度は訪ねてみるべきところだ。本丸跡から城下を見下ろしながら、“越後の虎”と恐れられた“軍神”、上杉謙信の生き様に思いを馳せるひとときを過ごしてみたい。
参考情報
交通
春日山城跡は「えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン」の「春日山」駅が最寄りだが、3km前後の距離があり、徒歩では少しつらい。車での来訪が賢明だろう。

車で訪れる場合には北陸自動車道を利用し、「上越IC」で降りると近い。「上越IC」を直江津港方面へと出て、約6kmで春日山城跡に着く。春日山城跡には40台ほどが駐車可能な無料駐車場が用意されている。

飲食
春日山城跡入口に飲食店が建っているが、周辺には飲食店はない。選択肢を増やそうという場合は春日山駅周辺の市街地に移動するのが賢明だ。

お弁当などを準備しておいて、山頂のベンチなどでランチタイムというのも楽しい。

周辺
春日山城跡から南西の方角へ8kmほど車で走れば高田の町の中心部、雁木の連なる町の風景や高田城跡などの観光を楽しみたい。

北へ辿って国道8号を西へ向かえば、春日山城跡から5kmほどで日本海の沿岸に出る。日本海の眺めを楽しみながらのドライヴもお勧めだ。
城跡探訪
新潟散歩