
浅草寺本堂

|
浅草寺本堂は観音堂とも呼ばれ、ご本尊が安置され、参拝の人々が絶えない。創建以来、本堂は幾たびかの焼失と再建とを繰り返したが、慶安2年(1649年)、徳川家光によって再建されたものが近世まで残り、明治期に「国宝」に指定されている。この国宝の浅草寺本堂は関東大震災でも倒壊を免れたという。しかし残念ながら昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で焼失、現在のものは昭和33年(1958年)に再建されたものだ。鉄筋コンクリート造、間口は約35メートル、奥行き約33メートル、棟高は30メートルほどという堂々とした姿だ。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)の筆による「龍之図」、天井には堂本印象(どうもといんしょう)の筆になる「天人散華之図」がある。内陣中央の宮殿(くうでん)に秘仏本尊と「お前立ち」の観音像が安置されているが、もちろん秘仏本尊は公開されることはない。
|

雷門

|
雷門は浅草寺の総門に当たる。交差点に面して建つ姿はまさに浅草の象徴的存在と言ってよく、雷門を背にして記念撮影をする観光客の姿が絶えない。雷門は、正しくは「風雷神門」といい、左に雷神様、右には風神様が祀られている。「雷門」は通称で、正式な名がいつの間にか縮まって定着してしまったものであるようだ。「門の名で見りゃ風神は居候」といった江戸川柳があるという。
雷門が初めて造られたのは天慶5年(945年)のことで、武蔵守に任ぜられた平公雅(たいらのきんまさ)が寄進したものという。当初は現在の駒形辺りにあったものらしいが、鎌倉時代に現在地に移った。以来、江戸時代に至るまでに幾たびか火災で焼失、その度に再建されてきたが、慶応元年(1865年)の大火で焼失した後はなかなか再建されず、そのまま明治期、大正期、昭和の初期に至るまで、「雷門」は無かったのだという。それがようやく再建されたのが、昭和35年(1960年)のことで、実に95年ぶりのことだった。このとき再建の費用を負担し、「雷門」を寄贈したのが松下電器の創業者として知られる松下幸之助氏で、雷門中央に提げられた大提灯の下部をよく見てみると「松下電器」と「松下幸之助」の名がある。松下幸之助氏の膝の痛みが浅草寺の祈願祈祷によって快復し、それが縁での寄進であったらしい。以来、松下電器は社会貢献活動の一環として二神像や大提灯の寄進、大提灯の修復などを継続して行っている。この大提灯、高さ4メートル、幅3.4メートル、重量は670キロほどという堂々としたもので、三社祭の際には御輿が通れるように上に折り畳まれるという。
|

宝蔵門

|
雷門から仲見世を通り抜けて浅草寺本堂に向かうと、本堂の手前に壮麗な門が建っている。浅草寺の山門にあたる宝蔵門だ。以前は仁王門と呼ばれ、天慶5年(942年)に平公雅(たいらのきんまさ)が建立したものという。仁王門も幾たびかの焼失と再建を繰り返した後、慶安2年(1649年)に再建されたが、これも東京大空襲で焼失した。現在の門は昭和39年(1964年)にホテルニューオータニの創業者として知られる実業家大谷米太郎の寄進を受けて再建されたもので、再建された後は「宝蔵門」の名で呼ばれている。
宝蔵門は鉄筋コンクリート製の入母屋造り、間口21メートル、高さは23メートルほどという。「宝蔵門」の名が示すように上層部には国宝の「法華経」や重要文化財の「元版一切経」など、さまざまな寺宝が収蔵されている。またそもそもは「仁王門」であるから右に呵形、左には吽形の仁王(金剛力士)像が安置されている。中央部には「小舟町」と記された大提灯が提げられている。日本橋小舟町の人々による寄進であるという。また、あまり目を留める人はいないようだが、門裏には長さ4.5メートルにも及ぶ巨大な「わらじ」が提げられている。吽形の仁王像の制作者である村岡久作氏の出身地、山形県村山市の奉賛会からの寄進という。魔除けの意味があるらしい。
|

五重塔

|
宝蔵門の西側には五重塔が建っている。最初のものはこれも天慶5年(942年)に平公雅(たいらのきんまさ)が建立したものという。これも焼失と再建とを繰り返した後に慶安2年(1649年)に再建され、江戸時代には増上寺、寛永寺、天王寺の塔と共に「江戸四塔」として親しまれていたという。その五重塔も明治期に国宝に指定されたが、やがて東京大空襲で焼失する。現在のものは昭和48年(1973年)に再建されたものだ。以前は現在地とは異なり本堂の東南に位置していたが、再建時に本堂の西南側である現在地に移っている。塔は地上から50メートル超という高さ(塔部分だけでも48メートルほど)で境内でもひときわ目を引く。最上階にはスリランカのイスルムニヤ王立寺院から贈呈された仏舎利が納められている。
|

鳩ポッポの歌碑

|
本堂の西南側にひっそりと「鳩ポッポの歌碑」がある。東くめ作詞、滝廉太郎作曲の童謡「鳩ポッポ」の歌碑として昭和37年(1964年)に建てられたものだ。この「鳩ポッポ」の歌詞が浅草寺境内での鳩と子どもたちとの姿を描いたものらしいというので、浅草寺境内に歌碑が建てられたものらしい。ちなみにこの「鳩ポッポ」は、一般によく知られた文部省唱歌の「鳩」とは異なる楽曲なのだが、混同されることも少なくないようだ。
この「鳩ポッポ」を作詞した東くめは日本初の口語歌詞の童謡を発表した童謡作詞家として知られている。東くめは明治10年(1877年)、新宮藩家老由比甚五郎の長女として和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)に生まれた。子どもの頃から音楽を志し、東京音楽学校に入学、明治30年(1897年)に卒業すると同時に東京府高等女学校の音楽教諭になった。明治32年(1899年)に東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の教授だった東基吉と結婚、この頃から基吉の提案によって口語歌詞による童謡の作詞に取り組み始める。明治34年(1901年)、後輩だった滝廉太郎と組んで制作した日本初の口語歌詞童謡、「お正月」、「鳩ポッポ」、「雪(雪やこんこ)」を発表する。やがて大坂へ転居、昭和44年(1969年)に亡くなる直前まで、現役のピアノ教師として働いていたという。
かつて浅草寺と言えば、参拝客が鳩に餌を与える様子がひとつの名物と言ってもよかった。この「鳩ポッポの歌碑」近くに「はと豆」売りの小屋があり、その前の広場で「はと豆」を与える参拝客に鳩の群れる姿が見られたものだ。浅草寺境内では大正時代頃から露天商が鳩の餌を売るようになり、参拝客がそれを買って鳩に与えていたという。餌があれば鳩は増える。一時期、浅草寺には約3000羽の鳩がいたという。やがて世相も変わり、糞などによる被害が取り沙汰されるようになる。付近住民からの苦情も無視できなくなり、台東区は平成15年(2003年)夏頃から「鳩の餌やり禁止」を呼びかけるようになった。その年の暮れには「はと豆」売りの小屋もついに撤去されたという。
|

浅草神社

|
浅草寺本堂の東側には浅草神社が建っている。浅草寺の起こりとなった聖観音像を発見した檜前浜成、竹成兄弟と土師中知(あるいは土師真中知)の三人を神として祀った三社権現社として建立されたものだ。建立の時期ははっきりとせず、土師中知(あるいは土師真中知)の子が夢告を受けて創建したとも伝えられているようだが、実際には平安末期から鎌倉期にかけての頃に彼らの末裔が建立したものだろうとの見解を浅草神社は示している。その由緒に於いて浅草寺と密接な繋がりのある神社だが、明治の神仏分離令によって浅草寺から分離、「三社明神社」、さらに「浅草神社」と改称され、現在も浅草神社は浅草寺とは別の独立した宗教法人である。現在の社殿は慶安2年(1649年)、徳川家光によって建立されたもので、幸いにも関東大震災や戦災も免れ、現在までその姿を残している。昭和21年(1951年)には国の重要文化財に指定された貴重な文化遺産だ。浅草神社はその由緒から今もなお「三社様」として親しまれている。毎年五月に行われる有名な「三社祭」はこの神社の例大祭である。
|