佳景探訪
蘆花恒春園
東京都世田谷区の北西部に「蘆花恒春園」という都立公園がある。明治大正期の小説家である徳冨蘆花が晩年を過ごした旧邸跡とその周辺を公園として整備したものだ。六月下旬、蘆花恒春園を訪ねた。



蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園
東京都世田谷区の北西部、粕谷一丁目の町に位置して「蘆花恒春園」という都立の公園がある。蘆花恒春園は明治から大正期にかけて活動した小説家、徳冨蘆花が晩年を過ごした旧邸跡とその周辺を公園として整備、公開しているものだ。

徳冨蘆花は1907年(明治40年)2月まで青山高樹町で借家住まいをしていたそうだが、土に親しむ生活をしたいと、武蔵野の豊かな自然が広がる、この地に移り住んだ。蘆花が40歳の時だったそうだ。以後、1927年(昭和2年)に療養先の伊香保で亡くなるまで、蘆花はここに暮らした。蘆花が亡くなって10年後、この地の旧邸すべてが愛子夫人から当時の東京市に寄付された。それを受けて市は旧邸地を「蘆花恒春園」と名付けて保存、周辺を公園として整備し、1938年(昭和13年)に開園、一般公開を開始している。

現在は公園の名称も「蘆花恒春園」だが、近年まで公園の呼称としては「芦花公園」が用いられていた。推測だが、寄付を受けて整備公開されたとき、徳冨蘆花旧邸跡を「蘆花恒春園」とし、周辺も含めて整備した公園を「芦花公園」とした(「芦」は「蘆」の略字)のではないか。すなわち「蘆花恒春園」は「芦花公園」の一部、という形だったのだろう。近隣の人たちは今も「芦花公園」の名で呼ぶようで、「芦花公園」の名は通称として使われ続けるのかもしれない。ちなみに京王線の「芦花公園」駅は1913年(大正2年)に「上高井戸」駅として開業したものだが、徳冨蘆花旧邸跡が公園として公開されるのを受けて1937年(昭和12年)9月に「芦花公園」駅に改称されたものだ。

都立蘆花恒春園(すなわち、かつての「芦花公園」)は、2014年(平成26年)現在で8haほどの面積を有する。なかなか広い公園である。徳冨蘆花の旧宅跡と周辺の林地は「恒春園区域」として区画を設けて保存され、その周囲に「開放公園区域」が広がっている。開放公園区域は樹林地や広場などから構成され、近隣の人々の憩いの場として親しまれている。遊具類を設けた「児童公園」の区画もあり、近隣の子どもたちの遊び場としての役割も担っている。園内の一角にはドッグランも設けられており、愛犬家に人気のようだ。

園内は数多くの樹木が茂って緑濃く、世田谷区内の住宅地の直中に位置しているとは思えないほどだ。園内にはクヌギやクスノキ、ケヤキ、トウカエデ、ヤマモモなど、さまざまな樹木が茂る。低木3000株、高木2400本という数らしい。公園南側には「花の丘」と名付けられた一角があり、その名のように花壇が整備され、季節の花々を楽しむことができる。遠方から訪れる人にとっては、やはり徳冨蘆花住宅跡である「蘆花恒春園」が魅力だと思うが、徳冨蘆花旧宅を見学した後はのんびりと園内を散策し、のんびりとした公園でのひとときを愉しむのがお勧めだ。しっとりと落ち着いた佇まいが魅力の公園である。


蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園

蘆花恒春園/徳冨蘆花・愛子夫妻墓所
徳冨蘆花旧宅跡と周辺の林地、すなわち本来の意味での「蘆花恒春園」は、公園としての都立蘆花恒春園の北西側に位置し、「恒春園区域」としてフェンスで囲まれ、独立した区域となっている。北側の道路に面して正門が設けられており(公園内からも入っていくことは可能だ)、門には大きく「蘆花恒春園」の名が刻まれている。

正門から園内に入ると園路の左手(東側)にはサービスセンターや蘆花記念館の建物が並び、その奥に愛子夫人の居宅や徳冨蘆花旧宅の建物が建ち並んでいる。徳冨蘆花旧宅は母屋と秋水書院、梅花書屋の三棟から成り、それらが渡り廊下によって繋がれた構成となっている。これらの建物は老朽化したため、1983年度(昭和58年度)から1985年(昭和60年度)にかけて改修が行われたそうだ。1986年(昭和61年)3月、これらの建物は「徳冨蘆花旧宅」として東京都の史跡に指定されている。

徳冨蘆花は本名と徳富健次郎という。1868年(明治元年)、肥後国葦北郡水俣村(現在の熊本県水俣市)に生まれた。明治期の著名な思想家、ジャーナリストである徳富蘇峰(猪一郎)は実兄である。兄弟ともに京都の同志社に学び、1889年(明治22年)、蘆花が20歳のときに上京、蘇峰の経営する民友社に入って下積みの日々を送っている。1898年(明治31年)から蘆花は新聞に「不如帰」を連載、これがベストセラーになって注目を集め、続く随筆「自然と人生」が高評価を得て、人気作家となった。しかし兄である蘇峰とは思想の違いなどから次第に不仲となり、1903年(明治36年)に「告別の辞」を発表した後は絶縁状態が続いたという。

1907年(明治40年)、蘆花は北多摩郡千歳村字粕谷の地に移り住んだ。それがすなわち現在の世田谷区粕谷の、この地である。蘆花は自らを「美的百姓」と称し、この地で半農生活を営みながら晩年を送った。1927年(昭和2年)、蘆花は伊香保での療養中、58歳で亡くなっている。

「恒春園」の名の由来は、この地での生活の様子を綴った「みみずのたはこと」に記されている。台湾の南に「恒春」という地名があり、ある時、その恒春に蘆花の農園があるという噂が起こり、そこで人を使ってくれないかと頼まれたという。もちろん台湾の恒春に農園はないのだが、“縁喜が好い”からと、「永久に若い」という意味も込めて、1918年(大正7年)に住居の雅号として自ら名付けたものという。

ところで、徳冨蘆花は「冨」の字を用い、兄の徳富蘇峰は「富」の字を用いているが、その理由には彼らの学問の素養の違いなどの他、蘆花の兄への決別の思いが込められているのではないかと言われている。長く絶交状態にあった兄、蘇峰とは、療養中の伊香保でついに和解を果たしている。蘆花が亡くなったのは、その翌日であったという。

徳冨蘆花が晩年を過ごした北多摩郡千歳村は1936年(昭和11年)に東京市に編入、世田谷区の一部となった。1936年(昭和11年)、蘆花の没後十周忌に際し、徳冨蘆花旧邸の建物、敷地、遺品のすべてが愛子夫人から東京市に寄付された。現状を維持し、故人を偲ぶ公園として公開、活用することが条件であったという。翌1938年(昭和13年)、徳冨蘆花旧邸跡は「東京市蘆花恒春園」として開園、以来、徳冨蘆花晩年の地として保存公開がなされている。その愛子夫人は1947年(昭和22年)、熱海で永眠している。

徳冨蘆花旧宅の建物、母屋と秋水書院、梅花書屋はいずれも茅葺きで、往時の面影をよく留めているという。林地の中に溶け込むように立つ姿は素朴でありつつ、どこか凛とした佇まいで、明治期の文筆家が選んだ晴耕雨読の生活への思いが感じられるようでもある。周囲に残された林地は、蘆花がこの地に移り住んだ時代の、武蔵野の植生を色濃く残すものだろう。建物の周囲にはシラカシやスダジイ、イロハモミジ、ムクノキといった樹木が大きく枝を広げ、林地の中にはコウヤマキの姿もある。見事な竹林も残されている。徳冨蘆花がここで送った日々を想像しながら、ゆっくりと見学していると時の経つのを忘れる。その景観は蘆花が暮らした頃からあまり変わってはいないのだろう。建物の陰から今にも徳冨蘆花が姿を現すような気さえしてくる。そんな蘆花恒春園である。

「恒春園区域」の外だが、旧宅建物の建つ東側の林地には徳冨蘆花と愛子夫妻の墓所がある。墓所前には「徳冨健次郎墓誌」と「徳冨愛子墓誌」と題された墓誌が掲示されている。これらの墓誌の原文は兄である徳富蘇峰によって漢文で書かれ、石板に刻まれて墓に収められたものだそうだ。墓石に刻まれた墓碑銘もまた、蘇峰によるものという。


蘆花恒春園/花の丘

蘆花恒春園/花の丘

蘆花恒春園/花の丘

蘆花恒春園/花の丘

蘆花恒春園/花の丘
都立蘆花恒春園の南東側、南に細長く突き出た区画がある。「花の丘」と呼ばれる区域で、2000年(平成12年)に公園の拡張部分として開園したものという。都立蘆花恒春園の大部分が樹林地であるのに対し、「花の丘」は「丘」の文字が象徴するように少し高みとなって開放感を感じる区画だ。

「花の丘」はその名のようにさまざまな花々が楽しめるところだ。中央部には花壇が整備され、今回訪れたとき(2014年6月)にも色とりどりの花々が美しく咲き誇っていた。この花壇は「NPO法人 芦花公園花の丘友の会」が手入れを行っているという。

外縁部にはタカトオコヒガンザクラの並木も設けられている。長野県高遠町から譲り受けたものだそうで、都内では新宿御苑とその周辺にしかないという。まだまだ木は小さいが、年月を経れば大きく育って美しい景観を見せてくれることだろう。

西側外縁部には紫陽花が植え込まれており、訪れたのはちょうど花の盛りだった。南側にはアナベルが、北側には一般的な西洋アジサイが植えられているようだ。特徴的な形状のウズアジサイも見ることができる。真っ白なアナベルが「花の丘」の縁を彩るように連なる様子がなかなか美しい。

「花の丘」内にはネムノキも植えられており、ちょうど花の時期だった。ブラシノキも植えられているようだが、こちらは花の時期を過ぎてしまっている。藤棚もあるが、これももちろん花期を終えて緑に覆われていた。他にもさまざまな草木があり、四季折々に楽しめそうだ。花の好きな人、花の写真を趣味とする人にはなかなか魅力的な「花の丘」である。




粕谷八幡神社

粕谷八幡神社

粕谷八幡神社
都立蘆花恒春園の北側、「恒春園区域」の東側には八幡神社が鎮座している。八幡宮であるから祭神は誉田別命(応神天皇)、大分県宇佐市の宇佐神宮が総本社である。建立の時期についてはよくわかっていないようだが、神社の由緒書によれば「古老、口碑等により開村当時よりの鎮守として尊敬をうけてきた古社」であるらしい。社殿は1881年(明治14年)と1927年(昭和2年)に改築されたが、1959年(昭和34年)3月30日に放火により全焼、同年12月に鉄筋コンクリートの社殿と軽量鉄骨造の社務所が新築されたものという。

神社の境内地は公園の区域外だと思うが、世田谷の住宅街の中にあって公園と同化した緑地帯を成している。境内地は狭く、残念ながら静謐さというものもあまり感じることはできないが、世田谷区の保存樹木に指定されたイチョウやイヌシデ、ソメイヨシノなどの大木の姿に古くからの鎮守らしい趣を見ることができる。蘆花恒春園に訪れたときには参拝していくといい。
参考情報
本欄の内容は蘆花恒春園関連ページ共通です
「恒春園区域」は開園時間が決められており、夜間の入園はできない。入園料は必要ない。

交通

蘆花恒春園へは京王線の芦花公園駅や八幡山駅が近い。どちらも徒歩で十数分というところだ。バスを利用する場合は京王線千歳烏山駅か小田急線千歳船橋駅から、その両者を結ぶ路線を利用し、「芦花恒春園」あるいは「芦花恒春園前」バス停で下車すれば近い。

蘆花恒春園には来園者用の有料駐車場が設けられており、車で来園することも可能だ。駐車場は数十台分の駐車スペースが設けられている。公園周辺には数は少ないが民間駐車場も点在しているので、公園駐車場が満車の場合はそれらを利用するといいだろう。

駐車場は公園北東側に設けられており、環状八号線の「芦花公園前」交差点から西へ折れてすぐのところに駐車場入口がある。環状八号線を用賀方面(東名高速道路方面)から北上してきた場合は「芦花公園前」交差点で左折できるが、高井戸方面(中央自動車道方面)から南下してきた場合は右折できないので、蘆花恒春園の横を通り過ぎて「千歳台」交差点を右折、公園の周囲を回り込むようにして駐車場入口へ向かう必要がある。

遠方から車で訪れる人は中央自動車道や国道20号線、あるいは東名高速道路や国道246号線などを利用し、環状八号線へと辿ればわかりやすい。

飲食

公園内にはレストランも売店もない。公園周辺にも飲食店はほとんど見当たらない。飲食店を探すなら駅周辺へ移動した方が賢明だろう。

ピクニック感覚で訪れるのに好適な公園とは言い難いが、木々の茂った緑濃い公園なので、お弁当持参で訪れて園内のベンチなどを利用してランチタイムを過ごすのも悪くない。

周辺

蘆花恒春園の西、直線距離で1.5kmほど離れて祖師谷公園がある。蘆花恒春園から歩けば20分強といったところか。併せて訪ねてみてもいいだろう。
蘆花恒春園

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