東京都昭島市の東端部に「もくせいの杜」という町名の地域がある。いかにも近年になって名付けられた町名という印象だが、この辺りは昭和初期に立川陸軍飛行場のあったところで、戦後は米空軍立川基地として使用されてきた。全面返還されたのは1977年(昭和52年)のことだ。
旧立川基地の敷地は立川市から昭島市にまたがっており、その昭島市側の区域に現在「もくせいの杜」の町名が与えられているわけだ。「もくせいの杜一丁目」はJR青梅線の西立川駅から東中神駅との間の線路北側に広がり、その北側、現在「国際法務総合センター」などの施設が置かれているところが「もくせいの杜二丁目」、「もくせいの杜三丁目」は国営昭和記念公園の敷地内だ。
その「もくせいの杜二丁目」の北端部に昭島市立むさし野公園が設けられている。公園は国営公園西線の道路を挟んで東西の二地区に分かれて設置され、東地区の一角には立川陸軍飛行場時代に設けられた引込線の遺構も残されている。開放感のある広場に木々を植栽して緑濃い表情を与え、市街地の一角にありながらのんびりとした空気感の漂う公園だ。
むさし野公園の西側地区は富士見通りと国営公園西線の道路に囲まれる形で横たわっている。長方形の敷地を「あきしま相互病院」と昭島市北部配水場とで分け合う形になっているために、公園の敷地は少しばかり複雑な形状をしている。
園内は基本的に平坦だ。そこに広場を設けて植栽を施し、緑豊かな潤いのある景観が造られている。広場は植栽や園路によっていくつかに区切られ、それぞれ「子どもの遊び場」、「集いの広場」、「季節の花広場」、「芝生広場」、「ランドマーク広場」、「明るい林間広場」といった名称が与えられている。
最も広いのは「芝生広場」で、この辺りが公園の中心部分だと言っていい。北側を通る道路は交通量が少なくないが、園内は比較的穏やかな空気感で、開放感もある。「芝生広場」の南側の「ランドマーク広場」にはエノキやコナラが印象的に植えられ、いわゆるシンボルツリーとして景観のアクセントになっている。なかなか素敵な風景である。
公園西側地区の北東側の隅、交差点の角に面した部分に「柴崎分水」が開渠になっているところがある。柴崎分水は玉川上水から分水した疎水で、この付近では暗渠になっているのだが、公園の整備に伴ってこの部分だけ開渠としたものなのだろう。東へ国営公園西線の道路を渡ると公園の東側地区だが、その北端部分、残堀川の河岸に「残堀川のはなし」として「柴崎分水と残堀川」と題した案内板がある。柴崎分水に興味を覚えた人は見てみるといい。
むさし野公園の西側地区からと国営公園西線の道路に隔てられて東側に公園の東側地区が設けられている。西側地区より面積は小さく、北東側を残堀川が斜めに流れているために三角形の敷地で設けられている。東側地区は広場の中央に小高い丘を設けた構成で、その丘の麓部分、東南側と西南側に廃線跡のモニュメントが設置されている。
「築山広場」と名付けられた丘はこんもりと可愛らしい印象だ。丘の頂上に向けて螺旋を描く園路や階段が上っている。頂上部分は展望台だ。それほどの高みではないが、周囲に視界が開けて爽快な眺めだ。周辺の主要なランドマークへの距離を記したパネルが埋め込まれている。富士山までは約70.0km、東京スカリツリーまでは約38.2kmだそうである。
「築山広場」の南東側と南西側には「廃線跡モニュメント」が設置されている。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)、青梅線中神駅から当時の立川陸軍飛行場施設内へ資材運搬専用線が敷設されたが、その跡が残存していたことが土地区画整理事業の際に確認され、その歴史を継承するために設けられたモニュメントである。
「廃線跡モニュメント」はあくまでモニュメントであり、廃線跡をそのまま保存展示しているものではない。それでも場所は当時の敷設位置、モニュメントには当時のレールやバラストなどが再利用されているという。東側のものはホームを模したコンクリート床の両脇にレールを配した休憩所として造られている。西側のものは地面にレール跡がいかにも遺構であるかのように設けられている。
昭島市立むさしの公園は近隣の人たちのための憩いの場としての役割を担う公園だと言っていい。行楽地的性格はまったく持っていないが、かつての立川陸軍飛行場、米軍立川基地の跡地に造られているという立地は、そうしたことに興味のある人には魅力的なものだろう。園内に設けられた「廃線跡モニュメント」もぜひ見ておきたい。公園の南西側、昭島市中神町には往時の廃線跡を転用した道路が通っており、途中にはそれを示すモニュメントも設置されている。廃線跡に興味のある人は併せて訪ねてみるのがお勧めだ。