福島県会津若松市の若松城、当地では鶴ヶ城と呼ばれるこの城は、会津の象徴と言っていい。戊辰戦争の戦禍を被ったものの、後に美しい天守が復元されて今は会津の観光名所だ。残暑の九月、鶴ヶ城を訪ねた。
鶴ヶ城
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古い時代、東北地方は中央政権の支配の及ばない地域で、11世紀から12世紀にかけては平泉の藤原氏が権勢を誇っていた。12世紀の終わり頃、源頼朝が藤原氏を討ち、東北も鎌倉幕府の支配下となる。頼朝の御家人たちがそれぞれに東北を領有することになるわけだが、会津の地を与えられたのは佐原義連だった。佐原義連は平家追討や奥州藤原攻めの際にも頼朝を助け、軍功を挙げた武将である。

佐原氏は相模国の豪族三浦氏の一族で、佐原郷(現在の横須賀市)を領していたことから佐原氏を名乗るようになった。三浦氏は北条氏や和田氏と共に鎌倉幕府を支えた有力御家人だったが、1199年(建久10年)に頼朝が死去した後、1200年代になって政権内の覇権争いが表面化、争乱へと発展する。1213年(建暦3年)には「和田合戦」によって和田一族が滅亡した。1247年(宝治元年)には執権北条氏と三浦氏との対立から「宝治合戦」が起こる。この争乱によって三浦氏宗家が滅亡するが、三浦義連の孫、盛時らは母方の繋がりから北条氏に味方し、滅亡を免れ、後に三浦氏を再興することになる。

三浦盛時の父である盛連には、盛時を含めて六人の子がいた。この六人が領地を分割して与えられ、会津を領有することになる。長男である経連は猪苗代を与えられて猪苗代氏の祖となり、次男広盛は北田、三男盛義は藤倉、六男時連は新宮をそれぞれ与えられ、北田氏、藤倉氏、新宮市の祖となる。五男盛時は三浦宗家を継ぎ三浦氏を再興する。そして佐原氏の総領となったのが四男の光盛で、黒川(現在の会津若松市中心部)を与えられ、相模の葦名郷を領有していたことから葦名氏を名乗るようになる(葦名氏を名乗るようになったのは光盛からとされているが、義連を初代とするのが一般的である)。以後、会津に於ける葦名氏の勢力は次第に拡大し、支配体制が確立されてゆく。
鶴ヶ城
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やがて1333年(元弘3年/正慶2年)、上野国で挙兵した新田義貞の軍勢によって鎌倉幕府が滅ぼされる。幕府内でも重要な地位を占めていた葦名氏だったが、1335年(建武2年)に起きた「中先代の乱」で盛員と、その長男の高盛が討死、鎌倉に於ける権力を完全に失ってしまう。高盛の子直盛は葦名氏の家督を継ぎ、14世紀後半、会津へ下向する(直盛の会津下向については不明な点も少なくないという)。葦名氏が領有地である会津に定住し、その地を治めるようになるのは直盛からである。

1384年(至徳元年)、直盛は小田木の地(現在の会津若松市小田垣、すなわち現在の鶴ヶ城が建っている地)に館を構える。これが鶴ヶ城の始まりである。

葦名氏の勢力が頂点に達するのは16世紀後半、葦名盛氏の時代のことだ。周辺の豪族を従え、葦名盛氏は会津一円を支配した。しかし、それも長くは続かなかった。盛氏から家督を継いだ盛興には嫡子がおらず、二階堂盛義の子盛隆を養子に迎えることになるが、これが内紛へと発展、その機に乗じた伊達政宗によって攻められることになる。結果、葦名氏は伊達政宗に滅ぼされるが、伊達の会津支配もわずか一年ほどだった。全国支配を確実なものにした豊臣秀吉に従う形で、伊達は会津を手放すことになる。
鶴ヶ城
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伊達政宗が去った会津の地を与えられたのは蒲生氏郷である。蒲生氏郷は文武に秀でた武将で、織田信長に寵愛され、信長の娘冬姫と結婚したことでも知られる。この蒲生氏郷こそ、現在へと繋がる会津若松の地の基礎を築いた武将だ。36歳で会津の領主となった蒲生氏郷は鶴ヶ城を整備、七層の天守を築いた。それまでの「黒川」を「若松」と改め、城下の町割も一新、会津若松の町の基本的な配置が定められたのもこの時である。産業の振興にも注力し、まさに名君として語り継がれる氏郷だが、残念ながら40歳の若さで世を去っている。

氏郷の子である秀行が跡を継いだが、ほどなく秀行は宇都宮へ転封、その後には上杉景勝が会津に入封する。1598年(慶長3年)、秀吉が亡くなり、1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が起こる。ついに世は徳川の支配を迎える。上杉景勝は米沢に転封、その後に会津に入ったのは家康の娘振姫を妻として関ヶ原では東軍についた蒲生秀行である。

蒲生秀行は城や城下の整備に尽力したが、1611年(慶長16年)に会津を大地震が襲う。その心労からか、秀行は病に倒れ、30歳で亡くなる。その時、秀行の嫡子亀千代(のちの忠郷)はまだ幼く、そのことが家中の紛争を招く。やがて家督を継いだ忠郷も25歳で亡くなっている。悲運の一族と言っていいかもしれない。
鶴ヶ城
鶴ヶ城
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蒲生氏は松山へ転封、その後に会津に入ったのが加藤嘉明だ。加藤嘉明は若い頃には秀吉に仕えていたが、関ヶ原では東軍につき、伊予松山を治めていた。嘉明から家督を継いだ嗣子明成は鶴ヶ城を改修、地震で傾いていた天守の改築も行っている。現在まで残る鶴ヶ城の形が出来上がったのがこの時だ。しかし、城の大改修を幕府は快く思わなかった。1643年(寛永20年)、明成と家臣である堀主水との諍い、世に言う「会津騒動」を理由に会津領は幕府に召し上げられてしまう。

加藤氏が去った会津に入封したのが保科正之、すなわち後の会津松平家初代当主である。保科正之は徳川秀忠の子として生まれているが、秀忠が実子と認めず、幼少期は信濃高遠藩の保科正光の子として育てられていた。秀忠の死後、異母弟の存在を知った三代将軍家光は、正之に出羽20万石を与え、さらに会津23万石を与えている。1696年(元禄9年)、正之の後を継いだ正容は幕府から葵の紋と松平性を許され、ついに会津は徳川親藩となって幕末まで九代続くのである。

保科正之は比類無き名君として知られるが、家光は臨終に際して「宗家を頼む」と正之に言い残し、まだ幼かった家綱の後見を正之に任せている。それに感銘を受けた正之は「家訓十五箇条」を定め、その第一に将軍家への絶対的な忠誠を記し、それが幕末の松平容保に至るまで忠実に守られることになる。
鶴ヶ城
鶴ヶ城
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そして幕末、動乱の時代を迎える。実子のなかった容敬の養子となった容保が第九代会津藩主となって10年が経った1862年(文久2年)、容保は京都守護職を命じられる。尊王攘夷派の志士たちによって悪化した京都の治安を維持する役割を担うものだった。京都守護職を受けることに反対する家臣もいたが、受け入れざるを得なかった。1866年(元治元年)には「蛤御門の変」が起こり、1868年(慶応4年/明治元年)1月にはいよいよ「鳥羽・伏見の戦い」が起こって戊辰戦争が始まるのである。

戦闘は薩長率いる新政府軍の攻勢で進む。3月には江戸城の無血開城が果たされる。東北へも旧幕府軍の追討を続ける新政府軍に対して、容保は徹底抗戦を決める。8月、新政府軍はついて会津盆地に侵攻し、会津の地が戦場となる。いわゆる「会津戦争」である。白虎隊の悲劇などで知られる会津戦争は、一ヶ月に及ぶ籠城戦を経て、9月、容保が降伏を決意して終結を見る。戊辰戦争そのものも、翌年、蝦夷地(北海道)に逃れていた榎本武揚や土方歳三らの勢力が新政府軍に敗北、ついに終結へ至るのである。

鶴ヶ城は難攻不落の名城だった。会津戦争の際にも落城することはなかった。その鶴ヶ城も1874年(明治7年)、石垣だけを残して取り壊される。跡地には明治の一時期に陸軍の施設が置かれるなどしたが、大正になって公園とする方針が計画され、整備が進められることになった。1934年(昭和9年)には国の史跡に指定されている。現在の天守が復元されたのは1965年(昭和40年)のことで、鉄筋コンクリート造の天守の内部は博物館になっている。2011年(平成23年)には、それまでの黒瓦葺から明治初期に解体される以前の赤瓦葺に復元、現在の姿となった。
鶴ヶ城
鶴ヶ城
鶴ヶ城
鶴ヶ城
鶴ヶ城
現在、鶴ヶ城の城址は城址公園として整備されている。堀に囲まれた本丸後には復元された天守閣が建ち、北には北出丸が椿坂で繋がり、西には梅坂が西出丸を結ぶ。東は廊下橋が堀を跨いで二の丸跡だ。二の丸跡には今はテニスコートが設けられている。観光に訪れた際には、北口から園内に入り、堀を回って北出丸を抜け、椿坂から本丸跡へ進むのがお勧めだろう。復元天守内部の博物館を見学した後は、本丸跡の園内を散策、点在するさまざまな史跡を見学し、美しい天守の姿を堪能したい。

白壁に赤瓦が映えて、澄んだ青空を背景にした天守の姿はたいへんに美しい。見る場所によってもそれぞれに美しく、朝には朝の光を浴び、夕には夕日を受けて輝く。もちろん季節によっても表情は違い、夏の日差しの中に建つ姿や、雪景色となった冬の景観も見事なものだろう。近代になって鉄筋コンクリートで外観を復元した天守ではあるが、その姿は往時の様子を想像するには充分なものだ。博物館に展示されたさまざまな資料もたいへんに興味深い。
追記 鶴ヶ城内部の展示室は2015年(平成27年)、天守閣再建50周年を記念して全面リニューアルがなされている。本頁の掲載の写真はリニューアル前のものである。

南北朝時代の1384年(至徳元年)に葦名氏がこの地に館を築いてから600年余、経てきた歴史の記憶を土地に刻み、今は静かな公園となって人々を迎えている。復元された天守の美しい姿を見ながら、会津の地が辿ってきた歴史に思いを馳せたい。
鶴ヶ城北側の街並み
鶴ヶ城北側の街並み
鶴ヶ城を訪れた際には、城址公園の北側の街並みも歩いてみたい。城址公園北入口の「北出丸」交差点周辺、特に交差点の東側にはさまざまな土産物店や飲食店が建っている。古そうな外観のお店もあって見て回るだけでも楽しい。交差点から200mほど東に行ったところの鶴ヶ城会館は規模の大きな店舗で、会津土産などを購入するのに便利だ。
鶴ヶ城北側の街並み
交差点から北へ辿れば、会津藩家老を務めた西郷家や内藤家、一ノ瀬家などの居宅跡が点在する。西郷家は会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老を務めた。幕末の当主、西郷頼母(たのも)は京都守護職に反対、戊辰戦争での徹底抗戦にも反対したが、受け入れられず城を出て、榎本武揚に合流し、函館で終戦を迎えている。西郷頼母邸は会津若松市東山町に「会津武家屋敷」として保存公開されている。
鶴ヶ城北側の街並み
「北出丸」交差点から300mほど北、東側の街区には鶴城(かくじょう)小学校がある。鶴城小学校は1873年(明治6年)創立という歴史を誇る。その道路沿いに残された古い煉瓦塀は大正時代に造られたものという。今回訪れたとき(2014年9月)、鶴城小学校は全面改築事業よって取り壊され、更地となっていた。
鶴ヶ城北側の街並み
鶴城小学校から北西側へと辿れば会津若松市役所も近い。1937年(昭和12年)に建てられたという本庁舎の建物が堂々とした姿を見せる。さらに北東側へと歩を進めれば会津若松市街の中心部だ。「野口英世青春通り」や「七日町通り」へと散策の足を延ばすのも楽しい。
参考情報
鶴ヶ城は、城址公園には無料で入園できるが、天守閣への入館には入館料が必要だ。開館時間や入館料など、詳細は会津若松観光ビューローのサイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通
鶴ヶ城はJR会津若松駅から2.5kmほど離れている。JR只見線の七日町駅や西若松駅からは2km前後だが、やはり徒歩では少し距離がある。会津若松駅前から会津バスのまちなか周遊バス「ハイカラさん」や「あかべぇ」を利用するのが便利だ。「ハイカラさん」なら会津若松駅前から20分ほど、逆回りの「あかべぇ」なら30分ほどで鶴ヶ城入口に着く。

鶴ヶ城には来訪者用に有料の駐車場が用意されており、車での来訪も可能だ。西出丸駐車場、三の丸駐車場、南口駐車場の三ヶ所が用意されており、合計で250台分を超える駐車スペースがある。駐車場の位置など、詳細は会津若松観光ビューローのサイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

また「北出丸」交差点のやや東側に位置する「まちの駅 鶴ヶ城(鶴ヶ城会館)」の駐車場を利用するのも一案だ。鶴ヶ城会館での食事や買い物で駐車料金が無料になる。

遠方から車で訪れる場合は磐越自動車道会津若松ICを利用するのが近い。会津若松市街に入って国道118号を南下してゆけば鶴ヶ城を指し示す案内標識が設けられている。

飲食
城址公園内には食事の可能なレストランなどはない。「北出丸」交差点付近に飲食店がいくつか建っている。鶴ヶ城会館でも食事が可能だ。

鶴ヶ城から1kmほど北へ辿れば会津若松市街中心部、さまざまな飲食店がある。足を延ばして食事を楽しむのもいい。

周辺
鶴ヶ城から北へ1kmほど辿れば会津若松市街中心部、古い建物の並ぶ七日町通りへも足を延ばしたい。鶴ヶ城から東へ1.5kmほどで御薬園、御薬園からさらに東へ1kmほどで会津武家屋敷だ。飯盛山へは北東の方角へ、3kmほどだ。七日町通りや御薬園へは徒歩でも遠くないが、周遊バスを使うのも便利だ。

会津若松市街の観光地巡りには会津バスのまちなか周遊バスを利用するのが便利だ。フリー乗車券を購入すれば当日は何度でも乗れる。車で会津若松市に訪れた場合も駅近くの駐車場に車を置き、まちなか周遊バスを使って市内を巡るのが気軽でお勧めだ。フリー乗車券は「会津バス駅前観光案内所」などで購入できる。詳細は会津バスのサイトを参照されたい。

車で訪れたなら、猪苗代湖畔へ足を延ばすのもいい。国道49号を東へ辿って、会津若松市街から30分ほどで湖畔に着く。
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