佳景探訪
「東の小京都」足利
栃木県足利市は日本最古の学校として知られる足利学校のあった町だ。市内には足利氏の氏寺である鑁阿寺をはじめとして数多くの寺社が点在し、古い建物も残る町並みには良い風情がある。新緑も眩しい四月の末、「東の小京都」とも称される足利の町を訪ねた。



足利学校−学校門

足利学校−方丈

足利学校−方丈前庭

足利学校−方丈内部

足利学校−方丈裏

足利学校
「足利学校」は日本最古の学校として知られる。天文年間(1532〜1555年、戦国時代)の頃には「学徒三千」と言われるほどになり、あのフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」として世界に紹介している。

足利学校は、しかしその創建についてははっきりしないようだ。平安時代に小野篁が創建したという説や、鎌倉時代に足利義兼が創建した説など諸説あって度々論争の的となってきた。史実として明らかになるのは上杉憲実によって学校が再興された頃からだ。室町時代のことで、上杉憲実は蔵書を寄進し、庠主(「しょうしゅ」と読む、今で言う「学長」のこと)を招いて学校制度を整え、多くの学徒を受け入れた。北は奥羽、南は琉球に至るまで、各地から学徒が集まったという。この上杉憲実を足利学校の創設者とする説もあるようだ。

足利学校の学徒はほとんどが僧侶だったが、一般の者も僧籍を得て学ぶことができた。学費は必要なかった。寮のようなものはなく、学徒は近隣の民家に寄宿していたという。教育内容は儒教が中心だったが、易学も重視され(鎌倉円覚寺から招かれた初代庠主の快元は易学の権威だったという)、他にも兵学や医学などが学ばれていた。現在の学校のような「時間割」は無く、基本的に自学自習、学徒は中国の古書などを書き写して学んだ。就学終了までの年数も定められておらず、短い者は一日、長い者は十年以上とさまざまだったらしい。上杉憲実によって定められた「学規三条」により、就学に熱心でない学徒は在学を許されなかったという。

1500年代末期、豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が滅んだ際には足利学校も一時危機に瀕したが、徳川家康の庇護の元で復興、江戸時代前期から中期にかけて再び繁栄の時代を迎える。しかし時代が下るに連れて徐々に衰退、やがて1872年(明治5年)、足利学校はついに廃校となり、ほとんどの建物は失われてしまったという。

足利学校跡は1921年(大正10年)、当時残っていた孔子廟などを含めて国の史跡に指定されている。その足利学校跡を史跡としてさらに整備保存しようという「史跡足利学校跡保存整備事業」が始まったのは1982年(昭和57年)のことだ。試掘調査の後、1988年(昭和63年)から方丈や庫裡といった建物や庭園の復元工事が行われ、1990年(平成2年)に完了、一般公開が開始されている。江戸時代中期の最も栄えた時代の様子を再現したものであるという。
南側に位置する入徳門をくぐって中に入ると右手に受付がある。所定の参観料を支払って入場するわけだが、この時に受け取るチケットには「足利学校入学証」と書かれている。なかなか洒落ている。

入徳門から孔子像を左に見ながら歩いてゆくと学校門だ。この学校門は1668年(寛文8年)に創建されたもので、当時のものがそのまま残り、足利学校の象徴的存在であるという。学校門をくぐるといよいよ足利学校の構内だ。

学校門の正面には杏壇門と、その向こうに孔子廟が建っている。杏壇門も1668年(寛文8年)の創建だが1892年(明治25年)の火災で類焼、明治30年代に再建されたものという。孔子廟も1668年(寛文8年)に造営されたもので、日本で最古の孔子廟という。もちろん孔子を祀って孔子像が納められているわけだが、足利学校が小野篁によって創設されたという言い伝えがあるからか、小野篁の像も納められているという。

学校門を入って左手には遺蹟図書館が建っている。足利学校の蔵書の散逸を防ぐためもあり、1903年(明治36年)に開設されて書物の継承が図られているものという。建物は1915年(大正4年)に建てられたもので、足利市の重要文化財に指定されている。

孔子廟の右手、東側には方丈や庫裡、書院、衆寮といった建物が並び、方丈の南側と北側にそれぞれ庭園が設けられている。これらはすべて「史跡足利学校跡保存整備事業」によって1990年(平成2年)に復元されたものだ。ひときわ大きな方丈は講義や学校行事に使われた建物だという。隣接して庫裡と書院が建っている。庫裡は台所と食堂で、書院は庠主の書斎だったところだ。方丈と庫裡、書院は中に入って見学することができる。南東の角に建つ細長い建物は衆寮(しゅりょう)は学徒の生活の場で、書物を書き写すのもここで行ったらしい。その他にも木小屋や土蔵、裏門などが復元され、往時の面影を今に伝えている。

足利学校史跡はそれほど広大な敷地ではない。その中に建つ建物も古い時代から残るものと復元されたものとが混在しているが、それでも充分に見応えのあるものだ。受付で貰ったリーフレットの解説を片手にゆっくりと見学してまわるといい。あるいは方丈の南側の縁側に腰を下ろし、ひとときのんびりと庭園を眺めて過ごすのもいい。かつてこの場所に多くの学徒を集めて賑わった「足利学校」があったのだと、遠い歴史の彼方へと心を遊ばせるのが楽しい。
足利学校−学校門

足利学校−杏壇門

足利学校−遺蹟図書館

足利学校−孔子廟

足利学校−方丈

足利学校−蔵




鑁阿寺

鑁阿寺

鑁阿寺
足利学校史跡の西側を南北に延びる通りは「大門いしだたみ通り」と名付けられているようだ。この通りを北へ少し進めば鑁阿寺だ。鑁阿寺は「ばんなじ」と読む。

鑁阿寺の建つ場所は、そもそもは足利氏の祖である源義康が居館を構えたところだ。足利氏ニ代目義兼が1196年(建久7年)に邸内に持仏堂を建てて大日如来を祀ったのが寺の始まりで、三代目義氏が伽藍を建立、足利一門の氏寺としたものという。ほぼ正方形の寺域は4ヘクタールほどの面積で、周囲には土塁と掘りを巡らし、四方に門が設けられている。そうした構造は鎌倉時代の武家屋敷、すなわち平城としての「館」の形を成すもので、寺の生い立ちを物語っている。

鑁阿寺は1922年(大正11年)に「足利氏宅跡」として国の史跡に指定されており、境内の建物もほとんどが国や県の文化財に指定されている。1299年(正安元年)に建立されたという本堂をはじめ、鐘楼や経堂、さらに香炉や花瓶などが国の重要文化財の指定を受け、太鼓橋や多宝塔、楼門、東門、西門、御霊屋、木造大日如来像、木造不動明王坐像などが栃木県の有形文化財の指定を受けている。きちんと参拝を済ませてから、そうした貴重な建物をゆっくりと見学してゆこう。

境内に聳えるイチョウの巨木もひときわ目を引く。このイチョウは「鑁阿寺のイチョウ」として1998年(平成10年)に栃木県の天然記念物に指定されているものだ。樹高は30メートル超、目通り周囲は8メートル超、樹齢は550年ほどだと、傍らに設置された解説板に記されている。鑁阿寺に訪れたときにはぜひとも見ておきたい、見事なイチョウだ。




足利織姫神社

足利織姫神社

足利織姫神社
足利学校史跡や鑁阿寺などの建つ一角から西へ数百メートル進むと、丘の上に足利織姫神社が建っている。古くから織物の町として栄えた足利の守護として天八千々姫命(アメノヤチチヒメノミコト)と天御鉾命(アメノミホコノミコト)の二柱の神を祀っている。国の登録有形文化財にも指定されている神社だが、歴史は意外に浅く、1934年(昭和9)に織姫神社奉賛会が組織されて社殿建立に着手、1937年(昭和12年)に現在の社殿が完成したものらしい。産業振興や縁結びの御利益で人々の信仰を集め、初詣の時期や例大祭の際には大いに賑わうという。

社殿は丘の上に建っており、麓の正面大鳥居をくぐって229段の石段を登らなくてはならない。社殿は壮麗なもので、朱塗りの拝殿が緑の木々を背負って建つ景観には絢爛で荘厳な美しさがある。社殿前の境内の隅には藤棚が設けられ、訪れた四月の下旬、美しい花を咲かせていた。ふりかえれば丘の上からの素晴らしい眺望が広がっている。眼下に足利の町と渡良瀬川を見下ろし、対岸にはこんもりと浅間山が横たわっている。参拝を済ませた後はひとときこの眺望を楽しみながら一休みしよう。




足利の町

足利の町

足利の町
歴史の古い町らしく、足利の町は町並みそのものも古い建物などが残って風情ある佇まいを見せる。鑁阿寺の門前に南北に延びる「大門いしだたみ通り」は足利学校史跡と鑁阿寺に近い通りとあって観光地的雰囲気が濃く、土産物点や飲食店なども建ち並んでいるが、そうした観光地的な賑わいもまた楽しい。鑁阿寺南西側から足利織姫神社下まで東西に延びる「北仲通り」にも郷愁を誘うような佇まいが残っている。「北仲通り」の南側を東西に延びる県道67号線(桐生岩舟線)は旧国道50号線だった主要道だが、この通り沿いにも風情ある建物が残っており、なかなか退屈しない。

土産物と言えば、足利の町を訪ねた際にはぜひとも買い求めたいと思っていたのが、香雲堂本店の「古印最中」だ。「古印」という名が意味するように足利学校や鑁阿寺などに伝わる古印を意匠にあしらった最中で、たっぷりと入った粒餡は程良い甘さでたいへんに美味しい。香雲堂本店は足利織姫神社に程近い県道67号線沿いに建っている。足利の町散策のついでに立ち寄ってみるといい。
足利の町足利の町足利の町




中橋

渡良瀬橋遠景
足利の町の南には渡良瀬川が流れている。渡良瀬川は利根川の支流のひとつで、栃木県日光市足尾町を源流域とし、栃木県と群馬県との境に沿うように流れ、やがて栃木県藤岡町で渡良瀬遊水池へ至り、茨城県と埼玉県の県境を成して南へ流れて利根川に注ぐ。足利市付近はその中流域と言っていい。平野部をゆったりと流れるその景観はなかなか雄大な印象があり、河岸をのんびりと散歩するのも楽しい。

足利市中心街と東武伊勢崎線足利市駅とを繋ぐ形で渡良瀬川に中橋という橋が架かっている。1936年(昭和11年)に開通したものという。鉄骨アーチが連なった構造は意匠的にも美しく、歴史の古い町に似合って良い風情を醸している。

中橋の上流側に架かるのは渡良瀬橋だ。こちらは1934年(昭和9年)に完成したもので、6連のワーレントラス構造がやはり美しい姿を見せる。この渡良瀬橋は1993年に森高千里が発表してヒット曲となった楽曲「渡良瀬橋」のモデルとなったことで一躍脚光を浴びた。「渡良瀬橋」は森高自身の作詞による楽曲(作曲は斎藤英夫)で、郷愁に満ちた美しい曲想を持ち、多くのシンガーにカヴァーされている。「名曲」と言っていい。森高千里はこの詞を書くに当たって実際に渡良瀬橋付近の町を散策してイメージを膨らませたといい、公衆電話や神社など、歌詞中には実在の風景が登場する。この楽曲が発表された後、森高千里のファンをはじめ、多くの人たちが渡良瀬橋を訪れるようになり、ちょっとした観光名所になった。森高千里は足利市から感謝状を贈られ、足利市の名誉市民となった。2007年(平成19年)には渡良瀬橋下流側の河岸に「渡良瀬橋」の歌碑が建てられている。
参考情報
足利学校は見学に料金が必要だ。足利学校の見学時間や休日については足利市公式サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

足利学校の東側に観光案内所と土産物店を兼ねた「太平記館」があり、足利市の見所を紹介した各種リーフレットが用意されている。まず「太平記館」に立ち寄り、観光ガイドのリーフレットを貰っておくと、観光の参考になるだろう。

交通

電車で来訪する場合はJR両毛線足利駅で下車、足利学校まで徒歩で十分ほどだ。東武伊勢崎線を利用するなら、足利市駅から渡良瀬川を北へ渡れば足利市街だ。足利学校まで十数分といったところだろうか。

車で来訪する場合は東北自動車道から岩舟JCTで北関東自動車道へ逸れ、足利ICで降りて国道293号線を南下、あるいは関越自動車道から高崎JCTで北関東自動車道へ逸れ、太田桐生ICで降りて国道50号線を東進、「南大町」交差点(立体交差)を北へ折れて北進するルートが分かり易いだろう。

「太平記館」の駐車場が観光客用の駐車場として利用できる。観光シーズンの休日には満車のことが多いのが難点かもしれない。2008年4月に訪れたときにも残念ながら満車で「太平記館」に停めることができず、周辺の市街地でコインパーキングを探したのだが、これも見つけることができなかった。けっきょく足利駅南西側の渡良瀬川河川敷に設けられた公園駐車場を利用した。この公園駐車場は通常は駐車料金が必要なようだが、ちょうど「足利まちなかウォーク」のイベント開催に伴って無料開放されており、無料で利用することができた。駐車台数にも余裕があった。足利学校へは少しばかり距離があるが、苦になる距離ではない。

飲食

鑁阿寺の門前に延びる「大門いしだたみ通り」を中心に、周辺に多くの飲食店が点在しているから、それらのお店のひとつを選んで食事を楽しむといい。「太平記館」に用意されている各種観光ガイドのリーフレットには飲食店の場所を記したものもあるから、予め貰っておくと参考になるだろう。

周辺

史跡足利学校や鑁阿寺、足利織姫神社の他にも足利の市街地には見所が少なくない。寺社も多く、それらを巡ってみるのも楽しいに違いない。足利織姫神社の建つ丘は織姫公園として整備されており、散策路が辿っているようだ。余裕があれば散策を楽しんでみたいところだ。

足利市街から東へ10kmほど行くと有名な「あしかがフラワーパーク」がある。樹齢140年を越えるという大藤を始め、四季折々にさまざまな花の楽しめる施設だ。少し距離があるがぜひ立ち寄ってみたい。

「太平記館」には周辺の見所を紹介したリーフレットが各種用意されている。ほとんどのものは地図も載せられているから参考にするといい。
足利

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