東京都江東区の西部、門前仲町駅周辺は、いわゆる「深川」として知られる地域の中心部だ。深川不動や富岡八幡宮が建ち、情緒溢れる街並みが広がる。新緑眩しい四月下旬、門前仲町界隈を訪ねた。
門前仲町界隈
門前仲町界隈
「深川」という地名は、例えば江戸時代を舞台にしたドラマや映画などによく登場する。現在の住居表示では「深川」は東京都江東区内の「深川一丁目」と「深川二丁目」に存在するだけだが、江戸時代の「深川」はもっと広い範囲を指している。その範囲は1878年(明治11年)から1947年(昭和22年)まで存在した「深川区」の区域とほぼ重なる。

その範囲がすなわち、門前仲町駅を中心とした辺りで、今でもその範囲を総称して「深川」と呼び慣わす場面は多く、門前仲町駅北側の深川不動堂や深川公園、少し離れるが清澄白河駅近くの「深川江戸資料館」といった名称や、“深川めし”や“深川丼”などに「深川」の名を見ることができる。門前仲町駅周辺、特に東側一帯には金融機関の「深川支店」も数多い。
門前仲町界隈
門前仲町界隈
門前仲町界隈
現在の江東区は、江戸時代初期以前は海に面した三角州の地形で、辛うじて現在の亀戸の辺りに人々が暮らしていた程度だったという。江戸時代初期の慶長年間(1596〜1615年)の頃、深川八郎右衛門が森下周辺を埋め立てて新田を開発、深川村を創立した。それが現在まで続く「深川」の地名の起こりである。1659年(万治2年)には砂村新左衛門一族が深川村の東を埋め立てて新田開発を行った。現在の南砂一丁目〜七丁目、東砂八丁目が「砂村新田」の跡だという。

その頃まで、隅田川以東のこの辺りは、そもそも“江戸”ではなかった。それまでの“江戸”は江戸城から隅田川以西にかけて広がっていたのだが、急激な人口増加によって手狭になってきていた。その江戸で、1657年(明暦3年)、世に言う“明暦の大火”(またの名を“振り袖火事”ともいう)が発生、江戸の町の大部分が焼失するのである。その復興に際し、増え続ける人口に対処するため、江戸の町は隅田川以東に広げられることになる。以後、この地域は江戸庶民の町として発展する。時代劇に登場する“本所”や“深川”は、こうして江戸の町となったのだ。
門前仲町界隈
門前仲町界隈
深川は、1945年(昭和20年)の東京大空襲、とりわけ3月10日のいわゆる“下町空襲”によってほぼ壊滅した。ごく一部に奇跡的に焼け残った地区もあったようだが、現在の墨田区南部から江東区にかけての地域は完全に焦土と化した。死者数は10万人以上にのぼるという。深川には、だから戦前の古い建物は残っていない。戦後に復興した深川には現代的で整然とした街並みが広がっている。それでもその町並みの印象に下町らしさを感じるのは、深川に住まう人たちの心意気のようなものが町の佇まいに現れているからだろうか。

ところどころに残る古い時代の記憶を辿りながら、深川の町を散策するのは楽しい。縦横に抜ける水路とそこに架かる橋の風情もいい。深川不動から富岡八幡宮へ、そして気の向くままに路地を抜けて水際の舗道へ、深川らしい興趣を感じながらの散策が楽しい。
深川不動堂
門前仲町の駅から1番出口を上がって地上に出ると、深川不動堂の参道入口だ。西側の角に建つのは有名な和菓子店「深川 伊勢屋」である。参道脇にはさまざまな店が並んで、門前町としての賑わいを見せている。

深川不動堂は千葉県成田市の成田山新勝寺の東京別院である。開創は1704年(元禄16年)、成田山新勝寺の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことが始まりという。以来、「深川のお不動様」として親しまれ、深川の人々の信仰を集めてきた。深川不動堂も1945年(昭和20年)の東京大空襲によってすべて焼失したが、御本尊(不動明王)だけは僧侶たちの尽力によって焼失を免れたという。深川不動堂が再建されたのは1950年(昭和25年)、2002年(平成14年)には内仏殿が落慶、2012年(平成24年)には新本堂が落慶し、現在に至っている。
深川不動堂
深川不動堂
正面に建つ旧本堂は千葉県印旛沼のほとりにあった龍腹寺の地蔵堂を1951年(昭和26年)に移築したものという。江東区内最古の木造建築とされ、区の指定登録文化財となっている。旧本堂に向かって左手に建つのが新本堂、「真言梵字壁」に包まれた四角い建物が印象的だ。

深川の町を訪れたら、深川不動堂への参拝は欠かせない。ぜひお参りしていこう。
深川不動堂
深川不動堂
富岡八幡宮
深川不動堂の門前から100mほど東へ辿れば富岡八幡宮だが、ここはいったん南へ辿って永大通りへと戻り、表参道から富岡八幡宮へと歩を進めたい。

鳥居をくぐって参道を辿ると、まず目に入るのが左手に建つ伊能忠敬像だ。伊能忠敬は足かけ17年の歳月をかけて日本全国を踏破して測量を行い、「大日本沿海輿地全図」を完成させた人物だ。「大日本沿海輿地全図」には極めて正確に日本の地形が記されており、伊能忠敬は日本近代地図の始祖とも言われる。その功績は計り知れない。伊能忠敬は事業に成功した後、五十歳のときに江戸に出て、富岡八幡宮近くの黒江町(現在の門前仲町一丁目)に居を構えていた。伊能は測量の旅に出かける際、ほぼ必ず富岡八幡宮に参詣して無事を祈念したという。像は、まさに旅に出立するその姿を象ったものだ。像は2001年(平成13年)に建立されたものだそうだ。
富岡八幡宮
富岡八幡宮
伊能像を過ぎると、左手に宮神輿の保管庫がある。保管庫は前面がガラス張りで、中の神輿をガラス越しに見学することができる。富岡八幡宮には、かつて紀伊国屋文左衛門が奉納した三基の神輿があったそうだが、残念ながら関東大震災ですべて焼失、現在のものは以後に再建されたものという。再建された神輿とは言え、その姿は絢爛で見事なものだ。ぜひ見学しておこう。
富岡八幡宮
永大通りからおよそ100m、手水舎を過ぎて石段を登ると、富岡八幡宮の社殿が目の前だ。富岡八幡宮は1627年(寛永4年)、長盛法印によってこの地に創建されたものという。長盛法印は菅原道真の末裔とも伝えられ、夢のお告げよって御神像を携えて関東に下り、この地に御神像を祀ったのが始まりと伝えられている。当時、この地は永代島と呼ばれる小島で、周囲を埋め立てて六万坪余りの社地を開いたのだという。源氏の氏神である八幡大神を崇拝する徳川将軍家は殊の外この富岡八幡宮を庇護し、広大な庭園は庶民にも人気で、「深川の八幡様」と呼ばれて親しまれたそうである。明治維新の後は准勅祭社の社格が与えられ、朝廷の崇敬を受け続けていたが、1923年(大正12年)の関東大震災で損壊、さらに1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲、いわゆる“下町空襲”で焼失、現在の富岡八幡宮は戦後に再建されたものである。社殿は1956年(昭和31年)に造営されたものという。

社殿は絢爛に過ぎず質素に過ぎず、緑の木々に包まれて「深川の八幡様」としての風格を漂わせている。主祭神は当然のことながら八幡大神、すなわち応神天皇である。境内地は特に広大というわけではないが、町中の神社としては充分に広く、境内に祀られる末社は17社を数える。末社のひとつである七渡神社は富岡八幡宮創建以前からこの地に祀られていた地主神で、七渡弁天として親しまれていたという。
富岡八幡宮
富岡八幡宮
富岡八幡宮
また富岡八幡宮は現在の大相撲へと繋がる江戸勧進相撲発祥の地としても知られる。1684年(貞享元年)、春と秋の2場所の勧進相撲が幕府より許されたのが富岡八幡宮境内だったという。境内には横綱力士碑と大関力士碑が建立されている。興味のある人は見学しておこう。
富岡八幡宮
富岡八幡宮
八幡橋と旧新田橋
富岡八幡宮の東側に、八幡堀遊歩道という遊歩道が南北に抜けている。かつては八幡堀という水路だったが、1974年(昭和49年)に埋め立てられて遊歩道となったものだ。その遊歩道を跨いで、古そうな人道橋が架かっている。八幡橋(旧弾正橋)である。
八幡堀遊歩道
設置されている案内パネルの解説によれば、八幡橋(旧弾正橋)はそもそもは1878年(明治11年)に東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作したもので、東京市で最初に架けられた鉄橋だったという。元々は京橋区(現在の中央区)の楓川に架けられていた。当初は弾正(だんじょう)橋という名だったが、1913年(大正2年)に新しい弾正橋が架けられ、こちらは元弾正橋と改称されたという。関東大震災後の復興計画の際、元弾正橋が廃されたため、東京市が1929年(昭和4年)に現在地に移して保存、富岡八幡宮の東隣であったことから八幡橋と改称されたものらしい。

八幡橋(旧弾正橋)は長さ15.2m、有効幅員2mの単径間アーチ形式、アーチは鋳鉄製で五本の直材を繋ぎ、その他の引張材は錬鉄製という鋳錬混合の鉄橋である。鋳鉄橋から錬鉄橋への過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであり、独特な構造手法が用いられている点でも価値が高いのだという。国指定重要文化財である。
八幡橋
八幡橋
八幡橋
八幡堀遊歩道にはもうひとつ古い橋が残されている。旧新田橋だ。こちらは堀を跨ぐ橋としてではなく、遊歩道脇に橋の遺構として保存展示されている。

旧新田橋はかつて大横川(旧大島川)に架けられ、江東区木場五丁目と六丁目を繋いでいた。解説に依れば、大正時代に木場五丁目に医院を開業していた新田清三郎氏が、1932年(昭和7年)、近所の人と協力して架けたものという。不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味も込められていた。架けられた当初は「新船橋」と名付けられたが、新田医師は町の人々からの人望も厚く、亡くなった後も町の人々から愛され、いつしか橋は「新田橋」と呼ばれるようになったという。新田橋は小さな人道橋だった。赤く塗られた姿から「赤い橋」と呼ばれていたという。その風情溢れる景観が魅力的で、映画やドラマなどにも登場した。

その新田橋も耐震護岸工事に伴って架け替えられることになり、2001年(平成13年)に撤去された。しかし、その保存を望む声も多く、区は八幡堀遊歩道へ移設して保存することを決定、2003年(平成15年)に移設が行われた。移設保存された旧新田橋は濃い茶系に塗られており、「赤い橋」の面影は無いが、これは1932年(昭和7年)の架橋当時の色を再現したものという。
旧新田橋
旧新田橋
八幡堀遊歩道は200mほどの長さだが、道脇には木々が植栽され、市街地の中にあって潤いのある空間を成している。門前仲町界隈の散策の際にはぜひとも訪ねてみたい遊歩道だと言っていい。そしてもちろん、橋というものに心惹かれる人なら絶対に訪ねておかなくてはならない場所である。
八幡堀遊歩道
東富橋と大横川
八幡堀遊歩道の南端から南へ100mと少しで永代通り、永代通りを東へ折れて百数十メートル進めば汐見橋が平久川を跨いでいる。そのすぐ下流側で大横川が交差する。汐見橋から見る、その風景は江東区を象徴するものかもしれない。
大横川
汐見橋から永代通りを西に少し戻り、十字路を南へ辿れば東富橋が大横川を跨いでいる。東富橋は橋長40.5m、幅員18.0mの単径間鋼製トラス橋だ。1930年(昭和5年)に架橋され、1982年(昭和57年)に改修が施されている。2004年(平成16年)には江東区の「都市景観重要建造物」に指定された名橋だ。

青緑がかったグレーの塗装は2009年(平成21年)に塗り直されたもので、高欄は「消炭色」、橋梁本体は「深川鼠(ふかがわねずみ)」と呼ばれる色だそうである。「深川鼠」は、いわゆる「浅葱色」の彩度をさらに抑えた色で、江戸時代後期、その名の通り特に深川で流行した色だという。華美を嫌い、渋みを好んだ江戸の粋人の色である。

東富橋の南側の袂は「松平定信 海荘(はまやしき)跡」に関する案内パネルが設置されている。現在の牡丹三丁目から古石場二丁目、三丁目にかけて、松平定信の屋敷があった。「深川海荘(ふかがわはまやしき)」である。松平定信は老中職を務め、「寛政の改革」を行った人物だが、隠居後の1816年(文化13年)、この地に抱屋敷を構えた。松平定信は造園家としても知られ、この屋敷にも庭園を築いたという。
東富橋
東富橋
東富橋
大横川の両岸は桜並木になっている。春の花期の景観は見事なものだという。大横川の南岸に沿って河岸の遊歩道が整備されている。桜の盛りの時期に、花見散歩を楽しむのがお勧めだろう。
大横川
大島川西支川と隅田川
門前仲町駅から永代通りを西へ約500m、福島橋が大島川西支川を跨いで永代通りを通している。福島橋の上から南を見れば、巨大な溝のような大島川西支川の景観と河岸に並ぶ建物が少しばかり雑然とした印象で、いかにも東京の下町的な風情を感じさせて興趣に富んでいる。物流会社の向こうには佃二丁目に林立する高層マンション群の上部で、その光景も現代の東京湾岸部を象徴するものかもしれない。福島橋の上から北を向けば、大島川西支川が延びる先に遠く東京スカイツリーの姿も見える。

福島橋から大島川西支川沿いを200mほど南に辿ると巽(たつみ)橋が大島川西支川を跨いでいる。大島川西支川には屋形船や小型の漁船などが繋がれている。その光景がなかなか良い風情だ。巽橋のすぐ先で、大島川西支川は大横川に合流している。大横川の対岸は越中島だ。越中島へは練兵衛橋という橋が繋いでいるが、練兵衛橋を渡った先は企業の敷地で、練兵衛橋もその企業の管理下にある。従って練兵衛橋は一般利用ができないが、そのすぐ横に越中島連絡橋という人道橋が架けられており、越中島連絡橋を渡れば越中島の外縁部を辿って越中島公園へと抜け出ることができる。
大島川西支川
大島川西支川
大島川西支川
越中島連絡橋から西を見れば、大島川水門の姿を間近に見ることができる。大島川水門は大横川と隅田川との合流点に設けられた防潮水門だ。高潮や津波などによって河川の水位が上昇したときに水門を閉鎖し、周辺の水害を防ぐのである。隅田川と荒川に挟まれた江東区、墨田区は、そのほとんどが満潮水位以下の標高で、さらに荒川に面した一部地域では干潮水位さえ下回るところがある。こうした防潮水門は防災のために重要なのだ。
大島川水門
大島川水門の横を通り抜けて越中島の西岸部に出れば、河岸に沿って越中島公園が設けられている。目の前は隅田川と豊洲運河の合流地点、そこから豊洲運河の岸に沿って越中島公園が南へ延びる。対岸部は佃島である。越中島公園の南端部で相生橋が越中島と佃島を繋いでいる。

越中島公園の北端部から北を見れば永代橋が美しいアーチを描き、西に見える斜張橋は都道463号を通して新川と佃を繋ぐ中央大橋だ。隅田川にはひっきりなしに大小の船が行き交う。その様子を見ているだけでも何故か飽きない。ベンチに腰を下ろし、行き交う船影を目で追いながらのんびりと過ごすのもいいものだ。
隅田川
隅田川
参考情報
交通
門前仲町へは東京メトロ東西線や都営地下鉄大江戸線を利用するのが便利だ。それぞれの「門前仲町駅」で降りればいい。

周辺には民間の時間貸駐車場も点在しているので車での来訪も可能だが、土地勘の無い人は予めよく調べておいた方がいい。

車で訪れる場合は首都高速9号深川線を利用すると近い。箱崎JCT方面(都心環状線方面)から来る場合は「木場」出入口で、辰巳JCT方面(湾岸線方面)から来る場合は「福住」出入口が利用できる。

飲食
門前仲町駅周辺は賑やかな繁華街だ。さまざまな飲食店が軒を並べている。気に入ったお店を見つけて食事を楽しもう。名物の深川丼などを味わうのがよいかもしれない。

周辺
門前仲町駅から北へ1kmと少し歩けば清澄庭園だ。周辺の町歩きも楽しい。

東へ向かえば木場公園がある。敷地内には東京都現代美術館も建っている。

江東区には縦横に川や水路がぬけており、数多くの橋が架かる。昭和初期に架けられた橋もある。江東区の「都市景観重要建造物」に指定された橋を巡ってみるのも楽しい。

南西へと向かって越中島から豊洲運河を渡れば佃、月島の町にも近い。隅田川の河岸へと散策の足を延ばしてみるのもお勧めだ。
社寺散歩
町散歩
東京23区散歩