横浜線沿線散歩街角散歩
横浜市神奈川区
神奈川宿歴史の道
(長延寺跡〜滝の川)
November 2001
神奈川宿歴史の道
横浜市神奈川区の東南部、東神奈川から神奈川本町、幸ヶ谷、青木町、台町にかけての一帯はかつて東海道の神奈川宿のあった場所として広く知られている。現在でもJR東海道線やJR京浜東北線、京浜急行線、さらに国道1号線、国道15号線などが東西を結び、交通の要衝としての役割を保っている。

震災や戦災、市街化などの歴史を経て、かつての神奈川宿の面影を伝えるものは現在はほとんど残っていないが、横浜開港期に外国の領事館として使用された寺など、さまざまな史跡が点在する。それらの神奈川宿の歴史を今に残す場所を繋いで「神奈川宿歴史の道」という散策コースが整備されている。その「神奈川宿歴史の道」を、東の起点である神奈川通東公園から、宿場の中心だったという滝の川のあたりまで歩いてみた。
京急の横を辿る
「神奈川宿歴史の道」の東の起点は京浜急行の神奈川新町駅の横にある神奈川通東公園だ。小さな公園だが、この場所は横濱開港時にオランダ領事館として使われた長延寺のあった場所だった。公園脇にはオランダ領事館跡を示す碑が建てられている。またこの辺りが神奈川宿の東の入口に当たるのだという。公園の横の道に「神奈川宿歴史の道」を示すレンガが西に続いている。西に向かうとすぐに京浜急行神奈川新町駅の入口、踏切のある交差点を過ぎてレンガ道は京急の線路沿いの道を辿っている。
笠のぎ稲荷神社
京浜急行線の神奈川新町駅と仲木戸駅の中間辺り、やや神奈川新町駅に近く、線路脇に鬱蒼とした木立に包まれて笠のぎ稲荷神社がある。歴史は古く、社伝によれば平安の天慶年間(938〜947年)の建立、京都の伏見稲荷の分霊を勧請したものという。もともとは現在の浦島丘の稲荷山中腹にあったらしいが、1689年(元禄2年)に山麓へ遷座、1869年(明治2年)には社地が鉄道施設用地となって現在地に移っている。社殿は関東大震災や横浜大空襲の際に失われ、現在のものは1979年(昭和54年)に再建されたものだ。

特徴的な名の神社だが、旅人が社の前を通りかかると不思議にかぶっていた笠が脱げ落ちるというので、「笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神」と呼ばれるようになったものを、後に別当能満寺の僧が「笠脱」から「笠のぎ」に改めたのだという。「笠のぎ」の「のぎ」は、本来は「禾(のぎへん)」に「皇」と書く。「かさのぎ」が「瘡(かさ)退き」に通じるからか、参拝すると瘡(できもの、はれもの)が直るという言い伝えもあるらしい。

笠のぎ稲荷神社 夫婦和合の大銀杏笠のぎ稲荷神社 子宝安産の大楠
この地に遷座してすでに百年余、境内は齢を重ねた樹木の枝に覆われている。社殿の前にはまるで二本の木が寄り添って一本になったかのようなイチョウがある。「夫婦和合の大銀杏」という御神木で、その有り様だけでも充分に「夫婦和合」の御神木らしいが、二本の幹の合わせ目の部分には「男女の象徴」を象った形状の部分があるという。見てみたのだが、なるほどそう言われればそう見えなくもない。大銀杏の横には「子宝安産の大楠」という御神木もあり、夫婦円満、子宝安産を何より良しとした人々の信仰の心を見る思いがする。

笠のぎ稲荷神社は横浜市指定有形文化財の「板碑」があることでも知られる。「板碑」は「碑」の文字の与える印象とは違って、仏の供養に用いる塔婆にあたるもので、この「板碑」にも「南無阿弥陀仏」を意味する梵字が刻まれている。「板碑」という呼び方は江戸中期頃からのものともいう。笠のぎ稲荷神社の「板碑」は鎌倉時代末期から南北朝時代初期の頃のもので、高さは170cm余り、幅40cm前後、刻まれている内容が珍しく、貴重なものなのだという。「板碑」は境内の片隅でひっそりと祠に守られている。
良泉寺
笠のぎ稲荷神社の正面からまっすぐに京浜急行の線路をくぐって国道15号まで出ると、その横には良泉寺の門がある。門の傍らに設置された案内板によれば、横浜開港期、外国の領事館に充てられることを快しとしなかった良泉寺の住職は屋根をはがし、修理中であるとの理由でこれを断ったのだという。

良泉寺の横から「神奈川宿歴史の道」を示すレンガに沿ってゆくと小さな公園がある。神奈川通公園という。木立に囲まれた広場ではゲートボールを楽しむ地元の人たちの姿がある。広場の横は遊具類が置かれてお母さんに連れられた小さな子どもたちが遊んでいる。

神明社
神奈川通公園の横をそのまま進むと能満寺と神明社が道を隔てて並ぶ。神明社はもともとは能満寺と同一境内地にあったものだが、明治の神仏分離令によって分離したものだ。門の傍らの解説板によれば、能満寺は1299年(正安元年)に内海新四郎光善という漁師が海中から拾い上げた霊像を供養するために建てたことが始まりだという伝説があるらしい。神明社は能満寺と同じ1299年(正安元年)の勧請とのことだが、草創についての詳細は不明であるという。今は町中なの一区画にひっそりと残る社だが、ひととき足を止めて伝承の世界に思いを巡らすのもいい。

東海道分間延絵図
能満寺と神明社の並ぶ道を進むと神奈川小学校の傍らへと出て、「神奈川宿歴史の道」は小学校の南側を回り込むように少し折れて辿る。小学校の角部分の壁面に「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべず)」を描いたタイルがはめ込まれている。絵図の詳細を丹念に見てみるのも面白い。

神奈川小学校前を過ぎ、タイルに沿って路地を折れて辿ると東光寺前に至る。東光寺の本尊はもともとは太田道灌の守護仏であったという。太田道灌の小机城攻めの後に平尾内膳がこの仏を賜ってこの寺を草創したのだと解説に記されている。

東光寺前を過ぎると大きな道路へと出る。JR東神奈川駅の南口と国道15号とを結ぶ道路だ。横断歩道へと回って道路を越えて、歴史の道を示すタイルを探す。タイルは国道15号と京急線の線路との中間あたりに延びる道の歩道に続いている。
熊野神社
横浜市神奈川区東神奈川一丁目の南西の端、ビルなどが建ち並ぶ街の一角に古い由緒の神社が建っている。紀伊の熊野権現を祀る熊野神社で、創建以来千年近くの歴史を持ち、「権現様」として親しまれ、神奈川郷の総鎮守としての信仰を集めてきた神社だ。国常立尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊を主祭神とし、天照大神、素戔嗚尊、大己貴命、少名彦名命などを合祀している。町中の立地とあって世俗を離れた静かさなどは乏しいが、明るく開放感のある境内は清々しい。ときおり通りすがりにお参りしてゆく地元の人の姿があったりする。

境内の案内板に記された御由緒によれば、神社は1087年(寛治元年)の創建という。醍醐寺三宝院の勝覚僧正が紀伊(和歌山県)の熊野権現の神霊を分祀し、神奈川権現山(現在の幸ヶ谷公園付近)に社祠を創立したものとある。その後、神社は1712年(正徳2年)に金蔵院の境内へ遷座し、さらに明治の神仏分離によって寺から分かれている。金蔵院は熊野神社の北西側に道路を隔てて隣接している。京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正によって創られたものだと解説にある。平安末期からの歴史を持つ古刹だ。1824年(文政7年)に煙管亭喜荘(きせるていきそう)によって刊行された神奈川宿周辺の地誌「金川砂子」には、江戸時代後期の神社の賑わいが描かれているという。

境内の「御由緒」にはこの神社の辿ったさまざまなエピソードが綴られている。後三年の役の帰途に源義家が立ち寄り、この地を「幸ヶ谷」と名付けたといった伝承や、権現山の社祠が山賊によって焼かれてしまったことなど、この神社の経てきた歴史を垣間見せて興味深い。1936年(昭和11年)には御鎮座八百五十年祭で大いに賑わったということだが、戦災で社殿は焼失、戦後は駐留軍に境内地を接収され、現在の社殿は接収解除後の1963年(昭和38年)の再建という。

熊野神社狛犬
境内正面の鳥居の両脇で宙を睨む狛犬も歴史が古い。嘉永年間というから1800年代中頃に造られたものだ。鶴見村の石工飯島吉六の作という。飯島吉六作の狛犬はこの熊野神社の他にも横浜市内から川崎、品川などにも見られる。「飯島吉六」の名は代々受け継がれているもののようだ。それほど狛犬に詳しい身でもないのだが、この熊野神社のものは全体の造作や表情などがとても素晴らしいものであるように思える。脇に立って見上げると生きているような躍動感と共に達観した静けさのようなものを感じる。

社殿向かって右手の奥には公孫樹(イチョウ)の御神木がある。樹齢四百年という古木で、1868年(慶応4年)の神奈川大火、1945年(昭和20年)の戦災で焼失しながらも再生したのだという。うろのある幹はさすがに「老木」という印象があるが、それでも秋にはギンナンが実ると傍らの解説板に書かれてあるから今も立派に生きているのだろう。
熊野神社から道路を挟んで西には東神奈川公園という小さな公園があり、ここからは神奈川本町になる。公園北側の道路の歩道に「神奈川宿歴史の道」を示すタイルが続いている。辿ってゆけばすぐに神奈川地区センターだ。神奈川地区センター前には復元された高札場がある。高札場は江戸期に幕府の法度などを庶民に周知徹底させるための施設で、もともとは滝の川の横にあったものであるらしい。

成仏寺
神奈川地区センターを過ぎてさらに進むと左手には滝の川公園という小さな公園があり、右手に成仏寺がある。成仏寺は永仁年間(1293〜1299年)からの歴史を持ち、かつては栄えた寺だったという。1630年(寛永7年)に三代将軍徳川家光の上洛の際、神奈川御殿造営のために現在地へ移されたものだ。境内は明るく開放的で、整然として美しい庭は昔からの佇まいを保っているものだという。

成仏寺は横浜開港期当初にはオランダ領事館が置かれ、領事館が長延寺に移ってからは、アメリカ人宣教師の宿舎として使われた。その中にはヘボン式ローマ字でその名を知られるヘボンもいた。医師でもあったヘボンは後に宗興寺に診療所を開設、日本近代医学の創始者としても知られる。またさらに塾を開くなどして日本での教育に尽力し、明治学院大学の創設者のひとりとしてもその名を広く知られている。
成仏寺前から緩やかな坂道を下ると少し広い道路に出る。車両の通行も少なくないこの道は滝の川の東岸に沿って、JR線と京急線とをくぐってJR東神奈川駅の北口方面と国道15号とを繋いでいる。この道の歩道にも「神奈川宿歴史の道」を示すタイルが設置されている。北に向かって辿ると、JR線と京急線の双方の線路に挟み込まれるような立地で慶運寺がある。

慶運寺
慶運寺の開山は室町時代、芝増上寺第三世定連社音誉聖観によるという。横浜開港当初はフランス領事館に充てられた。諸堂は戦災で焼失、現在の本堂は戦後に再建されたものという。門前には「神奈川宿歴史の道」の解説パネルが設置され、「フランス領事館跡」の碑などが建っている。

慶運寺は「浦島寺」とも呼ばれている。本来浦島伝説は浦島ヶ丘にあった観福寿寺の縁起書に由来するものだった。その観福寿寺は1868年(慶応4年)の大火によって焼失、さらに明治の廃仏毀釈によって廃寺となったが、1873年(明治6年)に慶運寺が観福寿寺を併合、本尊であった浦島観世音菩薩も慶運寺に移されたことで、慶運寺が浦島伝説を引き継ぎ、「浦島寺」と呼ばれるようになったものという。

神奈川の地に伝えられる浦島伝説によれば、浦島太郎の父である浦島太夫は相州(現在の神奈川県に相当)三浦の人であったという。公務のために丹後(現在の京都府北部あたり)に赴いていた時に子の太郎が生まれた。太郎が二十歳余りの頃のある日、浜で子どもたちにいじめられていた亀を助ける。そのお礼にと、亀は太郎を竜宮へ連れてゆく。竜宮で乙姫にもてなされて楽しい日々を過ごした太郎だが、三年の後に故郷へ戻る。この時、乙姫は太郎に土産として玉手箱と観世音菩薩像を渡したという。しかし久しぶりの故郷の風景は変わり果て、どこへ行っても見知らぬ人々が行き交うばかりだった。途方に暮れた太郎は相州に父母を訪ねるが、すでに三百年も前に亡くなっていることを知るのだった。

慶運寺に設置された「浦島伝説関係資料」解説板には、その事実に落胆した太郎は神奈川の浜から亀に乗って竜宮に戻り、再び帰ることはなかった、と記している。異説には太郎はこの地で亡くなったと伝えられ、太郎が結んだ庵が後の帰国山浦島院観福寿寺であるともいう。しかし大火による観福寿寺の焼失とともに縁起書も失われ、詳細はわからない。太郎が竜宮から持ち帰ったという観世音菩薩は慶運寺へ移され、他の遺物のいくつかは観福寿寺の跡地に移転してきた蓮法寺に残されている。

慶運寺手水鉢
慶運寺の門前には大きく「浦島寺」と書かれ、亀を象った手水鉢など、浦島伝説を今に引き継ぐ寺らしい佇まいを見せるが、すぐ南には京浜急行線の線路が通り、墓所の北側にはJR線の線路が走っていて街の喧噪の中に埋もれてしまった観もある。竜宮での日々を過ごすうちに三百年の時を超えてしまった浦島太郎、さらに時は過ぎて大きく様変わりした神奈川の地を、伝説の彼方からどんな思いで見ているのだろうか。

慶運寺から北へJR線の下をくぐると大きな交差点があり、東に歩けば10分足らずでJR東神奈川駅に着く。交差点斜向かいには反町公園があり、散策の際の一休みにもよいだろう。この交差点の傍らを、道路と線路をくぐって滝の川が流れている。滝の川は古くは「瀧乃川」と書き、旅人に悪戯する河童の話などが伝わっている。
神奈川宿の面影を辿る「神奈川宿歴史の道」を、東の起点から滝の川あたりまで歩いてみた。神奈川宿は滝の川を境に東を神奈川町、西を青木町と呼んだのだという。このルートはその神奈川町の部分に当たる。かつては海岸沿いののどかな風景の宿場町であったことだろう。滝の川を渡ってさらに西に続く歴史の道を辿ってみるのもいい。京急の神奈川新町あたりから国道15号を越えて海岸方面へと進むと、かつての子安浜の面影を残す風景に出会うこともできる。散策に訪れる際には予め下調べをしてコースを考えておくとよいだろう。
滝の川