長野県松本市の中心市街の東方に「あがたの森文化会館」という施設がある。旧松本高等学校校舎を保存し、市民の教育文化活動に活用している施設だ。夏の暑さの残る九月上旬、旧松本高等学校を訪ねた。
旧松本高等学校
長野県松本市中心市街の東方、松本駅から1.5kmほど離れたところに「あがたの森文化会館」という施設が設けられている。旧制松本高等学校の校舎を保存整備し、市民の教育文化活動に活用している施設で、「あがたの森公園」という公園内に設けられている。旧制松本高等学校校舎は基本的に「あがたの森文化会館」として使われているわけだが、一部は一般の見学も可能だ。旧制松本高等学校校舎は大正時代に建てられたもので、大正浪漫の風情を漂わせて見応え充分。松本観光の際にはぜひ見学しておきたいところだ。
旧松本高等学校
旧松本高等学校
現在の大学に相当する旧制高等学校は1894年(明治27年)の高等学校令によって誕生した。1886年(明治19年)の中学校令によって定められた高等中学校を高等学校に改組することが主な目的だったが、これによって第一高等中学校(東京)、第二高等中学校(仙台)、第三高等中学校(大阪、後に京都に移転)、第四高等中学校(金沢)、第五高等中学校(熊本)の五校が高等学校に改組され、その後、1900年(明治33年)から1908年(明治41年)にかけて第六高等学校(岡山)、第七高等学校造士館(鹿児島)、第八高等学校(名古屋)が設立されており、これらは「ナンバースクール」と呼ばれる。
旧松本高等学校
旧松本高等学校
旧松本高等学校
松本でも1899年(明治32年)から高等学校の誘致活動を行ってきた。松本に「ナンバースクール」の開校を、と望んだのである。しかし1899年(明治32年)の第七高等学校誘致の請願も、1910年(明治43年)の第九高等学校誘致の請願も実現しなかった。ようやく松本に高等学校が開校するのは1917年(大正6年)の請願によってである。

しかし「ナンバースクール」開校は実現しなかった。1918年(大正7年)の高等学校令以降、新たに開校した高等学校の名称には「ナンバー」ではなく地名が用いられたからである。そうして松本に開校した高等学校が松本高等学校である。それでも松本の人々の「九高」への思いは強かったようで、旧松本高等学校の校章には「焉vの文字の外側に放射状に9本の線があしらわれている。“名称は「松本高等学校」だが、実質「第九高等学校」である”という気概の表れだったのだろうか。

松本高等学校は1918年(大正7年)に設置が決定、翌年、松本城の二の丸にあった松本中学校東校舎を仮校舎として開校した。1920年(大正9年)には校舎が落成、1922年(大正11年)には講堂が完成して全校舎が落成した。
旧松本高等学校
旧松本高等学校
時代は移って昭和を迎え、太平洋戦争を経て、戦後の1949年(昭和24年)に国立学校設置法(2004年(平成16年)に廃止)によって国立新制大学が発足、それに伴って各地の旧制高等学校は国立大学へと移行する形で閉校した。旧制松本高等学校も1950年(昭和25年)3月、第29回生の卒業をもって閉校、31年間の歴史に幕を下ろした。その間の卒業生は約5000名を数えるという。その中には文芸評論家で哲学者の唐木順三や評論家の臼井吉見、「どくとるマンボウ」で知られる小説家でエッセイストの北杜夫などがいる。
旧松本高等学校
旧松本高等学校
1949年(昭和24年)に長野県下の高等学校と専門学校を統合して信州大学が設立されて以降、旧松本高等学校の校舎は信州大学文理学部の校舎として、1967年(昭和42年)の学部再編以降は人文学部校舎として使われていた。その信州大学人文学部が1973年(昭和48年)4月に旭町キャンパスに移転、旧松本高等学校校舎は閉鎖される。これを受ける形で地元で校舎の保存活動が起こり、1977年(昭和52年)に松本市が建物と敷地の一部を国から買い取り、文化財としての保存と活用を決定した。整備と補修を経て、「あがたの森文化会館」として開館したのは1979年(昭和54年)のことである。

以降、本館、講堂ともに幾度かの修復工事が施され、現在に至っている。大正時代の代表的木造洋風建築であり、学校建築史上貴重なものであるとして2007年(平成19年)には本館と講堂が国の重要文化材に指定されている。松本の誇る貴重な近代遺産、建築遺産である。
旧松本高等学校
旧松本高等学校
前述のように旧松本高等学校校舎は現在は「あがたの森文化会館」として活用され、市民の教育文化活動の場として用いられているが、復元された校長室や教室を見学することができる。

校長室は4間(約7.2m)×4間の広さで、威厳を感じさせる室内である。旧松本高等学校の初代校長を務めた茨城清次郎は2年6ヶ月の在任期間があったが、開校から校舎の完成まで1年余りかかったため、実際にこの校長室で執務に当たったのは1年2ヶ月だったという。

教室は広さ4間×5間(約9m)、現在の学校の教室より少し狭い。明治期以降の学校では成績順に座席が決められることが多かったそうだが、松本高等学校では氏名の五十音順で決められていたそうである。窓明かりの差す教室で、かつて若者たちが学んでいた光景を思い浮かべるのも楽しい。
旧松本高等学校
旧松本高等学校
内部を見学したら校舎の外観もぜひじっくりと見学しておきたい。建物は明治末期から大正前期にかけての代表的作例だそうで、西洋建築様式を簡略化して応用した洋風木造建築である。明治期に造られた「ナンバースクール」が左右対称形であったのに対して、松本高等学校校舎はコの字形の配置で、道路に面した隅に本館入口が設けられている。マンサード屋根を施した入口はいかにも大正浪漫風だが、威厳より親しみやすさを重んじたデザインだそうである。

校舎の外観は、そのデザインや色彩に清爽な印象があり、まさに学び舎の意匠に相応しい気がする。コの字形に配された校舎の中庭はすっきりと植え込みが整備され、そこから見る景観が実に素晴らしい。旧制高校の校舎がここまでしっかりと残っている例は全国でもなかなかないのだという。ゆっくりと時間をかけて見学しておきたい。
旧松本高等学校
旧松本高等学校
旧松本高等学校
前述したが「あがたの森文化会館」、すなわち旧松本高等学校校舎は「あがたの森公園」の中に建っている。校舎の東側、公園の中央部には池が置かれ、日本庭園風に整備されている。のんびりと散策を楽しむのもお勧めだ。池の西南側に回り込んだところには芝生広場が設けられている。広々とした開放感が魅力の広場だ。この広場から見える旧松本高等学校校舎の姿も美しい。広場と校舎との間には木立が並んでいるが、その間から見える校舎が興趣に富んでいる。遠景もよく、近景もいい。緑の木々と校舎の窓とが織り成す光景が何ともフォトジェニックである。

旧松本高等学校は校舎内の見学と併せて、外観を眺めながらの公園散策がお勧めだ。近代建築に興味のある人なら絶対に訪れるべきところだが、そうでなくても充分に楽しめる。松本観光の際にはぜひとも訪れておきたいところのひとつだと言っていい。
参考情報
あがたの森文化会館(旧松本高等学校)は入館料などは必要なく、無料で見学できる。ただし、基本的に市民の教育活動やレクリエーションなどに使用されている施設のため、見学できる部分は限られている。注意されたい。開館日や開館時間など、詳細は公式サイト(頁末「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通
あがたの森文化会館(旧松本高等学校)は松本駅(JR中央本線、アルピコ交通上高地線)の東、約1.5kmのところに位置している。「お城口(東口)」から東に延びる道路を真っ直ぐに辿ればいい。徒歩では30分近くかかるが、歩けない距離ではない。

松本市街地は周遊バス「タウンスニーカー」が巡っているので、これを使うと便利だ。「東コース」のタウンスニーカーを利用し、「旧松本高校」バス停で降りればいい。

あがたの森公園には公園利用者用の駐車場が設けられているが、観光で訪れる場合は公園駐車場の利用は遠慮しておきたい。駅周辺の駐車場に車を置き、タウンスニーカーを利用するのをお勧めする。

遠方から松本市を訪れる際は、長野自動車道松本ICから国道158号を西進すればいい。松本ICから松本市中心市街まで3km足らずだ。

飲食
あがたの森公園にも周辺にも飲食店はない。飲食店は駅周辺に戻って探そう。

予めサンドイッチやお弁当などを調達しておき、あがたの森公園の日本庭園でランチタイムを過ごすのもお勧めだ。

周辺
あがたの森文化会館(旧松本高等学校)から西に1.5kmほどで松本市の中心市街、中町通り縄手通り上土通りといった通りが風情ある佇まいを見せる。松本観光の際にはぜひ散策を楽しみたいところだ。周辺には松本市時計博物館松本市はかり資料館といったミュージアムもあり、これらにも立ち寄っておきたい。

松本市街中心部から北へ辿れば松本城や旧開智学校がある。これもぜひ訪ねておきたい。周辺の湧水を巡ってみるのも楽しい。

松本市中心部の観光名所を巡るなら周遊バス「タウンスニーカー」を利用するのと便利だ。観光で訪れた際には一日乗車券を購入しておけば、お得に回ることができる。車で松本を訪れたときも、車を駐車場に置き、「タウンスニーカー」と徒歩を組み合わせて巡るのがお勧めだ。
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