横浜線沿線散歩公園探訪
横浜市中区山手町
−山手イタリア山庭園−
外交官の家
May 2003
外交官の家
山手イタリア山庭園」の一角に「外交官の家」が建っている。この建物はもともとは1910年(明治43年)に渋谷の南平台に建てられ、内田定槌(さだつち)の私邸として使われていたものだ。内田定槌は明治から大正にかけての外交官で、そこから「外交官の家」の名がある。その旧内田邸を、内田定槌の孫にあたる宮入氏からの寄贈を受け、横浜市がここへ移築復元した。建物を残したいとの宮入氏の強い願いもあったらしく、移築に際して氏もご尽力されたのだという。移築復元の工事は1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけて行われ、完成と同時に国の重要文化財の指定を受けている。
内田定槌は現在の福岡県に生まれ、1889年(明治22年)に東京帝国大学を卒業、同年外務省に入省している。上海、ソウルの勤務を経て、1896年(明治29年)にニューヨークに着任、1902年(明治35年)からはニューヨーク総領事を務め、ポーツマス条約締結のために渡米した小村寿太郎全権大使の支援にあたったという。その後はブラジル、アルゼンチン、デンマークなどの公使を歴任、1920年(大正9年)から3年ほどはトルコに勤務し、トルコから帰国後の1924年(大正13年)に退官している。

内田定槌の依頼を受けて建物を設計したのはジェームズ・マクドナルド・ガーディナーだ。ガーディナーは1857年、アメリカ、セントルイスに生まれ、1880年(明治13年)にアメリカ聖公会から派遣されて来日している。ウィリアムズ主教が開校した立教学校の教師を務めながら学校の設備拡充にも尽力、ガーディナーはその校長にも就任している。後の立教大学である。

建築学の素養のあったガーディナーは1891年(明治24年)には校長職を離れ、建築家としての活動を開始、各地の教会をはじめとしてさまざまな建築を手がけている。しかしその多くは関東大震災などによって失われ、現存するものはわずかであるという。「外交官の家」は、日光市の日光真光教会や京都市の聖アグネス教会などとともに、ガーディナーの作品の貴重な遺産である。
洋風庭園から見る外交官の家
ガーディナーの設計による内田邸、すなわち現在の「外交官の家」は、木造二階建てで、その手法はアメリカン・ビクトリア様式と呼ばれるものだそうだ。ビクトリア様式は重厚な豪華さを旨としたバロック様式の流れを汲むものであるらしく、19世紀後半に英米で流行した建築様式だという。その中でも特にアメリカのものを「アメリカン・ビクトリア様式」と呼ぶのだろう。

確かに「外交官の家」の外観にはどこか堂々として華麗な印象がある。建物の隅の、尖塔を思わせる部分なども印象的で、その佇まいは「山手イタリア山庭園」によく似合っている。建物北側の西洋庭園部分から見る姿は特に美しく、庭園との組み合わせが良い風情を醸し出し、昔からこの場所にこのような姿で在ったのではないかと思わせるほどだ。
建物内部は無料で公開され、一階部分から二階部分まで自由に見学することができる。間取りや廊下、階段の様子など、歴史ある洋館の佇まいに興味は尽きない。館内にはガーディナーの建築や内田定槌に関する資料なども展示されており、それらをゆっくりと見てゆくのも楽しい。
外交官の家−館内外交官の家−館内

外交官の家−館内外交官の家−館内

室内には復元された家具類が設置され、往時の暮らしぶりを偲ばせる。北東の角のサンルームは広く取られた窓が開放的な印象で、ゆったりとした時間の中に身を置くことができる。「山手イタリア山庭園」内に建つということもあり、窓外の景色も美しい。特に北側の二階の窓からは庭園と横浜の街が一望でき、なかなか楽しめる。館内にはところどころにステンドグラスがあり、暗めの室内で外の陽光に輝く様子が美しいが、これも当時の建築様式の特徴であるらしい。
外交官の家−ステンドグラス外交官の家−ステンドグラス外交官の家−内田氏家紋

明治期にこうした洋館が日本人の個人宅として建てられたことには少々驚きも感じるが、内田定槌の外交官としての経歴、海外での暮らしの長さを物語るものだと言えるかもしれない。渋谷に建っていた頃には和館も併設されていたらしいが、移築復元に当たってはこの洋館部分のみが対象となった。
外交官の家−館内
併設されていた和館のあった場所には、今は入館口と喫茶室の建物が設けられている。洋館見学のために入館する際にはこちらのエントランスを利用し、洋館の本来の玄関は閉じられたままになっている。喫茶室からは広く取られた窓から北側の庭園部分が見え、散策の際の一休みに良いところだ。のんびりと洋館を見学した後は、喫茶室でお茶を飲みながら明治の外交官の暮らしに想いを馳せるのも良いかもしれない。
外交官の家から見る洋風庭園