|
|

|
横浜野毛の街から野毛坂を上り、横浜市立図書館の建つ角を左に折れると道の右手には木立に包まれた緑濃い一画がある。野毛山公園だ。
第二次大戦中はこの場所を陸軍が使用し、戦後は1947年(昭和22年)まで米軍に接収されていたが、接収解除後の1949年(昭和24年)に日本庭園だった部分に動物園が、さらに1951年(昭和26年)には洋式庭園だった部分に児童遊園が造られ、整備を加えられながら現在に至っている。 |
|
野毛坂を上って市立図書館を過ぎ、そのまま野毛山公園へと入り込んでゆくと市街地とは思えないほどの木立に目を奪われる。噴水のある広場の周囲のスダジイなどは枝ぶりも見事に大きく、公園の歴史を伺わせる。
再開したのは1930年(昭和5年)に夫が横浜税関長となって横浜に移り住んだ時からだった。汀女は高浜虚子に師事し、「ホトトギス」の同人となって頭角を現す。戦後「風花」を創刊主宰、後の女流俳人に多大な影響を与えた。汀女は生涯を通じて郷里の実家近くの江津湖を愛したといい、1979年(昭和54年)には熊本市の名誉市民となった。また郷里に残した母を想って詠んだ句も多い。1988年(昭和63年)9月、東京女子医大病院で死去、郷里の実家の建物もすでに無いという。 |
|
中村汀女句碑から歩を進めて、噴水のある広場の上側へと散策路を辿ると佐久間象山顕彰碑のある一画に出る。佐久間象山は幕末の松代藩士で、早くから開国と通商貿易の必要を説き、横浜の開港を推進した人物として知られる。この顕彰碑は1954年(昭和29年)、開国100年を記念してこの地に建てられたものだ。
1852年(嘉永5年)、再び江戸に出た象山は木挽町に砲術兵学の塾を開く。500名を超える門下生の中には勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内、小林虎三郎らがいた。1853年(嘉永6年)にペリー艦隊が浦賀沖に来航した際には老中阿部正弘に「急務十事」を建言、松代藩の軍議役として砲術訓練や浦賀警護などに当たった。開港場を江戸から離そうとした幕府に対して、開港場を近くに置くことによる利点を重視、横浜の開港を強く推したのだという。翌年ペリー艦隊が再び来航した時に吉田松陰に密航を勧めて失敗、その責を負って象山は蟄居の身となった。 長州、土佐両藩主の働きによって1862年(文久2年)に赦免された象山は1864年(元治元年)に幕府の命によって上洛、開国進取と公武合体論を説いたが、それが仇となって、その年、京都三条水屋町で攘夷派の刺客の手によって暗殺された。享年53歳だった。早すぎた才能と言うべき人物だったかもしれない。 |
|
佐久間象山顕彰碑の傍らを過ぎて道路に戻って交差点を渡ると野毛山動物園の入口に至る。野毛山動物園は1951年(昭和26年)に「野毛山遊園地」として開園、以来横浜市街地に位置していながら本格的な動物園として親しまれている。
野毛山配水池の傍らを抜けると開放的な雰囲気の広場になっている。芝生の部分や植え込みなどは幾何学的に配置され、整然として端正な美しさを持っている。高台に位置しているだけあって周囲に視界が開けており、東側の隅に設けられた展望台からは港方面の眺望が楽しめる。さらに奥には一段下がって遊具類を配した広場があり、子どもたちの遊ぶ姿がある。 ![]() |
|
野毛山公園の一角は現在でも緑濃い丘の風情を残しており、散策コースとしても魅力的なものだ。少しばかり北へと足を伸ばせば伊勢山皇大神宮や掃部山公園へもそれほど遠くはなく、歴史的由来を訪ねての気ままな散策も楽しめる。子ども連れの家族での行楽にはやはり動物園が楽しいだろう。動物園でさまざまな動物たちを見学した後は広場の芝生の上でお弁当を広げるのがいいだろう。また野毛山公園は桜の名所でもあり、花期には随所に美しい桜を見ることができる。桜の季節を選んでお花見を兼ねて訪れるのもお勧めだ。 |

|
| |
|
| |
|
| |