佳景探訪
本郷/菊坂界隈
東京都文京区の南部、本郷四丁目と本郷五丁目の境に沿って菊坂という坂道がある。菊坂の周辺には古い家並みが残り、樋口一葉の旧居跡などがある。秋晴れの十月下旬、菊坂を中心に本郷の街を歩いた。



菊坂

菊坂

菊坂
本郷通りと春日通りとが交わる「本郷3丁目」交差点から本郷通りを北へ数十メートル進むと、「菊坂」と呼ばれる坂道が北西の方角へ向かって延びている。本郷四丁目と本郷五丁目の境を辿って緩やかに下り、やがて言問通りとの「菊坂下」交差点へと至る。距離にして七百メートルほどだろうか。

道の途中には文京区教育委員会による「菊坂」の解説を記した案内板がある。それによれば「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」と「御府内備考」に記されているという。この辺りには菊畑が広がり、菊の花を作る者が多く住んでいたため、坂を菊坂、坂上の方を菊坂台町、坂下の方を菊坂町と名付けたということだ。現在は「本郷四丁目」、「本郷五丁目」の町だが、1965年(昭和40年)までは町名として「菊坂町」が存在していたようだ。

菊坂は車両の通行も可能な道路だが交通量はあまり多くはない。庶民的な佇まいの個人商店が軒を並べる、のんびりとして穏やかな佇まいの通りだ。周辺は基本的に住宅街で、古い建物も数多く残っている。横手に伸びる細い路地に入り込むと、手動ポンプ式の井戸が残っていたりするのも楽しい。
菊坂下道
菊坂を本郷通り側から200メートルほど下った辺りから、菊坂の南側に平行して延びる狭い道路がある。菊坂より一段低くなっており、「菊坂下道」と呼ばれる(これに対して「菊坂」の方を「菊坂上道」と呼ぶこともあるようだ)。この菊坂下道の佇まいが素敵だ。“路地”と呼んでよいほどの幅の道路で、道脇には古い建物が数多く残っている。建物の軒先に植木鉢がたくさん並べられている様子も楽しい。菊坂下道と菊坂とはところどころで階段で繋がっており、その階段の佇まいもいい。

歩いていると、「宮沢賢治旧居跡」と記された案内板に気付いた。案内板には文京区教育委員会による解説が記されている。宮沢賢治は1921年(大正10年)1月に上京してから同年8月まで本郷菊坂町75番地(現在の本郷四丁目35-4)稲垣方二階六畳に間借りしていたという。宮沢賢治は多いときには一日300枚の割合で原稿を書いたと言われ、「注文の多い料理店」に収録されている「かしわばやしの夜」や「どんぐりと山猫」といった主な作品がここで書かれたのだそうだ。
菊坂下道

菊坂下道

菊坂下道
樋口一葉旧居跡
その「菊坂下道」沿いに樋口一葉旧居跡がある。樋口一葉一家が菊坂に転居してきたのは1890年(明治23年)、一葉が18歳の時で、前年に父親が死去したばかりだった。長兄の泉太郎もすでに亡くなっており、次兄の虎之助は勘当された身で、一葉は戸主として母親と妹を支えていかなくてはならない身だった。生活は苦しく、近くの質屋に通う日々が続いたという。その中で一葉は小説家を志した。処女作「闇桜」が同人誌「武蔵野」に発表されたのは、1892年(明治25年)のことだった。

その後、次々と作品を書き上げて発表するが、生活苦は続いた。その打開のために下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で雑貨店を開業するが、間もなくその店も引き払い、1894年(明治27年)、本郷丸山福山町(現在の文京区西片一丁目)に転居する。ここで「大つごもり」や「たけくらべ」、「にごりえ」といった作品群を発表する。一葉の作家生活の中で最も充実した時期だった。しかし一葉は肺結核を病んでおり、1896年(明治29年)11月、24歳の若さでこの世を去る。現在、文京区西片一丁目には記念碑が建てられ、「樋口一葉終焉の地」として文京区指定史跡になっている。

樋口一葉一家が暮らした菊坂の家は庭付きの一戸建てだったそうだが、当然のことながら現在は当時の姿をとどめてはいない。古い建物が軒を並べる路地の奥に、辛うじて一葉も使ったという井戸が残されている。現在は手動ポンプが取り付けられているが、一葉一家が暮らした頃にはつるべ式井戸だった。町の姿は変わってしまっているが、その佇まいの中に樋口一葉が暮らした時代の様子を想像してみるのも楽しい。
樋口一葉旧居跡付近

樋口一葉旧居跡付近
旧伊勢屋質店
樋口一葉旧居跡のやや北方、菊坂上道沿いに樋口一葉が通ったという伊勢屋質店の建物が残っている。文京区教育委員会の解説によれば、伊勢屋質店は1860年(万延元年)にこの地で創業し、1982年(昭和57年)に廃業した。一葉が終焉の地である本郷丸山福山町(現在の文京区西片一丁目)に戻ってからも一葉と伊勢屋質店とのつきあいは続き、一葉が亡くなったときは伊勢屋の主人が香典を持って弔ったという。店は1907年(明治40年)に改築されたものだそうだが、土蔵は樋口一葉が通った当時のものが残されている。
旧伊勢屋質店
坂の町
菊坂は地形的には谷筋に当たっており、周辺の台地とを繋ぐ坂道が数多く延びている。鐙坂、炭団坂、梨の木坂、本妙寺坂、胸突坂など、さまざまな名の坂道があって興味を覚える。例えば鐙坂(あぶみさか)は「鐙職人の子孫が住んでいた」とか「形が鐙に似ている」といったことからその名があるという。炭団坂(たどんさか)はこれも「炭団職人が住んでいた」とか「転ぶと炭団のように転がるほどの急坂」などといった理由からその名があるようだ。炭団坂は、その上に坪内逍遥の旧居跡があることでも知られる。菊坂に交わる坂道を巡ってそれぞれの風情を楽しんでみるのも一興かもしれない。
鐙坂
鳳明館
菊坂から北へ梨の木坂を上がって真っ直ぐに辿ってゆくと鳳明館という旅館が建っている。この鳳明館の本館は明治30年代に建てられたものという。昭和初期に改造を受けているようだが、歴史的価値が認められ、2000年(平成12年)に国の登録有形文化財に指定されている。一度は宿泊して歴史ある旅館の風情を楽しんでみたいものだが、散策に訪れたときには道脇から外観だけでも見ておきたい。
鳳明館




旧森川町
菊坂周辺を歩いた後は北へ辿り、本郷六丁目の町も歩いてみたい。現在の本郷六丁目辺りは1965年(昭和40年)まで森川町だったところで、江戸時代には森川宿と呼ばれたという。本郷六丁目の道脇に旧森川町について記した案内板がある。それによれば、1872年(明治5年)に岡崎藩主本多氏の屋敷と先手組(さきてぐみ)屋敷を併せて森川町としたものという。先手組頭は森川金右衛門という人物で、中山道の警備に当たったが、与力がたいてい森川氏の親族だったため、「森川宿」と呼ばれたのだという。中山道に於ける馬建場(うまたてば)、すなわち人馬の休むところだったのだそうだ。現在の本郷六丁目の町にはもちろん森川宿の面影はないが、細い道が入り組む町中には古そうな建物が住宅として残っており、散策は楽しい。
本郷館
本郷六丁目の北端に近い辺り、言問通りの「西片二丁目」交差点へと降りてゆく坂道の脇に本郷館という建物が建っている。木造三階建ての堂々とした建物は1905年(明治38年)に建てられたものという。関東大震災や東京大空襲の際にも被災を免れた貴重な建築遺産である。本郷館はいわゆる“下宿屋”で、70を超えるほどの居室があるらしい。“下宿屋”としての使われ方は時代によって様々だったようで、大正時代には東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の寄宿舎として使われていたこともあるという。

本郷館は現在もしっかりと住宅として使われており、内部を見学することはできない。建物の入口脇には「立入禁止」、「私有地につき見学お断り」と書かれているが、やはり無断で入り込む人もあるようで、本郷館に暮らす人たちはたいへんに迷惑しているらしい。訪れたときはその外観だけを静かに見学してゆこう。

追記 本郷館は老朽化のため解体され、現存しない。保存を求める声も多かったようだが、老朽化は激しく、取り壊しが決定、2011年(平成23年)8月から12月にかけて解体工事が行われた。跡地には新しくマンションが建てられている。
本郷館

本郷館
求道会館
本郷館のやや南側には求道会館がある。浄土真宗大谷派の僧侶だった近角常観が広く信仰を説く場として、1915年(大正4年)に建築したものという。建築面積は300平方メートルを超え、地上二階の煉瓦造り、設計したのは武田五一で、建築家としての円熟期の作品という。ヨーロッパの教会堂の空間構成を基本にしながら日本の社寺建築のモチーフを用いた独特の建築様式なのだそうだ。堂々とした建物は一般的な仏教関連施設の佇まいとも違っているが、ヨーロッパの教会建築とも違い、見ると少し不思議な印象を受ける。建築に興味のある人ならぜひ見ておきたい建物だろう。
求道会館




赤門

赤門向かい側辺り

赤門向かい側辺り
旧森川町から東へ抜け出て本郷通りを南へ戻ろう。本郷通りの向こう側は東京大学のキャンパスだ。本郷通りを南へ辿ってゆくと、やがて有名な赤門が見えてくる。現在の東京大学のキャンパスは幕末まで加賀藩上屋敷があったところで、この赤門はその御守殿門だった。1827年(文政10年)、加賀藩十三代藩主前田斉泰は十一代将軍徳川家斉の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎えることになったが、当時は三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際には朱塗りの門を創建するという慣例があり、この赤門が創建されたのだという。この赤門も震災や戦災を免れ、当時の面影をそのままに残す貴重な建築物で、現在は国の重要文化財に指定されている。これも建築物に興味のある人ならじっくりと見ておきたいものに違いない。今回は本郷通り越しに眺めるだけにしておこう。

赤門の向かいに当たる本郷五丁目の町には学生向けと思われる店も少なくない。本郷通りの歩道には学生らしい若者が行き交い、いかにも大きな大学のお膝元という雰囲気の町の佇まいが楽しい。




かねやす

かねやす
本郷通りと春日通りとが交わる「本郷三丁目」交差点の南西側の角、「かねやす」の屋号を掲げたビルがある。一階は洋品雑貨を扱う店舗になっており、その角の壁面に文京区教育委員会による「かねやす」の由来を記した解説板と、有名な江戸川柳「本郷もかねやすまでは江戸の内」を記したパネルが設置されている。

享保年間(1700年代初期)に、この場所で兼康祐悦という口中医師(歯科医)が乳香散という歯磨き粉を売り出したところ、たいへん評判になって客が集まり、祭のように賑わったという。

1730年(享保15年)、大火があり、本郷から湯島にかけて焼けてしまった。当時の町奉行だった大岡越前守は防災上の理由から現在の本郷三丁目から江戸城にかけての町には塗屋、土蔵造りを奨励、茅葺きを禁じて瓦葺きを許したという。中山道を辿ると江戸の中心からこの付近までは瓦屋根が続き、ここから先は板葺きや茅葺きの家々が並んだ。その境に当たる「かねやす」の土蔵はひときわ目立ったという。そこから「本郷もかねやすまでは江戸の内」という川柳が生まれたわけだ。

この「かねやす」、当初は漢字で「兼康」と書いていたそうだが、芝明神町の「兼康」との間で「元祖争い」が起きたという。現在に於ける「商号」を巡っての裁判のようなものか。当時の町奉行は“本郷は仮名で、芝は漢字で”という粋な判決を下したそうで、それ以来、本郷の「兼康」は仮名で「かねやす」と書くのだという。




本郷菊坂本郷菊坂
本郷の町には今も古い時代の面影が残り、町歩きの愉しみを充分に味わうことができる。樋口一葉旧居跡などを訪ねながらのんびりと歩いてみるとさまざまな発見があって楽しい。本郷の町は基本的に住宅街で、人々の暮らしが静かに息づいている。だからこそ魅力的なのだが、散策の際には住民の方々の迷惑にならないようにくれぐれも注意したい。
参考情報
交通

菊坂へは都営地下鉄大江戸線本郷三丁目駅や東京メトロ丸ノ内線本郷三丁目駅が便利だ。駅を出れば目の前が「本郷3丁目」交差点だ。後楽園駅(東京メトロ丸ノ内線、東京メトロ南北線)、あるいは後楽園駅と繋がっている春日駅(都営地下鉄大江戸線、都営地下鉄三田線)などからも比較的近い。

駐車場は菊坂周辺の本郷四丁目、五丁目、六丁目には少ないが、春日通り南側の本郷一丁目、二丁目、三丁目や白山通り西側の小石川には比較的多く点在しているようだ。規模の小さなものが多く、土地勘の無い人は車での来訪は避けた方が無難だろう。

飲食

菊坂にも飲食店はあるがあまり多くはなく、食事を楽しむなら「本郷3丁目」交差点まで戻る方がいいかもしれない。交差点を中心に春日通り沿い、本郷通り沿いに数多くの飲食店が点在している。都心の市街地だからお弁当を持参してのアウトドアランチには不向きだ。

周辺

「本郷3丁目」交差点から春日通りを東へ数百メートルほど進むと通りの南側には湯島天神、北側には旧岩崎邸庭園がある。その北東側は上野恩賜公園だ。「本郷3丁目」交差点から本郷通りを南へ下って「壱岐坂上」交差点から南西へと入り込むと本郷給水所公苑がある。初夏にはバラが美しい。「壱岐坂上」交差点から本郷通りをさらに南東へと下るとJR御茶ノ水駅が近くなり、神田明神や湯島聖堂などが建っている。「本郷3丁目」交差点から春日通りを西へ進むと数百メートルで文京区役所、その南側は東京ドーム、東京ドームの西側には国の特別名勝に指定されている小石川後楽園だ。小石川後楽園の北西側には「牛天神」と呼ばれる北野神社が建っている。それらは「本郷3丁目」交差点を中心に半径1kmほどの円の中にある。地図を片手にのんびりと巡ってみるのがお勧めだ。
本郷菊坂

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