東京都台東区の上野恩賜公園は、日本で最もよく知られた公園のうちのひとつだ。園内には上野動物園があり、国立博物館や西洋美術館など、文化施設も多い。春の桜の名所としても知られ、東京都内屈指の観光地として常に多くの来園者を迎える。新緑も眩しい五月の初め、上野恩賜公園を訪ねた。
上野恩賜公園
上野恩賜公園
東京都台東区の上野恩賜公園はおそらく日本で最もよく知られた公園のうちのひとつだ。行ったことのない人でも上野動物園の名くらいは知っているだろう。その上野動物園があるのが上野恩賜公園だ。現在、公園の正式な名は「上野恩賜公園」というのだが、ほとんどの人は単に「上野公園」と呼んでいるに違いない。

上野恩賜公園は、そもそもは寛永寺の境内だったところだ。寛永寺は、江戸時代の初期、三代将軍徳川家光によって建立されたもので、江戸城から見て丑寅(北東)の方角に位置し、鬼門の悪鬼を封じる目的があったという。現在の上野恩賜公園の、不忍池も含めた全域が、当時は寛永寺の境内だった。現在の上野恩賜公園の中央部を貫くように延びる広い遊歩道は当時の参道の名残で、北側の東京国立博物館正面に位置する噴水池の辺りにかつて寛永寺の中堂が建っていたという(現在の寛永寺は上野恩賜公園の北西側、上野中学校の北に建っている)。
上野恩賜公園
上野恩賜公園
上野恩賜公園
上野恩賜公園
1868年(慶応4年)、上野の寛永寺は壮絶な戦いの舞台となった。寛永寺に立てこもった幕府側の彰義隊を新政府軍が取り囲み、総攻撃をかけた。わずか半日ほどの戦いだったが、彰義隊は多数の死者を出し、新政府軍の圧倒的勝利に終わる。戊辰戦争の中の戦いのひとつ、いわゆる「上野戦争」である。

上野戦争によって焼け野原となった上野の山に、明治政府は医学校と病院を建てようとした。視察のために現地を訪れたオランダの軍医ボードワン博士(Anthonius Franciscus Bauduin、「ボードウィン」とも「ボードイン」とも表記される)は、上野の豊かな自然を残すべきと考え、公園を造ることを明治政府に提言したという。

1873年(明治6年)、有名な「太政官布達」が出される。「古来ノ勝区名人ノ致跡地等」を「公園」とするから申し出よ、というものだ。”古くからの景勝地や史跡などを「公園」とするから申し出なさい”ということだが、これに対して東京府は上野の寛永寺の他、芝の増上寺、浅草寺、富岡八幡社、飛鳥山の五カ所を申し出て、これによって日本初の「公園」が誕生することになる。しかし当時の日本に「公園」という概念はない。これらの「公園」は現在の公園の様相とは程遠く、単なる”盛り場”と化していったようだ。

寛永寺だった頃には幕府の直轄地だったわけだが、明治になって東京府の管理するところとなり、次には内務省管轄地、さらに帝室の御料地となり、明治後期から大正にかけて上野公園は宮内省の管轄地だった。宮内省の管轄だった頃にはちょっとした整備にも宮内省の許可が必要で、園内は次第に荒れていったという。1924年(大正13年)、今上陛下御慶事記念として宮内省から東京市に下賜され、この経緯から公園の正式名称は「上野恩賜公園」という。その後は管理者の変更もなく、現在も東京都の管理下にある。
上野恩賜公園
上野恩賜公園は総面積50haを超える広大な公園だ。開放感に富んだ広場などはないから広大さを実感しにくいが、さまざまな施設の点在する園内を歩いてみると広さがよくわかる。公園としての歴史が始まった頃には寛永寺の社殿や上野東照宮などを中心にした公園だったようだが、その後上野動物園が開園するなどして施設が充実し、現在では東京国立博物館や国立科学博物館、東京西洋美術館、東京都美術館、上野の森美術館、東京文化会館といった博物館や美術館、音楽ホールなどが建ち、東京に於ける文化と芸術の一大拠点の様相を呈している。
博物館、美術館、動物園
JR上野駅から公園へ入ると、駅のすぐ横には東京文化会館が建つ。東京文化会館は1961年(昭和36年)に開館したもので、音楽用ホールをメインに、音楽資料室や会議室、レストランなども併設している。東京文化会館の南側には上野の森美術館、北側には国立西洋美術館と国立科学博物館が並ぶ。

国立西洋美術館は株式会社川崎造船所(現川崎重工業株式会社)の初代社長を務めた実業家松方幸次郎が収集した美術品を基礎にして1959年(昭和34年)に開館したものだ。本館はスイス生まれの著名な建築家ル・コルビュジエの作品として知られる。

国立科学博物館は1871年(明治4年)に設立された文部省博物局の観覧施設だったものが前身で、上野に「教育博物館」として開館したのが1877年(明治10年)、この年を創立年としているそうだ。その後幾度かの改称と関東大震災の被災などを経て、「国立科学博物館」となったのは戦後間もなくの1949年(昭和24年)のことだ。2004年(平成16年)には新館(現地球館)が開館、1930年(昭和5年)落成の日本館は「旧東京科学博物館本館」として2008年(平成20年)に国の重要文化財の指定を受けている。

国立科学博物館と国立西洋美術館が並ぶ西側には中央に噴水池を置いた広場があり、その北側正面、都道452号を挟んで東京国立博物館が建っている。東京国立博物館も国立科学博物館と同様、1871年(明治4年)に設立された文部省博物局が始まりだ。その翌年、日本で最初の「博覧会」が開催されるが、事実上これが「博物館」の始まりで、現在の東京国立博物館の創立とされている。現在地に建物が造られたのは1881年(明治14年)のことで、煉瓦造2階建ての本館はジョサイア・コンドルの設計によるものだったが、残念ながら関東大震災で被災、現存していない。現存する本館が開館したのは1938年(昭和13年)のことで、「旧東京帝室博物館本館」として2001年(平成13年)に国の重要文化財の指定を受けている。

噴水池の西側には東京都美術館が建っている。東京都美術館は1926年(大正15年)に東京府美術館として開館したのが始まりという。東京都美術館の西側に広がるのは上野動物園だ。正式には「恩賜上野動物園」という。1882年(明治15年)の開園で、日本で最古の動物園であり、おそらく日本で最もよく知られた動物園だろう。1970年代初期、ジャイアントパンダの「カンカン」と「ランラン」が来日、日本中に一大ブームを起こしたこともすでに歴史のひとこまである。
国立西洋美術館
国立西洋美術館
東京国立博物館
上野動物園入口
西郷隆盛像
公園の南端部には有名な西郷隆盛像が建っている。元薩摩藩士で宮内次官も務めた吉井友美の発案によって建てられたものだ。西郷像は高村光雲の作、犬は後藤貞行の作で、除幕式は西郷が死去して21年が経過し、発案者の吉井も亡くなった後の1898年(明治31年)に行われている。像は下から見上げることを前提に、頭部がやや大きく造られている。西郷隆盛は信頼に足る写真が残されておらず、制作にあたって高村は西郷の知人の話や西郷の弟の風貌などを参考にしたという。しかし公開に招かれた西郷の夫人糸子は「うちの主人はこんな人ではなかった」との旨の感想を口にしたという。顔が似ていないという意味か、正装せずに人前に出るようなことはしなかったという意味か、あるいはその両方か、さまざまに解釈があるようだ。

この西郷隆盛像、皇居に建てる案もあったというが、西郷が朝敵となった経緯から反対する声も少なくなく、そうした意見におもんばかって上野に建てられたものという。像の西郷が正装でないのも、そうした理由からではないかともいう。ともあれ、建立以来、上野の西郷隆盛像は「上野の西郷さん」として親しまれ、上野の象徴であり続けている。
西郷隆盛像
彰義隊の墓
西郷隆盛像のすぐ北側、木々に抱かれるようにして彰義隊の墓がある。幕末、大政奉還の後、第十五代将軍徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻り、上野の寛永寺に蟄居の身となる。徳川家の処分を検討する官軍に対し、慶喜の一橋家時代の側近らが慶喜の助命を求めて同盟を結成、後に「彰義隊」と名乗るようになる。1866年(慶応4年)2月のことだ。彰義隊には徳川家に忠誠を尽くす藩士のみならず、新政府に不満を持つ者などが多数集まったという。同年4月、江戸城は無血開城、徳川慶喜は水戸に隠棲するが、上野の寛永寺を拠点としていた彰義隊はそのまま寛永寺にたてこもった。同年5月15日(旧暦)、大村益次郎に率いられた新政府軍が寛永寺を包囲、総攻撃をかけた。これがいわゆる「上野戦争」である。戦いは武力に勝る新政府軍の圧倒的な勝利に終わる。およそ半日の戦いだった。彰義隊は多数の死者を出し、生き残った者も散り散りになって敗走した。彰義隊の遺体はそのまま放置されていたが、それを見かねた南千住円通寺の住職仏磨らによって荼毘に付されたという。1874年(明治7年)、その火葬の場となったところに、生き残った彰義隊隊士のひとり、小川興郷らによって墓が建てられた。以来、小川一族によって墓所が守られてきたそうだが、現在は管理が東京都に移され、台東区有形文化財となっている。
彰義隊の墓
清水観音堂
西郷隆盛像や彰義隊の墓などのある一角のやや北方に清水観音堂が建っている。その名からも推測できるが、京都の清水寺を模して造られたものといい、小さいながらも“清水の舞台”を模した舞台も造られている。本尊の千手観音坐像も京都の清水寺から奉安したものという。現在の舞台からは鬱蒼と茂る木々が見えるばかりだが、江戸時代にはこれらの木々はもっと少なく、舞台の上からは正面に不忍池が見えたのだという。不忍池も琵琶湖を模して造られたものなのだそうだ。清水観音堂は寛永寺を開創した天海によって1631年(寛永8年)に創建、当初は現在地よりやや北側にあったそうだが1694年(元禄7年)に移築されたものという。1990年(平成2年)から1996年(平成8年)にかけて解体修復の工事が行われている。国指定重要文化財である。
清水観音堂
正岡子規記念球場と句碑
東京文化会館の西側には正岡子規記念球場があり、その傍らに句碑が建てられている。正岡子規は明治期の俳人、歌人として著名だが、日本に紹介されて間もなかったベースボール、すなわち現在の野球の愛好者であったこともよく知られている。1886年(明治19年)から1890年(明治23年)にかけての頃、正岡は上野公園内でよく野球を楽しんでいたのだという。正岡は野球を俳句や随筆などに描いて普及に貢献、また様々な野球用語の訳語を考案したことも知られている。「ベースボール」は「弄球」と訳したそうだが、「打者」、「走者」、「直球」など、現在も使われている訳語も数多い。句碑には「春風や まりを投げたき 草の原」の句が刻まれている。上野恩賜公園開園式典130周年を記念して2006年(平成18年)に建立されたもので、同時に野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付けられたものという。
正岡子規記念球場と句碑
上野こども遊園地
追記 上野こども遊園地は1946年(昭和21年)に開園、長く親しまれていたが、諸事情から2016年(平成28年)8月31日をもって閉園、70年に及ぶ歴史に幕を下ろした。本項目は在りし日の上野こども遊園地の記録、あるいは想い出として、このまま残しておきたい。

動物園の正面ゲート南側の脇に「上野こども遊園地」という一角がある。設置されているのはメリーゴーラウンドなどの機械仕掛けの遊具類で、「のりもの券」を購入してそれぞれの遊具に乗る形式になっている。

この「上野こども遊園地」、決して広くはない。狭い、と言った方がいいかもしれない。その狭い敷地の中にさまざまな機械仕掛けの遊具類が処狭しと設置されているのだ。それぞれの遊具類も小さなもので、昔のデパートの屋上遊園地に置かれていたようなものを連想させると説明すれば年配の方々にはわかっていただけるだろうか。

馬が回る形のメリーゴーラウンド、いわゆる「カルーセル」をはじめ、トーマスの電車、ディズニーのダンボをモチーフにしたらしい“空飛ぶゾウ”が回る遊具など、さまざまな遊具が押し込まれたように狭い敷地に置かれている。その隙間を埋めるようにドラえもんやピカチュウといったキャラクターの人形が立ち、ディズニー・アニメの「白雪姫」に登場するような“小人”の人形も随所で子どもたちを迎える。

園内はもちろん小さな子どもたち(を連れた家族)で賑わっているのだが、大人の身でも何故か心惹かれるものがある。“昔、こんなもので遊んだな、懐かしいな”という感覚ももちろんあるのだが、これらの遊具類の醸し出す雰囲気は単なる“懐かしさ”にとどまらない。派手な原色で塗られた遊具類はレトロでキッチュな味わいがあり、それらが狭い空間に凝縮して置かれた様子には、どこか現実離れした夢想的な印象を誘われる。機械の音が響き、子どもたちの歓声が飛び交う園内を歩いていると、色とりどりの遊具類が色彩の洪水のように眼前に迫り、その向こうに空の青さを見上げたときなどにはどこかへ置き忘れた遠い記憶の中に迷い込んだような、白日夢の中を漂うような感覚さえ覚える。そんな感覚がなんとも楽しいのだ。

遊具類の置かれた敷地の傍らにはジェラートとクレープを売る売店があるが、この売店の佇まいも素敵だ。遊具類の醸し出す雰囲気に合わせてか、屋根を緑に外壁をピンクに塗られた外観がレトロでキッチュ、なかなか良い風情だ。

この「上野こども遊園地」、小さな子どものいる家族が楽しめるのはもちろんだが、“公園散策”好きの人、レトロなものの好きな人も必見である。上野恩賜公園の中にこのような区画が存在するのは意外と言えば意外かもしれない。上野のお山は奥が深い。“上野公園恐るべし”である。
上野こども遊園地
上野こども遊園地
上野こども遊園地
上野こども遊園地
不忍池
上野恩賜公園の南西側の一角を占めるのが不忍池だ。中央部、やや東よりには弁天島(中之島)が浮かび、島には不忍弁天堂が建っている。東側の岸辺からは弓なりに弧を描いて堤が延びて不忍弁天堂とを繋ぎ、それによって不忍池は三つの区画に分かれている。東側の岸と弧を描く堤とに囲まれた区画はボート遊びの可能な「ボート池」、弁天島の南側は蓮に覆われた「蓮池」、弁天島の北側は上野動物園の中に位置する「鵜の池」で、その名のようにカワウが繁殖しているという。
不忍池
不忍池は天然の池で、江戸時代初期に寛永寺が建立された際、琵琶湖に見立てて整備されたものという。弁天島はその際に築かれたもので、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島に準えたものらしい。竹生島は国の名勝にも指定されている島で、古くから信仰の対象となっていたから、琵琶湖に見立てた不忍池にもそれに相応するものが必要だったのだろう。

江戸時代の不忍池は現在とは形が違っていたそうだ。1884年(明治17年)、共同競馬会社が現在の新宿区にあった戸山競馬場を不忍池に移転して営業を開始、その際に埋め立てられるなどして現在の形になったものという。不忍池競馬場は池を周回する形で整備され、開催初日には明治天皇の行幸もあり、たいそうな賑わいだったそうだが、営業的には芳しくなかったようで、1892年(明治25年)、経営難のために解散となっている。不忍池の岸辺を散策しつつ、不忍池競馬場の賑わいを想像してみるのも一興かもしれない。

不忍池の岸辺は散策を楽しむ人でたいへんに賑わっているが、あまり喧噪感がなく、のんびりとした空気感が漂っているのように感じられるのは池の辺だからかもしれない。弁天島からボート乗り場にかけては観光客なども多く、いかにも観光地的な賑やかさが楽しい。そこから池の南西側に向かって堤を歩けば西側には木々の隙間にボート遊びを楽しむ人たちが眺められる。のんびりとした雰囲気が漂って見ている方も楽しい。堤にはベンチも設置されているから、腰を降ろして一休みするのもいい。堤の東側は蓮池だ。不忍池では昔から蓮の花を愛でる“蓮見”が風流な楽しみとして定着しているそうだ。訪れたのは五月でもちろん蓮の花は咲いていないが、池の中にアオサギの姿を見つけることができた。

池の南岸から北へ池を眺めると、空が広い。眼前に池が広がり、少し遠く木々の緑が横たわり、その上に青空が大きく広がる。あまり高い建物も視界に入らず、開放感のある眺めだ。岸辺に備えられたベンチでのんびりと過ごす人たちの姿も多い。訪れたとき、南側の岸辺では骨董市が開かれていた。骨董を扱う店のテントが並び、骨董趣味の人たちで賑わっている。通りがかりに覗いてゆく人の姿も少なくないようだ。不忍池の骨董市は早春から秋まで、年に五回ほど開催されているらしい。この骨董市もまた、上野公園の風物のひとつと言っていいのだろう。
不忍池
不忍池
不忍池
不忍池
上野恩賜公園
上野恩賜公園
上野恩賜公園は広い。50haを超える面積ももちろん広いが、その歴史に由来する種々の事物、博物館や美術館、動物園などの施設、不忍池の景観、観光地としての賑やかさなど、さまざまな要素を含んで、その楽しみ方がたいへんに“広い”。“深い”と言い換えてもいい。いろいろな楽しみ方に応えてくれるのだ。一度訪れただけではとてもその魅力を堪能しきれない。博物館や美術館に訪れた際、時間を設けて園内散策を楽しむのもいい。春の桜や夏の蓮、上野東照宮の牡丹など、花の名所としても名高い。季節毎に訪れてみるのもお薦めだろう。何度訪れても飽きることがないのではないかと思える。
参考情報
本欄の内容は上野恩賜公園関連ページ共通です
当然のことながら、上野恩賜公園には無料で自由に入園できるが、博物館や美術館、動物園などはそれぞれに入館料・入場料が必要、上野東照宮の牡丹苑も拝観料が必要だ。

交通
上野恩賜公園へはJR線(山手線、京浜東北線、東北新幹線など)の上野駅、東京メトロ銀座線上野駅、東京メトロ日比谷線上野駅、京成線京成上野駅などが至近だ。東京メトロ千代田線湯島駅からは不忍池の南西端へ近い。東京メトロ上野広小路駅や都営地下鉄大江戸線上野御徒町駅、JR線(山手線、京浜東北線)の御徒町駅からも徒歩で10分かからない距離だ。

有料駐車場が用意されているが、駐車台数は充分とは言えない。周辺には民間の駐車場もあるが、有名な観光地であるため、休日には満車状態が続き、周辺の道路は混雑する。車での来訪はあまりお薦めしない。

飲食
上野恩賜公園内にも「上野グリーンサロン」や「蓮見茶屋」といった飲食店がある他、美術館や博物館にもカフェやレストランが併設されている。公園の外に出れば上野駅から御徒町駅周辺にかけて多くの飲食店があり、食事をする場所には困らない。好みの店を見つけて食事を楽しむといい。上野恩賜公園は観光地的性格が強く、多数の来園者で混雑している。のんびりとお弁当を広げるには不向きかもしれない。

花見シーズンには大勢の花見客でたいへんに混雑し、当然のことながら園内や付近の飲食店も混み合っているので相応の心構えが必要だ。花見客向けに園内の随所でお弁当の販売も行われているようなので、それを買い求め、どこかに腰を降ろす場所を見つけて桜を眺めながらお弁当を食べるのも一興かもしれない。

周辺
不忍池の南西端から西側に道路を渡ると旧岩崎邸庭園がある。その南側には春日通りを挟んで湯島天神が建っている。湯島天神の横を南へ数百メートル下ると神田明神だ。

春日通りを西へ進むと1km足らずで「本郷三丁目」交差点、交差点の北西側には東京大学のキャンパスが広がる。「本郷三丁目」交差点の北東側には古い町並みが残り、樋口一葉旧居跡などがある。

不忍池から北へ辿れば根津、この付近も風情ある古い町並みの残るところだ。上野駅から御徒町駅にかけて線路脇に延びるのは有名な「アメ横」だ。上野駅から東へ向かえば「かっぱ橋道具街」へも遠くない。
公園散歩
東京23区散歩