佳景探訪
旧岩崎邸庭園
東京都台東区の西端部、不忍池の西に旧岩崎邸庭園がある。三菱を創設した岩崎家の本邸として建てられた建物と庭園の一部を都立の公園としたものだ。晴天に恵まれた十月半ば、旧岩崎邸庭園を訪ねた。



旧岩崎邸庭園

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「財閥」という言葉が使われ出したのは明治期の後半になってからのことらしい。「財閥」の学術的定義については他に譲るが、簡単に言えば家族あるいは同族によって所有、支配された寡占企業の集合体による事業形態のことだ。戦後になって連合国軍最高司令官総司令部(いわゆるGHQ)の指令によって“財閥解体”が行われるまで、日本の経済界には多くの「財閥」が存在した(財閥解体の後も、かつての「財閥」の名残を色濃く残す企業グループが存在している)。その中で最も有名なものが三井、住友、三菱の「三大財閥」である。「三大財閥」のうち、三井と住友は江戸時代以前から続く旧家だが、三菱の歴史は幕末から明治維新への動乱の中で始まる。

三菱財閥の創設者は土佐藩出身の岩崎彌太郎である。岩崎彌太郎は1835年(天保5年)、土佐国井ノ口村(現在の高知県安芸市)の地下浪人の家に生まれ、極貧の中で幼少期を過ごした。文才に恵まれていたといい、21歳のときに学問で身を立てようと江戸に出て安積艮斎の門人となったが、ほどなく土佐に戻っている。土佐に戻ってからの彌太郎は吉田東洋や後藤象二郎らと親交を結び、藩職に就くようになる。商売の基礎を学んだのもこの頃らしい。1866年(慶応2年)には藩の開成館貨殖局に勤務、後には坂本龍馬が設立した「亀山社中」、後の「海援隊」の会計係を務めている。そして明治維新、1869年(明治2年)には岩崎彌太郎は土佐藩の開成館大阪出張所(大阪商会)の責任者に抜擢、翌年には大阪商会が私商会へと移行した「九十九商会」の監督係を任される。

藩の要職に就く身になっていた彌太郎だが、1871年(明治4年)の廃藩置県によってその地位を失ってしまう。新しい時代を迎えた中で、彌太郎は九十九商会の経営を引き受ける。後藤象二郎や板垣退助に説得されての決断だったという。彌太郎の“実業家”としての出発点である。九十九商会の主な事業は海運業で、顧客の需要をうまくつかみ、次第に業績を伸ばしてゆく。九十九商会は1872年(明治5年)に「三川商会」に、さらに翌年には「三菱商会」に改称、そして1874年(明治7年)、三菱商会は本店を東京日本橋に構え、「三菱蒸気船会社」を社名とした。彌太郎はこの時点で初めて自らを「社長」と名乗ったという。

その後の三菱商会は大隈重信や大久保利通といった明治政府の要人らを後ろ盾に、国の業務を請け負うなどして飛躍してゆく。西南戦争の際には政府の軍事輸送を引き受け、巨万の富を得る。しかし、1878年(明治11年)に大久保利通が暗殺、さらにいわゆる「明治十四年の政変」で大隈重信が失脚、三菱は政界の後ろ盾を失い、政府も世論も反三菱へと動く。政府側は三井などと共に「共同運輸会社」を設立、海運業を独占していた三菱に対抗する。そのような中、1885年(明治18年)2月、彌太郎が亡くなる。享年50歳、胃癌だったそうだ。

彌太郎亡き後、弟の彌之助が三菱を継ぐ。消耗戦となっていた三菱と共同運輸との戦いは両者の合併という形で決着を見る。それによって1885年(明治18年)に発足するのが「日本郵船」である。彌之助は社名を「三菱社」に改名、それまで副業であった炭鉱や造船、銀行などの事業に力を注ぐ。1893年(明治26年)、三菱社は三菱合資会社に改組、彌太郎の長男、久彌が社長となる。1916年(大正5年)には彌之助の長男、小彌太が四代目社長に就任、その後、銀行部は三菱銀行へ、営業部は三菱商事へ、炭坑部と鉱山部は三菱鉱業へ、地所部は三菱地所へ、造船部は三菱造船、後の三菱重工業へと分割、軍需の拡大を背景に三菱財閥はさらに拡大していくが、やがて終戦、三菱はGHQの「財閥解体」の指令を受け入れ、「三菱財閥」は終焉を迎えるのである。

旧岩崎邸庭園

明治初期、西南戦争の軍事運輸で富を得た岩崎彌太郎は東京に三つの屋敷を購入したという。まず上野不忍池近くの下谷茅町、高田藩榊原家の江戸屋敷、周辺の土地も買い上げ、母屋を建て直して駿河台から移り住んだ。彌太郎は、この茅町本邸で50年の生涯を終えている。次に深川清澄、久世大和守の下屋敷跡などを購入して和風庭園として整備、「深川親睦園」と名付けて社員の親睦の場とした。現在の清澄庭園である。そして駒込の六義園、柳沢吉保によって築かれた名園ながら明治維新後は荒廃していた六義園を買い取って整備、岩崎家駒込別邸とした。

不忍池近くの茅町本邸は1896年(明治29年)、久彌によって洋館と和館を併設した新しい屋敷に建て替えられる。洋館は英国人ジョサイア・コンドルが設計、和館は大工棟梁の大河喜十郎が手がけたという。その後の約50年間、新しい洋館と和館は岩崎家の本邸として使われたが、終戦を迎えるとGHQに接収され、返還後は国有化、2001年(平成13年)になって東京都に移管された後、整備されて都立公園として開園した。これが現在の「旧岩崎邸庭園」である。

現在の「旧岩崎邸庭園」に残されているのは、かつての岩崎家茅町本邸のうちの洋館と和館の一部、撞球室、庭園の一部である。往時の茅町本邸は1万5000坪を超える敷地に20棟の建物が並んでいたという。特に和館はその大部分が取り壊されており、現在は大広間が残されているのみである。現在、東京地方裁判所宿舎や湯島地方合同庁舎、最高裁判所宿舎が建っている場所も、かつては岩崎邸の敷地内だったというから、いかに広大な敷地だったかがわかる。

ジョサイア・コンドル設計による洋館は、岩崎家所有の頃には岩崎家の集まりや賓客を招いてのパーティなどにのみ使われていたという。木造二階建て、地下室付き、明治期の上層階級の邸宅を代表する本格的な洋風建築だという。17世紀の英国ジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラムのモチーフ、米国ペンシルベニアのカントリーハウスのイメージも採り入れられ、南側のベランダに並ぶ列柱は1階がトスカナ式、2階はイオニア式の装飾が施されているのだそうだ。北側に面した玄関部分や塔屋の意匠、南側のベランダの様子など、その外観だけでも充分に見応えのあるものだが、やはり館内の様子もじっくり見学しておきたい。細部まで贅を尽くした造りの洋館の中を巡りながら、かつて岩崎家の人々が繁栄を謳歌していた時代の様子を想像してみるのも一興だ。

洋館の北東側に少し離れて建つ撞球室(ビリヤード場)も洋館と同じくコンドルの設計で、こちらは洋館とは趣を異にしてスイスの山小屋風の造りがなされている。洋館と撞球場は地下通路で繋がれているというのが面白い。

建物が並ぶ一角の東南側には芝生の庭が広がっている。大名庭園の形式を一部に踏襲した和洋併置式、「芝庭」を持つ近代庭園の初期の形をしているのだそうだ。庭園は周囲を木立が囲んでおり、都会の中の異空間という佇まいだ。庭園そのものも美しいが、庭園から眺める洋館の美しさも堪能しておきたい。

旧岩崎邸庭園

岩崎邸の洋館と撞球場を設計したジョサイア・コンドル(Josiah Conder)は1852年生まれの英国人建築家だ。ロンドンに生まれ、ロンドン大学で建築を学んだ。1877年(明治10年)、24歳の時、日本政府の招聘を受け、いわゆる“お雇い外国人”として来日した。来日後のコンドルは工部大学校造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)の初代教授に就任、本格的な西洋建築の教育を行い、多くの人材を育成した。彼の門下生の中には東京駅を設計した辰野金吾や赤坂離宮を設計した片山東熊、さらに妻木頼黄や曽禰達蔵、佐立七次郎といった著名な建築家がいる。それによって日本建築界の礎が築かれたことこそ、彼の最も大きな功績と言っていい。1883年(明治16年)には教え子の辰野金吾に教授の座を譲り、やがて1888年(明治21年)、独立して民間の建築事務所を開設した。これが日本で初めての民間の建築事務所であるという。

ジョサイア・コンドルの設計による建築物は数多い。教職に就いていた時代は鹿鳴館や上野博物館などの政府関連施設が中心だが、独立した後は主に政財界の要人の邸宅を手がけている。後に三菱の顧問となるなど、特に三菱との繋がりは深く、岩崎家茅町本邸(すなわち「旧岩崎邸庭園」に残る洋館と撞球場)をはじめ、岩崎家高輪別邸(開東閣)、丸ノ内の三菱1号館、三菱2号館(後の明治生命館)などを設計している。また島津家袖ヶ崎邸(後に清泉女子大学本館となった)、古河虎之助邸(現在の「旧古河庭園」に残る洋館)、三井倶楽部などもコンドルの手による。ニコライ堂の実施設計もコンドルが行ったものだという。

来日後のジョサイア・コンドルは河鍋暁斎に入門して日本画を学ぶなど、日本文化に深く傾倒したという。妻くめは日本舞踊の師匠だったらしい。1920年(大正9年)、亡くなったくめの後を追うようにコンドルは脳溢血に倒れ、帰らぬ人となった。67歳だった。

旧岩崎邸庭園

明治維新の混乱の中で財を成し、やがて大企業へと成長、終戦後の財閥解体まで日本経済界に君臨した三菱財閥、その三菱財閥を創設した岩崎家の本邸跡である「旧岩崎邸庭園」は、日本近代史に興味のある人なら是非とも訪ねてみるべきところだろう。歴史に興味のない人も、訪れる時には岩崎家と三菱の歴史や明治期の日本経済界の歴史について少しだけでも学んでおくと、見学の際にさらに興味が増すだろう。そしてまた建築に興味のある人なら、ジョサイア・コンドルが設計した洋館の外観から内部の造作まで、その隅々まで見学しておきたいものに違いない。そしてもちろん「旧岩崎邸庭園」は“観光名所”としても充分に魅力的だ。明治期の洋館を代表する建築物は興味や予備知識がなくてもたいへんに見応えがあって楽しめる。時間をかけて洋館を見学した後は、和館を利用した“お休み処”や庭園の隅に置かれたベンチに腰を降ろし、ゆったりと一休みしながら、遠い時代の彼方の出来事に思いを巡らせるのも楽しい。
参考情報
旧岩崎邸庭園は入園料が必要だ。ペット連れの入園はできない。建物内の見学の際には靴を脱がなくてはならないが、素足での見学は禁止、スリッパの持ち込みも禁止となっており、靴下などの用意が求められている。また館内の写真撮影については制限が設けられている。その他、開園日、開園時間、注意事項については東京都公園協会サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通

旧岩崎邸庭園へは東京メトロ千代田線湯島駅が至近で、徒歩で5分足らずだ。東京メトロ銀座線上野広小路駅や都営大江戸線上野御徒町駅からなら徒歩で10分程度、JRの御徒町駅からは徒歩で十数分といったところか。京成上野駅から不忍池の南岸を回ってきても十数分で来られるだろう。

旧岩崎邸庭園には一般用の駐車場は用意されておらず、車で訪れるときには近くの民間駐車場を利用しなくてはならない。上野恩賜公園に近いため、周辺に大小さまざまな民間駐車場が点在しているが、混雑は免れない。

飲食

和館部分を利用して“お休み処”が設けられているが、園内に食事の可能なレストランはない。庭園の芝生はレジャーシートを広げるのは禁止とのことだが、撞球場近くの一角には屋外用のテーブルセットが置かれており、ここが空いていればお弁当を広げることも可能だ。

旧岩崎邸庭園の外に出れば東側は上野恩賜公園の不忍池、その東側に上野駅や御徒町駅があり、駅周辺を中心に周辺にはさまざまな飲食店が多数ある。お店を探すのにはまったく困らない。

周辺

旧岩崎邸庭園の北東側には広大な上野恩賜公園が広がっている。併せて散策を楽しむのがお勧めだ。南側には春日通りを挟んで湯島天神がある。湯島天神から南へ数百メートル辿れば神田明神だ。併せて参拝してゆくのもいい。春日通りを西へ辿れば1km足らずで本郷通りとの「本郷三丁目」交差点、交差点の北西側は古い家並みの残る本郷の町だ。散策の足を延ばしてみるのも悪くない。
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