鹿児島市の城山の麓は西郷隆盛が最後を迎えた場所だ。西南戦争末期、西郷が籠もったという洞窟や、ついに最後の時を迎えた「終焉の地」が残っている。残暑厳しい八月半ば、西郷隆盛の最後の足跡を訪ねた。
西郷隆盛終焉の地
鹿児島市の城山は鹿児島市街と桜島を一望する観光名所として人気だが、その北側の麓は西郷隆盛が最後を迎えた場所としても知られる。西南戦争末期、追い詰められた西郷は城山に陣を張って洞窟に籠もり、やがてそこを出てついに最後の時を迎える。西郷が自刃した場所は、今は「西郷隆盛終焉の地」として町の一角に場所を設けて碑が建てられている。そこからほど近い南洲公園内の墓所には西郷の墓がある。西郷が辿った最後の足跡を追ってそれらを巡るのも、鹿児島観光のひとつかもしれない。
西郷隆盛終焉の地
西郷隆盛終焉の地
西郷隆盛終焉の地
西郷隆盛終焉の地
西郷隆盛終焉の地
明治維新後は明治新政府でも陸軍大将などの役職を担い、岩倉使節団の外遊中には政府を主導した西郷隆盛だったが、朝鮮との国交回復問題を巡って政府内で対立、1873年(明治6年)、職を辞して野に下ることになる。薩摩に戻った西郷は私学を開き、若者たちの教育に注力するが、この私学はやがて鹿児島に於ける大きな勢力になってゆく。

1876年(明治9年)になって各地で明治政府の政策に不平を抱く士族たちによる反乱が頻発する。熊本では「神風連の乱」が、福岡では「秋月の乱」、さらに山口でも「萩の乱」が相次いで起こる。その中で薩摩の西郷は静観を保っていた。

しかし、明治政府による弾薬の搬出、いわゆる「弾薬略奪事件」が起き、血気に逸った私学の若者たちが陸軍の火薬庫を襲撃するに至って事態は新たな局面を迎える。政府による西郷隆盛暗殺も噂される中、西郷は「おはんらにやった命」と、若者らの思いに応える形でついに決起を決意、1877年(明治10年)2月、西郷に率いられた薩摩軍は東京へ向かって進軍を開始する。対して政府軍も薩摩軍を逆徒として征討を決定する。「西南戦争(西南の役)」の始まりである。

戦いは苛烈を極めた。薩軍は政府軍の守る熊本城を攻めるが名城は落ちず、激戦となった「田原坂の戦い」でも敗戦を強いられ、政府軍の近代兵器の前に薩軍は劣勢、退却を余儀なくされる。数ヶ月続いた戦闘も最終局面を迎えた8月、日向の長井村(現在の宮崎県東臼杵郡北川町)で西郷は軍を解散、残った兵と共に鹿児島へ戻る。鹿児島に戻った薩軍は城山に陣を張り、その周囲を政府軍が取り囲んだ。

そして9月24日、政府軍の総攻撃が開始される中、西郷が籠もっていた洞窟前に薩軍の将氏40名余が整列、そして薩軍340余名は岩崎口へと突撃する。薩軍の兵士たちは次々に政府軍の銃弾に倒れ、西郷自身も2発を被弾する。洞窟から600mほど進んだところで西郷も覚悟を決める。「晋どん、もうここらでよか」と、同行していた別府晋介に言うと、襟を正して東を向いて座り、深く遙拝したという。別府晋介の介錯の刃が振り下ろされ、別府もまた自刃に果てた。西郷隆盛、満49歳の波乱に満ちた生涯だった。

政府軍総司令の山県有朋中将は「まことの天下の豪傑」と西郷を評し、このような事態に至った時代の流れを惜しんだ。西南戦争に於ける戦死者は政府軍6,400余名、薩軍は6,800余名を数える。鹿児島市街北部の祇園之洲には政府軍将校1270余人が葬られ、今は公園の一角に「西南戦争官軍戦没者慰霊塔」が建っている。西郷をはじめとする薩軍将兵2023名が、今は南洲墓地に眠る。1879年(明治12年)に設けられた参拝所は、1922年(1922年)に南洲神社となって西郷を祀っている。南洲墓地は小高い丘にある。丘の端から桜島がよく見える。
西郷隆盛洞窟
西南戦争末期、薩摩軍は城山に陣取り、最後の決戦を迎える。その際、西郷隆盛は崖下の洞窟で五日間を過ごしたという。その洞窟が今も「西郷隆盛洞窟」として残っており、鹿児島市の記念物(史跡)に指定されている。今は観光名所として人気を集め、周遊バスのバス停も設けられ、多くの観光客が立ち寄る。洞窟は柵で囲まれ、もちろん中に立ち入ったりすることはできないが、西南戦争末期の様子を想像するのはそれほど難しいことではない。洞窟を目の当たりにすると、意外に小さくも感じる。この洞窟に籠もって西郷は何を思っただろう。それもすでに歴史のひとこまになってしまった。
西郷隆盛洞窟
西郷隆盛洞窟
西郷隆盛終焉の地
「西郷隆盛洞窟」から東へ坂を下って600mほどのところに、西郷が自刃した場所が「西郷隆盛終焉の地」として残されている。これも鹿児島市の記念物(史跡)である。鹿児島本線の線路脇、住宅街の一角にひっそりと場所を設け、碑が建てられている。こちらは周遊バスのコース上に位置していないからか、訪ねる観光客の姿は少ないようだ。
西郷隆盛終焉の地
南洲公園
「西郷隆盛終焉の地」から北東の方角へ700mほど辿ったところに南洲公園が設けられている。「南洲」とは西郷隆盛の別名で、地元では敬意を込めて「南洲翁」と呼ぶ。西郷は生涯で頻繁に名を変えており、「隆盛」や「吉之助」などは広く知られている。「南洲」は、いわば西郷の号である。その「南洲」を名に冠した公園が南洲公園である。

園内には墓所が設けられ、西郷をはじめ、西南戦争に散った薩軍将兵2023名が眠る。南洲墓地もまた鹿児島市指定史跡である。墓所の横手には西郷を祀った南洲神社が鎮座し、時折参拝の人の姿がある。

園内の一角には西郷の生涯を紹介し、その業績を顕彰する「西郷南洲顕彰館」が建っている。1977年(昭和52年)、西郷没後百年を記念し、募金によって建てられたものという。訪れた時にはぜひ入館して見学しておきたい。

南洲公園は小高い丘の立地だ。墓所の東側に設けられた広場からは東に視界が開けて桜島の姿がよく見える。ベンチに腰を下ろし、のんびりと桜島を眺めながら、ひととき西郷の波乱に満ちた生涯に思いを馳せたい。
南洲公園
南洲公園
南洲公園
参考情報
交通
「西郷隆盛洞窟」や「西郷隆盛終焉の地」、「南洲公園」などを巡るには市営の「カゴシマシティビュー」や民営の「まち巡りバス」などの周遊バスを利用するのが便利だ。「西郷隆盛洞窟」は「西郷洞窟前」、「西郷隆盛終焉の地」は「薩摩義士碑前」、「南洲公園」は「南洲公園入口」や「西郷南洲顕彰館前」のバス停が近い。運行時刻などに応じて使い分けるといい。「カゴシマシティビュー」はコースによって経由するバス停が異なるので注意されたい。

「西郷隆盛洞窟」から「西郷隆盛終焉の地」までは600mほど、「西郷隆盛終焉の地」から「南洲公園」へも700mほどで、充分に徒歩で回れる。

「西郷隆盛洞窟」と「南洲公園」には駐車場があるが、「西郷隆盛終焉の地」には無い。徒歩で訪ねるのをお勧めする。

飲食
周辺には飲食店が少ない。食事は繁華街へ移動してお店を探した方がいい。

周辺
「西郷隆盛洞窟」や「西郷隆盛終焉の地」からは鶴丸城跡などが近い。併せて散策を楽しむのがお勧めだ。城山展望台も近いが、坂道を登らなくてはならないから、周遊バスを利用することをお勧めする。

周遊バスや鹿児島市電をうまく利用すれば、鶴丸城趾や照国神社、さらに石橋記念公園仙巌園といった観光名所に便利に回れる。桜島フェリーを利用すれば桜島へも気軽に渡ることができる。
町散歩
鹿児島散歩