鹿児島県鹿児島市の中心市街の北部に「石橋記念公園」という公園がある。甲突川に架かっていた五つの石橋のうちの三橋を移築復元して保存している公園だ。残暑の厳しい八月中旬、石橋記念公園を訪ねた。
石橋記念公園
鹿児島市の中心部には市街地を貫いて甲突川という川が流れている。甲突川には、かつて五つの石橋が架かっていた。上流側から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋。どの橋もアーチの美しい石橋で、「甲突川の五石橋」として知られていたものだ。これらの五石橋は江戸時代末期、調所広郷(ずしょひろさと)を家老に登用して行った財政改革が成功したことから、城下整備の一環として肥後(現在の熊本県)の名石工岩永三五郎を招いて築造したものだったという。
石橋記念公園
石橋記念公園
石橋記念公園
1993年(平成5年)8月6日、鹿児島市を集中豪雨が襲った。鹿児島市では8月5日午後12時から7日午後6時までの間に259ミリという豪雨となり、特に6日午後5時から7時までの2時間で109ミリを記録した。この豪雨により、鹿児島市内では甲突川、新川、稲荷川が氾濫、市街中心部は広範囲で浸水、市電も運休を余儀なくされている。市街地北部の竜ヶ水地区では大規模な土石流が発生、住民や列車の乗客など、約3000名が孤立、漁船やフェリー、巡視船などによる海からの救出活動が行われた。いわゆる「8.6豪雨(8.6水害)」である。

この「8.6豪雨」により、甲突川に架かっていた石橋のうち、新上橋と武之橋が流失した。水害からの復旧の際、甲突川の河川改修工事に合わせて残った三つの石橋を移設、貴重な文化遺産として後世に残すために保存することになった。その移設地に選ばれたのが稲荷川の河口周辺、すなわち現在の石橋記念公園である。そもそもこの辺りには島津氏の分家下屋敷などがあり、岩永三五郎が最初に架けた多連アーチの石橋「永安橋」があったことから、ゆかりの深い土地として選ばれたものらしい。

移設復元工事は西田橋を鹿児島県が、玉江橋と高麗橋は鹿児島市が担い、1994年(平成6年)から1999年(平成11年)にかけて解体、復元の作業が行われた。移設地となった公園内には石橋関連の資料を展示する記念館も併設された。そうして三つの石橋を保存、展示するための施設として石橋記念公園が誕生した。開園は2000年(平成12年)のことだったという。
石橋記念公園
石橋記念公園
石橋記念公園は稲荷川河口部の南側に西田橋を保存したエリアが設けられ、北側に高麗橋と玉江橋の二つを保存するエリアが設けられ、両者が稲荷川を跨ぐ連絡橋によって繋がれている。移設復元工事の担当の違いからか、西田橋を保存するエリアは県立の石橋記念公園、高麗橋と玉江橋を保存するエリアは市立の祇園之洲公園となっているようだが、その両者を合わせて「石橋記念公園」として成立していると考えてよいのだろう。西田橋を保存した石橋記念公園側には西田橋袂に建っていたという御門や石橋記念館なども併設され、祇園之洲公園側には二つの石橋の他、西南戦争官軍戦没者慰霊塔、岩永三五郎像、薩英戦争砲台跡などもあり、石橋そのもの以外にも見所が多い。ちなみに、「祇園之洲(ぎおんのす)」という地名は稲荷川河口部に建つ祇園社(八坂神社)に由来している。
石橋記念公園
石橋記念公園
鹿児島の文化遺産を展示する施設として、石橋記念公園は鹿児島の観光名所のひとつに名を連ねている。保存された石橋の姿に、かつて甲突川に架かっていた頃の風景、さらには江戸時代末期の架橋当時の様子を思い浮かべてみるのも楽しい。園内から東を見れば桜島の頂上部分の姿も見えて、石橋と桜島との取り合わせもフォトジェニックだ。公園は市民の憩いの場としての役割も充分に担い、特に西田橋の下は川を模したせせらぎが造られており、夏には水遊びの子どもたちの歓声が響く。観光に訪れた立場でも、そんな光景には心和む思いがする。
石橋記念公園
西田橋
西田橋は石橋記念公園に保存された石橋のメインとなるものだ。西田橋はかつての参勤交代の道筋に当たり、鹿児島城下への玄関口としての役割を担っていた。左岸側には御門が設けられ、通行する者は御門脇の番所で改めを受けていたという。元々は木造の橋だったが、1846年(弘化3年)に甲突川の改修に伴って石橋に架け替えられたもので、五石橋の中では失われた新上橋に次いで二番目の架橋になる。西田橋は岩永三五郎が手がけた石橋の中でも傑作と評されるもので、彼の代表作とされる。

橋長約50m、幅員は約6m、美しい4連アーチの西田橋は堂々とした佇まいだ。精緻な石組みの石橋は細部までさまざまな工夫が凝らされ、丸柱の高欄を施し、木橋時代の青銅擬宝珠がそのまま使われるなど、城下の玄関口を担う橋に相応しい、藩の威光を顕した意匠に仕上げられている。他の石橋に比して3倍ほどの建設費がかけられたという。

架橋から150年間、西田橋は現役の橋として使われてきた。もちろん時代の変化と共にいくつかの改変を受けてきたわけだが、石橋記念公園への移設に際して創建時の姿が復元されているという。

現在、石橋記念公園に保存される西田橋は、単なる展示物ではなく、その上を歩いて見学することができる。木橋時代の意匠を踏襲したらしい精巧な丸柱の高欄や、橋面の敷石の石組みなどを丹念に見学できるのが嬉しい。
石橋記念公園/西田橋
石橋記念公園/西田橋
石橋記念公園/西田橋
橋の下は甲突川を模して水の流れが造られている。この流れは夏には子どもたちの水遊び場として解放され、歓声が響いている。その流れの中、川床にも保護のために施されていた敷石が復元されている。その流れの岸辺から見上げる西田橋の姿は圧倒的な存在感だ。その巧みな石組みに当時の石工の技術の高さを実感する。

西田橋の西側、石橋記念会館脇から眺めると、西田橋の向こうに桜島の頂上部分が見える。美しい石橋と桜島との取り合わせが何ともフォトジェニックだ。訪れたときには、ぜひこの眺めも楽しんでおきたい。
石橋記念公園/西田橋
石橋記念公園/西田橋
西田橋御門
西田橋の袂、左岸側にはかつて御門が設けられ、通行する人々の改めを行っていたという。この西田橋御門は西南戦争で焼失したらしく、残っていなかったが、西田橋の移設工事の際に礎石の一部が発見されたという。現在、石橋記念公園内に建つ西田橋御門は、発掘調査の結果や残されていた写真などから、往時の西田橋との位置関係を保って復元されたものという。
石橋記念公園/西田橋御門
復元されたものとは言え、その姿はかつての様子を想像するには充分なものだ。今は穏やかな公園の中に建つ御門だが、当時は城下への玄関口としてさまざまな人々の往来があったのだろう。そんな光景を思い浮かべながら、西田橋を渡って御門をくぐり、鹿児島の城下へ向かう旅人の気分を味わってみるのも一興かもしれない。
石橋記念公園/西田橋御門
石橋記念公園/西田橋御門
石橋記念館
西田橋の西側、公園隅には石橋記念館が設けられている。公園と共に開設された施設で、内容は容易に推測できるが、石橋関連の各種資料が展示されている。館内は二階建て、一階フロアは常設展示室として石橋の架橋に関する資料が、ガイダンスフロアとされた二階フロアには五石橋の概要や移設地の歴史などについての資料が展示されている。
石橋記念公園/石橋記念館
石橋に関するさまざまな資料は興味深く、一階フロアに展示された石橋の架橋時の様子を表現したジオラマなどは特に見応えがある。当時の石橋の架橋技術についての解説もあり、訪れたときにはぜひ入館して見学しておきたい。
石橋記念公園/石橋記念館
高麗橋
高麗橋は「甲突川五石橋」の中では西田橋の翌年、三番目に架けられたもので、五石橋の中で二番目に長い。橋長約55m、幅員約5.4m、これも4連アーチの美しい石橋だ。上流側の水切り石が垂直に近い角度で立ち上がっているのが特徴という。
石橋記念公園/高麗橋
架橋は1847年(弘化4年)だが、1909年(明治42年)に橋面勾配の改修、1921年(大正10年)頃に水道管の添架が行われ、戦後にも改修が行われた。改修時の記録が残っていなかったために架橋時の姿を特定することが困難で、長年市民に親しまれてきた明治末期から大正初期にかけての姿に復元されているという。
石橋記念公園/高麗橋
高麗橋も上を渡ることができ、下に降りて間近に見上げて見学することができる。特徴的な水切り石の形状などをしっかり見学しておきたい。石組みの隙間には草が生えたりもしているが、それも良い風情だ。
石橋記念公園/高麗橋
玉江橋
玉江橋は祇園之洲公園と東側の祇園之洲町とを隔てる水路を跨いで設置されている。玉江橋は1849年(嘉永2年)の架橋で、五石橋の中では最後に架けられたものだ。玉江橋も4連アーチ、橋長は51mほどだが、幅員は約4mと、他の石橋に比べて規模が小さい。

玉江橋は城下から離れた甲突川上流部に設けられていたが、伊敷不動堂(梅ヶ渕不動堂)へのお参りの人たちの利便のために架けられたものともいう。そのためか、建設費も少なく、あくまで実用の橋として造られたものだったらしい。玉江橋も幾度かの改修を経ているが、そのほとんどが1960年代前半(昭和30年代後半)に集中し、それまでは架橋時の姿をそのままにとどめていたという。移設の際に写真や周辺部分などから推定し、創建時の姿に復元されたという。
石橋記念公園/玉江橋
石橋記念公園/玉江橋
玉江橋ももちろん実際に渡ることができ、その素朴な姿を間近に見学することができる。橋下は“本当の”川(水路)であるため、橋の下から見上げることは難しいが、橋の袂に降りてゆくことのできる場所が設けられているから、そこから水切り石の形状などを見学するといい。

玉江橋は、公園内に保存された石橋の中では唯一、“本当の”川(水路)を跨ぐ石橋だ。石橋脇からはその姿を見ることができ、その景観に往時の姿を想像するのも楽しい。玉江橋の少し南側には川(水路)を跨いで人道橋が設置されており、そこからは玉江橋を真横から見ることができる。その景観もぜひ楽しんでおきたい。
石橋記念公園/玉江橋
石橋記念公園/玉江橋
岩永三五郎像
祇園之洲公園の高麗橋の傍らに、「甲突川五石橋」を造った石工、岩永三五郎の像が建っている。像の横には「岩永三五郎顕彰の由来」と題した石碑が建てられており、岩永三五郎についての簡単な解説が記されている。岩永三五郎幸安は1793年(寛政5年)、現在の熊本県八代市に生まれた。「性質淡薄寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし」と評された、名工だったそうだ。単に石橋架橋技術に秀でた名石工というだけでなく、土木技術全般に優れた人物だったことが窺える。

その評判は薩摩にも聞こえ、1840年(天保11年)、当時の薩摩藩家老調所広郷に一族共々招かれ、薩摩の土木事業を任された。岩永三五郎が手がけた事業は石橋の架橋のみならず、各地の新田開発、水道や道路の敷設、河川の改修、鹿児島本港の護岸工事など多岐に及んだ。石橋の築造には特に手腕を発揮し、三五郎とその一族は九州各地に200近い石橋を架けた。中でも三五郎の甥丈八は、後に明治政府に招かれ、皇居の二重橋等を架橋したという。およそ10年間、薩摩に滞在し、薩摩の土木事業に多大な貢献を果たした三五郎だったが、1849年(嘉永2年)に薩摩を去り、1851年(嘉永4年)、八代で59年の生涯を終えたという。
石橋記念公園/岩永三五郎像
祇園之洲砲台跡
現在、石橋記念公園のある稲荷川河口部の辺りは、かつては祇園浜と呼ばれる干潟だったらしい。それを調所広郷が埋め立て、兵士の屯集所とした。その後、島津斉彬が砲台を設置した。その砲台が実戦に使われたのが、1863年(文久3年)に起きた薩英戦争である。

1862年(文久2年)に起きた生麦事件の犯人の処罰と補償を求めて鹿児島湾に入った英国艦隊と、それを拒否してあくまで攘夷に動く薩摩との間に起きた戦闘が、世に言う「薩英戦争」である。この戦闘による死傷者は英国側63名、薩摩側13名だったという。人的被害は英国側の方が大きかったが、英国側の砲撃によって薩摩の城下には甚大な被害があった。祇園之洲の砲台も英国側のアームストロング砲によって破壊されてしまったという。戦闘開始から三日後、弾薬や燃料が消耗し、人的被害も大きかった英国艦隊はやむなく横浜へ引き返すことになる。結局、薩摩側は西洋諸国との武力の差を思い知らされることになり、一方、英国側も武力によって日本を屈服させることは不可能との判断に至り、その後、薩摩と英国は互いを認めて急速に友好を深めてゆくのである。この辺りの経緯は、まさに歴史の面白みというものかもしれない。
石橋記念公園/祇園之洲砲台跡
西南戦争官軍戦没者慰霊塔
1876年(明治9年)、九州各地で不平士族による反乱が続発する。熊本で「神風連の乱」、福岡では「秋月の乱」が相次いで発生、それに呼応して山口では「萩の乱」が起きる。1873年(明治6年)に政府を退き、薩摩で私学を興していた西郷隆盛は、当初それらの反乱を静観していたが、政府よる“弾薬略奪”、さらに政府密偵による西郷暗殺の噂などが重なって鹿児島士族の政府への不満は高まってゆく。やがて1877年(明治10年)、西郷は私学の士族たちに推される形で決起、薩摩軍と政府軍との間での戦いが始まる。これが西南戦争(西南の役)である。

西南戦争は7ヶ月間に及び、政府軍、薩摩軍共に戦死者は6000人を超え、両軍合わせて13240余人を数える。西郷も城山の地で波乱に満ちた生涯を終えている。西南戦争の戦死者のうち、政府軍将校1270余人が、この祇園之洲に葬られた。かつては墓石が整然と並んでいたそうだが、やがて荒廃、1955年(昭和30年)に地下納骨堂に合葬され、西南戦争100年の際に慰霊塔が建てられた。これが現在の祇園之洲公園内に建つ西南戦争官軍戦没者慰霊塔である。桜島を背負って建つ慰霊塔の姿に、かつて日本が経験した“産みの苦しみ”とも言える戦いについて思いを馳せたい。
石橋記念公園/西南戦争官軍戦没者慰霊塔
石橋記念公園
石橋記念公園
石橋記念公園での最もメインとなる見所は、やはり西田橋だろう。精緻に組まれた石組み、威風堂々とした意匠など、石橋というものに詳しくない身であってもその見事さを実感できる。西田橋から高麗橋、玉江橋へと見学の歩を進めた後は、再び西田橋を見学することをお勧めする。高麗橋と玉江橋を見学した後に西田橋を見ると、西田橋がいかに技術と費用と時間をかけて造られたかがわかる。

そしてまた、石橋記念公園は祇園之洲という土地の歴史にも面白みがある。三つの石橋を見学した後は祇園之洲公園の園内をゆっくりと巡り、祇園之洲砲台跡や西南戦争官軍戦没者慰霊塔などを見学し、幕末から明治初期にかけて薩摩が辿った歴史のひとこまにも触れておきたい。

観光地としては地味な印象もあるが、鹿児島をより深く知りたい人にはぜひ訪ねてみて欲しい施設である。
石橋記念公園
参考情報
石橋記念公園は公園、記念館ともに入園料、入館料は必要ない。自由に入園、入館して見学することができる。公園は通年の開園だが、記念館は休館日と開館時間が定められている。詳細は公式サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通
石橋記念公園へ訪れるにはカゴシマシティビューと呼ばれる周遊バスの「ウォーターフロントコース」を利用するのが便利だ。仙巌園へ向かう往路には「石橋記念公園前」バス停があり、仙巌園から鹿児島中央駅へ戻る復路では「祇園之洲公園前」バス停がある。

JR鹿児島本線・日豊本線の鹿児島駅や鹿児島市電の鹿児島駅前電停から歩いても1kmほどの距離だ。

石橋記念公園には無料駐車場が用意されており、車での来園も可能だ。常設駐車場が20台分ほど、臨時駐車場を含めると100台分ほどの駐車スペースがあるようだが、石橋記念館の休館日には臨時駐車場部分は解放されないようだ。

駐車場入口は公園東側を通る国道10号、いわゆる鹿児島北バイパス沿いにある。鹿児島市街地からは小川町の北東端、桜島フェリー航送車両入口の交差点から北上しなくてはならない。仙巌園方面から南下する場合は、「仙巌園前」交差点で左手(海岸側)へ逸れ、「祇園之洲西口」交差点で左折、祇園之洲町を抜けて祇園之洲大橋を渡れば右手に駐車場入口がある。

飲食
公園内には飲食店や売店はない。公園近くの国道10号(鹿児島北バイパス)沿いにハンバーガーショップやカレー屋などがあるが、他にはあまりない。飲食店を探すなら鹿児島市街中心部へ戻るのが賢明だろう。

予めお弁当やサンドイッチなどを用意して訪れ、公園でランチタイムを過ごすのも悪くない。

周辺
祇園之洲公園北側の丘には多賀山公園がある。園内には東郷平八郎の銅像が立っている。

海岸沿いの道を北上すれば2kmほどで磯海水浴場、浜辺越しに見る桜島の姿が美しい。磯海水浴場の北側には仙巌園がある。徒歩では30分以上かかってしまうが、錦江湾の眺めを楽しみながらのんびりと歩いてみるのも一興かもしれない。カゴシマシティビューの「ウォーターフロントコース」を利用すれば石橋記念公園から仙巌園まですぐだ。

カゴシマシティビューや鹿児島市電などを利用すれば鹿児島市街地中心部に戻って点在する観光名所を巡るにも便利だ。鶴丸城趾や照国神社、城山なども訪ねてみたい。桜島フェリーを使えば桜島へも気軽に渡れる。
公園散歩
鹿児島散歩