佳景探訪
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
鹿児島市街地の北部に旧鹿児島紡績所技師館の建物が残されている。幕末、洋式紡績工場の指導のために招かれた英国人技師の宿舎として建てられたものだ。八月半ば、旧鹿児島紡績所技師館を訪ねた。



旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
幕末、島津家第二十八代当主、第十一代薩摩藩藩主島津齊彬は、軍備と工業の近代化を掲げ、城下北部の海岸、磯地区に「集成館」と呼ばれる工場群を建設する。1865年(慶応元年)、島津家第二十九代当主、第十二代薩摩藩藩主島津忠義は新納久修や五代友厚らを15名の留学生と共に英国へ派遣する。英国人グラバーの手引きによって、幕府による海外渡航の禁を破っての出国だった。五代は英国をはじめ欧州各地を視察、紡績機械の購入などに奔走した。翌1866年(慶応2年)、新納、五代らが帰国、その年の内にイー・ホームら4名の英国人技師が到着し紡績工場の建設が始まり、その翌年初頭にはジョン・テットロウらが紡績機械と共に薩摩に到着、5月には日本で最初の近代的紡績工場が誕生、操業を開始した。

工場の横手には紡績工場の建設と操業の指導のために招かれた英国人技師たちの宿舎が建てられた。それが現在の「旧鹿児島紡績所技師館」、通称「異人館」として知られる建物だ。薩摩藩は英国人技師たちを厚遇したという。薩英戦争(1863年)からまだ日が浅く、英国人技師たちには工場内外で護衛が付けられていたそうだ。しかし時代は幕末、日本の政情は混乱していた。それを不安視した英国人技師たちは3年の契約期間の終了を待たず、1868年(明治元年)に帰国してしまったという。

時代が明治を迎え、1871年(明治4年)の廃藩置県後に紡績所は商社に改組、翌年には県庁の監督下に置かれた。1877年(明治10年)には西南戦争のために操業中止、1882年(明治15年)に島津家直営となったが、1897年(明治30年)、金本位制導入によって大きな損害を受け、同年に島津忠義も亡くなり、紡績所は閉鎖されたという。

英国人技師たちの宿舎として建てられた建物は英国人技師たちが帰国した後、大砲製造支配所として使われ、西南戦争では薩摩軍負傷兵の仮病院としても使用されたという。1882年(明治15年)、鶴丸城本丸跡(鶴丸城本丸は西南戦争の際に焼失した)に移築、鹿児島県立中学造士館(後の七高造士館)の教官室として使用されていたが、1936年(昭和11年)、七高造士館の本館が完成したのに伴って現在地に戻され、市の管理下に置かれた。戦後は米軍に接収されて宿舎として使用された後、1951年(昭和26年)に返還されている。

1959年(昭和34年)には「鹿児島紡績所技師館(異人館)」として国指定史跡になったが、2010年(平成22年)に行われた隣接地の発掘調査で紡績所本体の基礎部分の遺構が確認されたことにより、2013年(平成25年)、名称が「鹿児島紡績所跡」に変更され、史跡の範囲も拡張されている。また旧鹿児島紡績所技師館の建物は「旧鹿児島紡績所技師館」の名称で1962年(昭和37年)に国の重要文化財(建造物)の指定を受けている。さらに2015年(平成27年)7月に世界文化遺産として正式登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産である「旧集成館」にも含まれている。

鹿児島紡績所技師館(異人館)の建物は木造二階建て、建築面積は約343平方メートル、延床面積は約686平方メートル、高さは14.4メートル、周囲にベランダを巡らせたコロニアルスタイルに方形造りの瓦葺き屋根を載せている。外国人建築家による設計と考えられるが、小屋組が和小屋で、柱間の寸法に寸尺が用いられており、実際の建築は日本の技術者が当たったのだろうという。建てられた当初は白色に塗られていたそうだが、現在は造士館教官室時代の外観が再現されている。英国人技師の宿舎だった頃には裏手に台所や浴場、馬小屋などが別棟として付属していたという。幕末から明治初期にかけて洋風建築が日本に持ち込まれ、各地にこうした洋風建築物が建てられたが、その中で最古のものだという。

建物正面には八角形を半分にした形状の玄関ポーチがあり、そこから真っ直ぐに中廊下が抜ける。中廊下中央右手に階段が設けられ、二階へと通じている。中廊下と階段室を挟んで一階には4室、二階には3室が設けられている。二階の広い部屋は間仕切りを施した跡があり、寝室として使っていたのだろうという。造士館教官室として使われた経緯もあって、室内に英国人技師宿舎時代の面影を探すのは難しいと言わざるを得ない。契約書によれば英国人技師たちは本国の家具を持ち込んでいただろうということだが、もちろんそれらも残存せず、今は当時の様式の家具類を使って英国人技師宿舎時代の様子が再現されている。館内の各部屋は、今は資料展示室として使用され、鹿児島紡績所技師館に関するものを中心に当時の関連資料が展示されている。展示された資料を丹念に見てゆけば興味は尽きない。

もちろん建物自体も見応え充分だ。造士館教官室として使われた際に各部に改修を受けているが、それでも幕末に建てられた貴重な洋風建築であることに変わりはない。建築に詳しくない身ではなかなか理解の及ばないところもあるが、各部のデザインや細かな造作など、じっくりと見学してゆくと時間を忘れる。この建物を、外国人建築家の設計とは言え、日本の技術者が建てたのだろうか。“日本の技術者”とは、すなわち“大工”だろう。幕末から明治初期にかけて、日本人の大工が外国人建築家の設計に従って、あるいは見よう見まねで、こうした洋風建築を手がけた例は他にもあるが、そうしたものを目にする度に当時の日本の職人の技術力の高さを思わずにはいられない。

幕末に建てられた貴重な洋風建築物として、鹿児島紡績所技師館(異人館)はぜひ見ておきたいものだ。鹿児島を訪れたときには、仙巌園や尚古集成館と共に、まさに「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして、ぜひ見学しておきたい。幕末から明治期にかけての歴史や、当時の建築物に興味のある人なら見逃せない施設だと言っていい。

今は歴史の遺構として展示保存される施設だが、この洋館に、かつて遙々海を越えてやってきた英国人技師たちが暮らした。当時はまだ近代工業が芽生えておらず、奇妙な髪型をしたサムライが刀を腰に差して歩いていた遠い極東の島国へ、紡績工場を造るためにやってきた英国人技師たち、その胸中はどんなものだったのだろうか。館内を巡りながら、ふとそんなことを思ってみる。
参考情報
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)は、当然のことながら入館見学には入館料が必要だ。館内はもちろん禁煙、飲食も禁止だ。入館料や開館日、開館時間等については鹿児島市の公式サイトなど(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

館内の写真撮影については、今回、「展示資料の撮影は遠慮してほしいが建物自体の撮影は構わない」との許可をいただいている。館内で撮影を行いたい場合は係の方に確認し、許可を取られたい。

交通

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)は鹿児島中央駅から数キロ離れている。周遊バス(市営の「カゴシマシティビュー」、民営の「まち巡りバス」が運行している)を利用して仙巌園まで行き、そこから徒歩で向かうのが便利だ。周遊バスは鹿児島中央駅を起点に市内の観光名所を巡りながら仙巌園との間を往復しているので、それぞれの観光地からのアクセスも容易だ。

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)横に来館者用の駐車場が用意されているが、6台分と少ない。車での来訪は避けた方が賢明だ。

飲食

近くにファミリーレストランが建っているが、他には飲食店はほとんどない。仙巌園の園内には飲食店がいくつかあるから、仙巌園に入園し、仙巌園内の飲食店で薩摩の郷土料理を楽しむのも一案だ。

周辺

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)から東へ、徒歩数分で仙巌園だ。仙巌園園内や尚古集成館などを併せて見学しておきたい。

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)から海岸へと出れば磯海水浴場だ。陽気の良い季節なら浜辺の散策を楽しむのも一興だろう。

仙巌園前から周遊バスを利用すれば鹿児島市街地中心部へもアクセスしやすい。石橋記念公園鶴丸城趾、城山、西郷隆盛像、照国神社天文館、「いおワールドかごしま水族館」など、市街地に点在する観光名所を巡るのも周遊バスが便利だ。水族館前のバス停で周遊バスを降りれば鹿児島港桜島フェリーターミナルが近い。桜島フェリーを利用すれば桜島にも気軽に足を延ばすことができる。
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

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