幻想音楽夜話
Circus Town / 山下達郎
1.Circus Town
2.Windy Lady
3.Minnie
4.永遠に
5.Last Step
6.City Way
7.迷い込んだ街と
8.夏の陽

[New York Side (1-4)]
Produced & Arranged by Charles Calello

[Los Angels Side (5-8)]
Produced by Jimmy Seiter & John Seiter
Arranged by 山下達郎 & Jerry Yester

1976 RCA
Thoughts on this music(この音楽について思うこと)

 山下達郎というシンガーのことを、いつ、どのように知ったのか、もうさっぱり憶えていない。シュガー・ベイブという名のバンドが東京近郊で話題になっているというニュースを耳にしたのはいつのことだったろう。シュガー・ベイブのアルバム「Songs」が発売されたのが1975年のことだから、その少し前くらいの頃にはその存在を音楽雑誌やラジオ番組の情報コーナーなどで知ったのに違いない。

 当時、日本の音楽シーンはいわゆる「歌謡曲」が中心で、テレビの音楽番組で目にする演歌の歌手やアイドル歌手たちがその主役だった。「歌謡曲」が好きではない若い人たちは「フォーク」を支持した。日本の「ロック」はようやく芽吹こうとしていた時代だった。そもそも日本のポピュラー・ミュージックに満足できない人たちは「洋楽」を好んだ。シュガー・ベイブは「フォーク」でもなく「ロック」でもなく、もちろん「歌謡曲」でもなく、軽やかで都会的な洒脱なポップ・ミュージックを聞かせるグループだった。当時の日本の音楽シーンでは異色とも言える存在だった。当時の日本の音楽シーンには彼らが受け入れられる状況はまだ無かったといっていい。荒井由実や南佳孝といったアーティストがデビューし、「ニュー・ミュージック」と呼ばれる新しいスタイルが台頭し、いわゆる「ポップス」のスタイルの音楽がようやく日本のシーンにも根ざそうとしていた頃のことだ。後々になって、シュガー・ベイブに対して「早すぎた」という形容が盛んに用いられるようになるのだが、まさにシュガー・ベイブと山下達郎の才能は早すぎる開花だったのかもしれない。

 けっきょくシュガー・ベイブは一枚のアルバムだけを残して解散してしまうが、山下達郎はソロ・アーティストとして活動する道を選び、そのソロ・デビュー・アルバム「サーカス・タウン」が発表されるのが、1976年10月のことだ。これもやはり少しばかり早すぎた作品であったかもしれない。一部のファンには支持されながらも、彼の名が広く知られることはなかった。山下達郎の名が一般の音楽ファンの間にも知られるようになるのは、1980年、「Ride On Time」の大ヒットを待たなくてはならない。

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 シュガー・ベイブ解散の後に、山下達郎がソロ・デビューし、そのデビュー・アルバムである「サーカス・タウン」が発表されたことを、どのように知ったのか、これも今となってはよく憶えてはいない。しかし、この「サーカス・タウン」というアルバムを、わけもなく「これを聴かなくてはいけない」と感じたことを不思議に憶えている。FMなどで耳にして、その途端にすっかり気に入ってしまった、というのではない。そういうのとは少し違って、やがて自分はこの音楽作品をすっかり気に入ってしまうに違いない、という不思議な予感のようなものがあった。

 それまで、このような音楽をあまり積極的に聴いてこなかった。それまではロック・ミュージック、特に英国の「ハード・ロック」や「プログレッシヴ・ロック」をこよなく好み、そうした音楽を基準にして自分の音楽的嗜好は広がっていたから、正直なところを言えばシュガー・ベイブにも、山下達郎というシンガーにも、それほどの興味を持っていたわけではなかったのだ。しかし今にして思えば、「日本のポップス」というものに対して、個人的にこの頃とても敏感になっていたのではないかという気もするのだ。

 当時(もちろん今でも)、荒井由実が大好きだった。荒井由実は1973年にデビュー・アルバム「ひこうき雲」を発表、翌1974年にはセカンドの「MISSLIM」、その翌年には三作目となる「COBALT HOUR」を発表している。ファースト・アルバムとセカンド・アルバムは少々内省的なシンガー/ソング・ライター風の佇まいだったのだが、「COBALT HOUR」では一気に「和製ポップス」の世界が繰り広げられていた。「MISSLIM」の音楽世界に惹かれていた立場としては「COBALT HOUR」の印象には少しばかりの戸惑いもあったが、「ついに日本にもこのような音楽が生まれたのか」という感慨があった。そしてその路線で四作目となる「THE 14th MOON」が発表されるのが、1976年の11月だ。都会的でお洒落で軽やかな、その音楽に夢中になった。その味わいはそれまでの「歌謡曲」にも「フォーク」にもなかったものだった。山下達郎のソロ・アルバム「サーカス・タウン」にも、同じ魅力を求めた気がする。

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 「サーカス・タウン」を発売と同時に買った、というわけではない気がする。実際にレコードを購入し、自分の手元に置いたのは翌1977年の春あたりだったように思う。初めて全編を聴き通した後に自分がどのような印象を抱いたのか、おぼろげに覚えている。「これは、アメリカン・ポップスのようだ」というものだった。それもそのはずだ。「サーカス・タウン」はアメリカのミュージシャンを起用し、アメリカでレコーディングされたものだったからだ。1曲目の「Circus Town」から4曲目の「永遠に」まではニューヨークで、5曲目の「Last Step」から8曲目までの「夏の陽」まではロサンゼルスで、それぞれレコーディングされたものという。LP時代にはニューヨーク録音の4曲がA面に、ロサンゼルス録音の4曲がB面に収録され、それぞれ「New York Side」、「Los Angels Side」と題されていた。

 当時の日本の音楽シーンで、海外レコーディングというのはとても希な特別なケースだった。それもセールス的には決して成功したとは言えないシュガー・ベイブというバンドの中心メンバーで、当時はほとんど無名とも言えた山下達郎のソロ・デビュー・アルバムがニューヨークとロサンゼルスでレコーディングされるというのは、言い方は悪いが「常識外れ」なことだった。アルバム「サーカス・タウン」の制作に当たっての山下達郎の思いや経緯などは2002年2月にリマスターされて発売されたCDでの山下達郎本人によるライナー・ノーツに詳しいが、自らの敬愛する音楽の本場で、自分の力量を試してみたかったという思いもあったようだ。当初はすべてをニューヨークでレコーディングしたかったらしいが、予算の関係などもあってニューヨークとロサンゼルスでの録音となったらしい。レコーディングは決してすべてが順調とは言えず、失意のときもあったらしいが、結果的には、特にニューヨークでのレコーディングは、山下達郎の自信に繋がった旨のことが前述のライナー・ノーツに書かれている。

 「サーカス・タウン」に収録されたのは全部で8曲、「Windy Lady」、「Minnie」、「夏の陽」の3曲は山下達郎自身による作詞作曲だが、他の楽曲は山下達郎の作曲、吉田美奈子の作詞による。すべての楽曲の歌詞は基本的に日本語で、唄っているのは山下達郎なのだが、それを支える演奏は当然のことながらアメリカン・ポップ・ミュージックそのものだった。当時の日本のポップ・ミュージック・シーンに、これほどのクオリティの高さに匹敵するものはなかった。このアルバムは「日本人によるポップス」とか「和製ポップス」などというものではなく、山下達郎の歌唱と楽曲を素材にして造られたアメリカン・ポップス以外の何物でもない。それにも関わらず、この音楽作品が紛れもない山下達郎の音楽として完成しているところに大きな驚きがあった。

 山下達郎自身にとっては本場のプロデューサーやミュージシャンに委ねてその「胸を借りた」ようなところもあったかもしれない。しかし、当時このアルバムを耳にしたとき、そんなことはどうでもよかった。山下達郎の音楽が、本場のプロデューサーやミュージシャンたちの力を借りて、質の高いアメリカン・ポップスとして完成しているという印象があった。山下達郎の音楽家としての才能が本場のミュージシャンたちと対等に響き合って生まれた音楽だという印象があった。

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 「New York Side」の、その洗練された都会的な印象、手慣れた感じのプロフェッショナルなアレンジと演奏の粋、ドリーミーな雰囲気を湛えつつ知的に抑制されたサウンド・プロデュース、そしてまた「Los Angels Side」に於ける軽やかなウエスト・コースト・サウンドの味わい、午後の街路を思い起こすようなカラリと乾いた印象、そのようなアメリカン・サウンドに、少し湿った感触の山下達郎の歌声が乗る。楽曲そのものも、ミュージシャンたちの演奏も、山下達郎の歌唱も、何ら奇をてらったところのない、シンプルなものだが、しかし聴けば聴くほどに味わいが増し、その奥深さを実感する。「サーカス・タウン」の音楽としての完成度は当時の日本のポピュラー・ミュージック・シーンの水準を遙かに凌駕するものだったと言っていい。あれから30年近くを経た今になって聴く「サーカス・タウン」は、やはり少しばかり古臭さを感じるような気もしないではないが、しかしそれでも、その完成された音楽としての魅力はいささかも衰えていない。

 「サーカス・タウン」という作品は、山下達郎のソロ・デビュー作品ということもあり、そしてまたアメリカ録音ということもあってか、彼の他の作品とは少しばかり違ったスタンスにある作品であるような気もする。セールス的には大成功とは言えなかったようだが、その音楽のクオリティの高さは当時の日本ポップス・シーンに驚嘆とともに迎えられたという。後の日本ポップス・シーンにとっても、そして山下達郎自身にとっても、大きな影響を与えた作品であったに違いない。「名作」であることはもちろんだが、まさに「記念碑」的作品という形容が相応しいかもしれない。

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 個人的にも「サーカス・タウン」はひとつの「記念碑」だ。「サーカス・タウン」というアルバムを購入して初めて聴いてみたときには、実はそれほど衝撃的なものを感じたわけではない。いきなりその音楽に魅せられて夢中になって聴いた、というわけではなかった。しかしなぜか耳に残り、なぜ聴きたくなってしまうのか自分でもわからないままに棚から引っぱり出しては聴いてみるということを繰り返した。そんな憶えがある。何度か聴いているうちに、自分の中で何かが変わってゆく感じがしたものだ。その音楽の魅力がじわりじわりと自分の感性の中に染み入ってゆき、その音楽の魅力が自分の中の音楽的嗜好を少しずつ変えていった気がする。

 今から考えればずいぶんと恥ずかしい話だが、この頃までこうした音楽に対してある種の偏見を持っていた。シンガーの作品というものは歌唱こそがすべてで、ミュージシャンたちの演奏は所詮は「伴奏」でしかないではないか。しかもセッション・ミュージシャンというものは演奏することを生業とし、仕事として演奏する。どれほど素晴らしいテクニックの持ち主であっても、所詮は「仕事」ではないか。そのようなミュージシャンたちによって行われた演奏というものは、どれほど技巧的に優れていても、音楽としてどこか不純で、その演奏自体を楽しむには値しない。そんな偏見があった。そんな偏見を払拭してくれたのが、他ならぬ「サーカス・タウン」だった。今にして思えば、「サーカス・タウン」こそは、それまでの狭く偏った自分の考え方を正し、音楽というものにさらに大きな視野を与えてくれた作品だった気がする。

 1977年の夏、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」と山下達郎の「サーカス・タウン」ばかりを聴いていた気がする。イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」もまた1976年に発表された作品だった。このふたつの音楽は「夏」という季節にとてもよく似合った。1977年の夏、この二枚のアルバムをカセットにダビングし、車の中に持ち込んで何度も何度も繰り返し聴いた。個人的には、「サーカス・タウン」という作品は、1977年の夏の空気を今もその中に封じ込めている。