日南海岸散歩
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日南海岸風景海と緑の風景
飫肥

飫肥
飫肥の町は江戸時代に飫肥藩伊東家五万一千石の城下町として栄えた。飫肥は「おび」と読む。飫肥の地名はかなり古くから存在し、現在の日南市を中心とする地域は平安時代以前には日向国宮崎郡飫肥郷と呼ばれる土地だったという。中世の戦国時代には飫肥と飫肥城は伊東氏と島津氏の争いの舞台となったが、豊臣秀吉によって九州が平定された後は伊東氏の領有するところとなり、以後、明治維新に至るまでの約280年間を伊東家の城下として泰平の世にあった。

飫肥の町が城下町としての形を整えたのは、伊東氏と島津氏の争いも終結した後の江戸初期で、二代目藩主祐慶の代に町割りが行われたという。城下の町は飫肥城の位置する台地の南方、蛇行する酒谷川に抱かれるように広がっている。飫肥城大手門から南へ延びるあたりと東へ延びるあたり、現在大手門通りと横馬場通りと呼ばれる道の周辺に上級、中級の家臣武家の屋敷が並び、現在の本町通が町人町、酒谷川近くの前鶴のあたりは下級家臣の武家屋敷が並んだ。現在でも大手門通りから横馬場通り、前鶴通りの道脇には昔ながらの石垣と武家門などが残り、往時の面影を今に伝えている。

戦後間もなくの頃までは飫肥の町は政治的にも文化の上でも県南の中心と言ってよかったが、1950年(昭和25年)に飫肥、吾田、油津、東郷の各町村が合併して日南市が誕生して後は、行政の中心は吾田地区へと移り、飫肥の町は斜陽の時代を迎えることになった。伊東藩政の名残を残す飫肥の町がその史跡の復元保存、観光資源としての活用などに前向きだったことには、町の斜陽化への危惧もあっただろう。やがて飫肥の町に残る石垣や町並みなどの歴史的価値が認められはじめ、1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選定される。翌1978年(昭和53年)には大手門も復元され、飫肥の町は一丸となって「城下町にふさわしい町並みづくり」へと向かう。

有志による「本町通り町並み研究会」も発足、「家は日本風に統一」、「軒の高さを決める」、「ケバケバしい色は避ける」といった五項目を申し合わせ事項に決め、町並みの景観造りに努力を重ねた。そうしたさまざな地道な活動の甲斐もあって、拡幅された本町通り(国道222号線)も今では城下町らしい落ち着いた佇まいを見せる。電柱の地下埋設、白と黒を基調にした和風の造りの郵便局舎、伊東藩政期を思わせる造りの商店、灯籠風の街灯、和風の意匠のバス停標識など、「町並みづくり」の成果は規模の大きなものから細かなところまで多岐に及び、地元の人々の並々ならぬ努力をうかがい知ることができる。

飫肥の町は今では「九州の小京都」とも呼ばれて多くの観光客を集めるようになった。こぢんまりとした地方の城下町ではあるが、伊東藩政の頃の面影を残した町並みは端正で閑寂な魅力を湛えていて、「九州の小京都」の名に恥じない。周囲を取り巻く山々の緑も美しく、町の風情を楽しみながらの散策は楽しい。
飫肥
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飫肥の町のほぼ中心を南北に抜ける通りが大手門通りで、その北端に大手門が建ち、その北側の台地が飫肥城址だ。飫肥城は1871年(明治4年)の廃藩置県の際に楼閣が取り壊され、長く城跡が残るだけだった。現在では大手門や松尾の丸などが復元建築され、往時の飫肥城の佇まいを思い浮かべることも難しいことではなくなった。城址には歴史資料を展示した飫肥城歴史資料館も建っており、これもぜひ見ておきたい。
飫肥城大手門
大手門の門前左手には豫章館がある。飫肥藩は廃藩置県に伴って飫肥県へと移行したが、この時、初代知事に任ぜられたのが藩主祐帰で、それに伴って飫肥城からこの豫章館に移った。それまでは御三家伊東主水の屋敷であったという。豫章館の名は邸内にあった樹齢数百年という大楠に因んだもので、祐帰の父祐相が名付けたものであるらしい(クスは樟とも書き、「ショウ」と読む。「樟脳」の「ショウ」である)。豫章館の主屋は1868年(明治初年)に建てられたもので、飫肥藩武家屋敷の典型的な形式で、その中でも最高の格式のものなのだという。眺望の開けた立地に建つ屋敷は端正な中にも堂々とした威厳を感じさせて見事だ。愛宕山を借景にしたという広々とした庭園も素晴らしい。

大手門門前を右手東方へと進んだ通りが、武家屋敷通りとして知られる横馬場通りだ。この通り沿いに、かつては高級家臣の武家屋敷が並んでいたという。それぞれの屋敷の広さは900坪ほどもあったというから、伊東藩政時代の景観はさぞ見事なものだったに違いない。この通り沿いには今でも苔むす石垣や風雅な武家門などが並んでおり、その景観は城下町飫肥の象徴と言ってもよいだろう。
武家屋敷通り
横馬場通りの東端にあたる角には、旧伊東伝左衛門家が残る。伊東伝左衛門は幕末に家老職を勤めた人物で、屋敷は1800年代半ばから末期にかけての建築という。かつての屋敷は900坪ほどの広さがあったらしいが、現在はその主屋部分と南側の庭園部分が残っており、無料で見学することができる。道路から玄関へと至る石段やその両脇の石垣、屋敷の佇まいや庭園の様子などは今でも往時の名残を色濃く残し、屋敷の中からひょっこりと伊東家家臣の武士が姿を現しそうな気さえしてくる。
旧伊東伝左衛門家旧伊東伝左衛門家
旧伊東伝左衛門家屋敷から田ノ上八幡神社へと続く道を北へ辿ると左手に振徳堂がある。振徳堂はかつての飫肥藩の藩校で、1831年(天保2年)に13代藩主の伊東祐相によって造られたものだ。もともとは伊東勘解由の屋敷跡に学問所が置かれていた場所らしく、振徳堂はそれを増改築したものという。振徳堂の「振徳」は孟子の「又従而振徳之」という句文からとられたものであるらしい。開校にあたっては清武から安井滄州をはじめ数名の学者を招いて指導にあたらせたという。明治期に桂内閣の外務大臣として日露講和条約の全権大使を務めた小村寿太郎が、この振徳堂に学んだことは広く知られている。明治期に入ってからの振徳堂は小学校や女学校などのさまざまな用途に使用されたが、戦後は使用されずに荒れたままになっていたという。近年になって歴史的価値が再認識され、昭和50頃になって改修が施されて一般公開に至っている。堂々とした長屋門をくぐると、広々とした敷地に振徳堂の主屋の姿が泰然とした様子で建っている。主屋を前にして立っていると、かつてここで学んだ幕末の若者たちの息づかいが感じられるようでもある。
振徳堂
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振徳堂の横から北へ向かうと、丘の上に田ノ上八幡神社がある。田ノ上八幡神社は豊玉姫と応神天皇を祀り、古くからのこの土地の鎮守として信仰を集めている。豊玉姫は彦火火出見命(山幸彦)の妻となった姫で、神武天皇の祖母にあたる。もともとは市内の楠原(くすばる)にあった八幡神社を、初代藩主である伊東祐兵がここへ遷座したものという。

この神社には、股の間をくぐると無病息災で過ごせるという言い伝えの「弥五郎人形」が伝わっている。かなり巨大な人形で、秋の例大祭では小さな(それでもかなり大きい)サイズの「弥五郎さん」が町を練り歩くという。この「田ノ上八幡神社の弥五郎人形行事」は県指定の無形文化財でもある。同じような「弥五郎さん」、あるいは「弥五郎どん」は、他に鹿児島県大隅町の岩川八幡神社と北諸県郡山之口町の円野神社にも伝わっており、それぞれの「弥五郎さん」は兄弟であるそうだ。そもそも「弥五郎さん」とは何者なのか。赤ら顔の大男だったそうで、熊襲の末裔という話もあるようだがはっきりしない。いずれにしても南九州の離れた土地にそれぞれに「弥五郎さん」が伝わっているのは興味深い。

神社へと向かう参道の石段の途中、右手に大きなクスノキがある。市の天然記念物で、樹高30メートル、樹齢は推定で450年ほどという堂々とした巨樹である。初代藩主祐兵が植樹したクスノキであるともいう。
田ノ上八幡神社田ノ上八幡神社の大楠
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飫肥城大手門から南へ大手門通りを下って町中に入ると、やがて「後町通り」と呼ばれる通りとの交差点に至る。この通りは道脇に水路があり、鯉の泳ぐ姿がある。飫肥の町は酒谷川に囲まれた立地のために「水郷」としての性格もあり、この鯉の遊泳する水路はそうした面影を伝えている。この後町通りも石垣などが道脇に並んで閑寂な風情が魅力だ。
後町通り後町通り
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後町通りとの交差点からさらに大手門通りを南下すると、左手(東)に小村寿太郎生誕地があり、それを示す碑が建っている。小村寿太郎は幼少期を振徳堂に学び、ハーバード大学留学などを経て、明治期の外交官として活躍した。1901年(明治34年)に桂内閣の外務大臣に就任、1905年(明治38年)には全権大使としてポーツマスに於ける日露講和条約に調印、1908年(明治41年)には再び外務大臣に任ぜられ、1911年には開国以来の懸案であった不平等条約の改正を成し遂げている。この功績によって小村は侯爵位を授けられ、地元ではいわゆる「郷土の偉人」としてよく知られている。飫肥城大手門近くには小村記念館があり、小村の生い立ちや功績などを紹介している。興味のある人は見学してゆくとよいだろう。
小村寿太郎生誕地
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小村寿太郎生誕地を過ぎると、本町通りへと出る。かつての商人町だったところで、今は拡幅された国道222号線となって飫肥の町のメインストリートとなっている。整然としたバス通りだが、町作りへの努力の甲斐あって城下町らしい落ち着いた表情を見せる。灯籠を思わせるデザインの街灯や意匠を凝らしたバス停標識なども見ていて楽しい。

国道222号を東へ辿ると、道は稲荷下橋で酒谷川を越えて大きく屈曲し、飫肥駅前を過ぎ、もう一度大きく曲がって、後はほぼ真っ直ぐに日南市のほぼ中央を貫くように東に延び、油津で国道220号に達している。西へ迎えば、本町橋で酒谷川を越える。酒谷川を越えたあたりには小村寿太郎の墓所や伊東家累代の墓地がある。国道をそのまま西へ辿ればやがて酒谷に至り、さらに峠を越えて都城へ繋いでいる。

大手門通りと本町通りとの交差点から少しばかり西方に行くと、商家資料館が建っている。白い漆喰の壁が印象的な堂々とした建物だが、もともとは藩政時代に飫肥杉で財をなした豪商の商家であったらしく、国道の拡幅工事の際に当時の所有者から日南市へ寄贈され、商家資料館として再生されたものという。その名が示すように、藩政時代の商用具などを展示し、当時の商家の面影を伝えている。
本町通り商家資料館
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本町通りを横切り、さらに南へ向かうと周囲は閑静な住宅地だ。前鶴通りという名の通りが東西に延び、通り沿いに往時の面影を残した武家門や石垣などが残っている。このあたりまで来るとあまり観光客の姿もなく、閑寂とした空気が鄙びた旅情を湛えている。前鶴地区の南には大きく蛇行する酒谷川が近く、前鶴橋が対岸とを繋いでいる。
前鶴通り前鶴橋から見る酒谷川
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飫肥の町は、地方の小さな城下町に過ぎず、城郭も残っていないためか、宮崎南部という立地にあってかつては「日南海岸」の知名度に比べれば衆目を集めることもなく、半ば歴史の中に埋もれてしまっていた観もあった。近年、町中に残る武家門や石垣などの歴史的価値が再評価され、地元の努力の甲斐もあって「九州の小京都」としての知名度も高くなり、訪れる観光客の姿も多くなった。また2004年9月末から2005年3月末まで放送されたNHK連続テレビ小説「わかば」では、この飫肥も物語の舞台となり、全国的な注目を集めた。

山林に囲まれた小盆地のような飫肥の町はひっそりとした佇まいが美しい。飫肥城址やさまざまな資料館、史跡などを訪ねるのも楽しく、それらを巡って町中の散策を楽しむのもいい。豫章館の入口受付など各所に飫肥の町のイラストマップが用意されているので、散策を楽しむ際にはそれを貰っておくとよいだろう。「九州の小京都」飫肥は、今では日南市のみならず宮崎県の観光名所を代表するもののひとつと言ってよいだろう。
飫肥
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INFOMATION
飫肥
【所】日南市飫肥
【問】日南市観光協会
【問】飫肥城下町保存会
【参】小京都と京都ゆかりのまち
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この近辺
飫肥城址竹香園[飫肥駅]
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ページ内の写真は2002年夏に撮影したものです。本文は2005年5月に改稿しました。
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