日南海岸風景
油津港
油津港
宮崎県の海岸には地形の利によって天然の良港が点在し、平安の頃から大陸との交易の中継港として利用されてきたのだという。油津の港もかつてはそうしたもののひとつだった。大陸の物資によって利益を得ようとする者たちの中には、海賊行為に及ぶものもあった。いわゆる「倭寇」だが、油津の港がそうした倭寇の拠点となった時代もあったという。

「油津」は「吾平津」がなまったものともいい、吾平津神社に祀られる吾平津姫との関連が語られることも多い。他説には荒波の無い穏やかな海面が「油のような」様子であることから「油津」と呼ばれるようになったとも言う。港の東方は尾伏のハナ(現在の大節鼻)が海へ張り出し、天然の防波堤のような役割を持って入江のような地形を作り、油津を良港としている。尾伏のハナは本来は島であったものが古い時代に広渡川の洪積作用によって陸地と繋がったものであるらしい。

江戸時代に入ると幕府が海外との交易を長崎で独占したために、交易中継港としての日向沿岸は急激に寂れていったということだが、時代が安定し、伊東氏が飫肥藩財政の中心として飫肥杉による林業振興を進めるようになると、油津港は木材の積出港として活気を取り戻すことになった。そして1686年(貞享3年)、広渡川河口部と油津港とを繋ぐ堀川運河の開削が完了すると切り出された木材の港への搬出の効率は飛躍的に向上、油津港から「千石船」に積まれて送り出される「弁甲材」は藩財政に大きな富をもたらすことになった。江戸末期には油津港から送り出される物資の三割ほどが「弁甲材」であったという。

時代が明治に入ると油津港と周辺の町は自由経済の繁栄を謳歌した。鉄道が普及する以前には、油津港は関西以東への海路の基地ともなり、港周辺には乗船を待つ人々を受け入れる旅館が数多く建ち並んで賑わったという。飫肥杉の「弁甲材」の産出が最盛期を迎えたのは戦後の昭和20年代であったという。「弁甲材」は造船材として適していたことから大きな需要を生んだものだったが、しかしやがて造船技術の近代化に伴い造船材としての木材の需要が落ちると、当然のように飫肥杉の需要も落ちた。「弁甲材」を筏に組んで堀川運河を曳く「弁甲流し」も、今は観光用のイベントとして細々と伝えられるのみである。
油津港
油津港 油津港
ディーゼルエンジンを積んだ漁船が一般化したのは昭和初期だったらしい。それまで日向灘沿岸の漁船として一般的なものは「チョロ船」と呼ばれる帆走木造和船だった。漁民たちは「チョロ船」を操って近海漁を営んでいた。油津の港もそうした素朴なものであったらしい。当時の「チョロ船」で現存するものは無く、油津の港に浮かぶ「チョロ船」の姿は写真に残るのみだったが、2001年(平成13年)に有志の手によって復元されている。かつて「チョロ船」造りに携わった経験を持つという古老の船大工などの協力を得て、およそ50年振りの復元であったという。

油津の港が漁港としての形を整えてゆくのは、1902年(明治35年)に制定された漁業法に基づき「油津漁業組合」が設立された頃からだったらしい。1917年(大正6年)には国内で初めて「漁港」の指定を受けたのだという。昭和に入るとクロマグロの水揚げが急増する。1931年(昭和6年)をピークに1941年(昭和16年)頃までマグロの豊漁は続く。世に言う「マグロ景気」である。油津港の岸壁にはマグロの水揚げのための漁船がひしめき、油津の町はこの上ない活況に沸いた。日本のマグロ相場は油津によって決まるとさえ言われ、「マグロ景気」は「油津」の名を全国に知らしめた。しかしやがて第二次世界大戦が始まると漁船の出漁もままならなくなり、漁獲量は激減、「マグロ景気」は終焉を迎えたのだった。

漁業は戦後再び活況を取り戻し、港の施設も整備が続けられたが、1970年代に入って「オイルショック」や二百海里問題といったさまざまな要因によって漁業は低迷の時代を迎えた。危機感をつのらせる地元漁協は水産振興といったソフト面から漁具や漁法の改良といったハード面までさまざまな努力を惜しまず、「マグロ油津」の復活を目指した。低迷を続ける漁獲量がようやく増加に転じる兆しが見え始めるのは時代が昭和から平成へと移ろうとする頃だった。今でも油津の漁業を支えるのはマグロ近海延縄漁とカツオ一本釣りだが、近年は漁獲量も比較的安定し、1993年(平成5年)には油津、鵜戸、大堂津の三漁協が合併して日南市漁業協同組合が発足し、新しい事務所が港の一角に完成、油津の漁業は新しい時代を迎えている。

現在でもなお、油津港は宮崎県南部の海の物流基地として役割を担い、大型船の着岸も可能な埠頭の工事をはじめとした整備が進められ、少しずつその姿を変えつつある。歴史遺産である堀川運河と一体化した親水空間としての整備も重要なものと認識されているようだ。2003年1月には客船「飛鳥」が初入港し、歓迎イベントなどが開催されて賑わったようだ。やがて物流や漁業のみならず、レジャーや観光の拠点としても、宮崎県南部への海の玄関口としても、油津港が新たな役割を果たす日が来ることになるに違いない。
油津港
油津港 油津港
油津港
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大節鼻に沿った東地区は油津港の中でも比較的新しい区域で、少しばかり殺伐とした風景の中に近未来的な雰囲気も漂っている。一角には小さな公園も設けられている。この東埠頭の岸壁は以前は釣り場として親しまれていたのだが、2004年7月に施行された「国際船舶・港湾保安法」によって一般の立ち入りが禁止されてしまった。かつては岸壁から南に視線を向けると、湾を隔てて見える海岸と、その背景に山々の稜線が重なる様子がなかなか美しかったのだが、残念ながら今ではその景色を眺めることもできなくなってしまった。

油津港内を湾に沿ってきた道路は東地区で大節鼻の尾根の切れ目を越えて北側へと延び、奇岩群の織りなす景観で有名な梅ヶ浜の傍らを抜け、広渡川の河口部で国道220号との交差点に至っている。この道路を通れば油津港から梅ヶ浜へも近く、車で観光する人であればドライブを楽しみつつ通ってみるとよいだろう。
油津港
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油津港は海側に張り出した大節鼻の岬によって大きな入江の形状を成し、港の範囲はなかなか広い。特に観光地として認知されているわけではないが、岸壁から見る海の景色も美しく、港の風情を楽しみながらの散策は楽しい。やはり堀川運河周辺を中心に油津の古い町並みなども含めて、かつて「マグロ景気」に湧いた頃の面影を探しながらの散策を楽しむのがいいが、大節鼻の付近から梅ヶ浜へと足を延ばすのも楽しい。港の周辺には新鮮な魚介類を味わえる店もある。そうした店で食事を楽しむのもお勧めだ。

油津港は夏に開催される「油津港まつり」の会場となるところでもある。「油津港まつり」は毎年七月下旬に開催され、昼間は堀川運河での「弁甲流し」や魚のつかみどり大会、弁甲競漕などが行われ、夜には花火大会が盛大に催されて近隣からの人出で賑わう。近年では復元された「チョロ船」も登場し、祭りに華を添えている。また毎月第四日曜日の早朝には「港あぶらつ朝市」が催され、漁協に水揚げされた魚や地場野菜などが販売されて賑わうという。
油津港
INFORMATION
油津港
【所】日南市油津
【問】日南市観光協会
【参】日南市漁業協同組合
このWEBページは「日南海岸散歩」内「日南海岸風景」カテゴリーのコンテンツです。
ページ内の写真は2002年夏に撮影したものです。本文は2009年6月に改稿しました。