日南海岸風景
油津
油津
油津の町は、日南市で最も繁華な町と言っていいだろう。油津は油津港を中心に古く奈良平安の時代から開けていた土地だった。江戸時代には伊東藩の要港として栄え、飫肥杉の積出港としての役割を担った。明治期に移って自由経済の時代に入ると油津港はますます繁栄し、堀川運河の河岸には多くの商家が建ち並んで賑わったという。昭和初期には油津港はマグロの豊漁に沸いた。世に言う「マグロ景気」で、日本のマグロ相場は油津によって決まるとまで言われたものだそうだ。1950年(昭和25年)に油津町、吾田町、飫肥町、東郷村の四つの町村が合併して日南市が誕生、「油津町」の名が消えてすでに久しい。現在、町名としての「油津」の名は、油津港近くの街区の名として残るのみだが、かつての「油津町」の名残か、地元の人たちは今でも油津港からJR日南線油津駅前辺りにかけての地域を総称して「油津」と呼び慣わしている。
油津
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油津の町の象徴とも言えるのが堀川運河と堀川橋だろう。堀川運河は木材の搬出を容易にする目的で、広渡川と油津の港を繋いで開削されたものだ。1683年(天和3年)の12月に開削工事が始まり、1686年(貞享3年)の春に完成したという。その堀川を跨いで東西を繋ぐ石橋が堀川橋だ。堀川橋は1903年(明治36年)に完成したものという。
油津
堀川の東側、堀川橋の袂から少し南へ下ると細い路地が縦横に延びる一角がある。路地沿いには古い時代を彷彿とさせる家々が今も建ち並んでいる。路地はとても狭く、車両の通行が何とか可能という程度だが、それもまた車が一般的になる以前から続く町並みであることをうかがわせて楽しい。現在では「油津一丁目」、「油津二丁目」などという名の街区だが、かつては「上町」、「中町」、「下町」と呼ばれて繁華な町並みを形成していた。この町並みこそが、かつて繁栄を謳歌し、活気に満ち溢れていた油津の町そのものである。今では町の中心部を貫くように国道220号が通り、町はそれによって二分されているような様相だが、特に国道220号と堀川運河に囲まれた一角は今も往時の面影を色濃く残している。
油津
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平成16年度後期(2004年9月27日〜2005年3月26日放送)のNHK連続テレビ小説「わかば」は日南市の飫肥の町が物語の舞台のひとつとなっていた。主人公若葉の伯父の家である「村上酒造」の玄関先が印象的に幾度も劇中に登場したが、その「村上酒造」の玄関先のロケ地は実は飫肥ではなく、この油津の町の一角にあった。町中の路地をのんびりと歩けば、「わかば」のドラマで見覚えのある風景に出会うことができるだろう。
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油津一丁目の国道220号沿いに杉村金物本店が建っている。杉村金物本店は1892年(明治25年)創業の老舗で、三階建ての美しい建物は1932年(昭和7年)に建築されたものという。一階が金物や漁具、船具などを商う店舗で、二階三階は住居となっている。建物は現在もほぼ建築時の外観を残しているといい、昭和初期における木造3階建て住宅として極めて貴重なものという。この主屋と裏手に建つ赤レンガ造りの倉庫は1998年(平成10年)、文化庁の登録有形文化財に登録されている。
油津
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油津一丁目の路地へ入り込んだところには「油津赤レンガ館」が建っている。1921年(大正10年)、油津の豪商河野宗四郎の四男宗人が主屋に2階建てを増築した際、同時に倉庫として建築したものという。煉瓦造2階建て、これも文化庁の登録有形文化財に登録されている建物だ。

その建物が、1997年(平成9年)、競売にかけられるという話が起こった。他者の手に渡れば取り壊されるのは必至、それを惜しんだ地元有志が立ち上がった。出資者を募って「合名会社油津赤レンガ館」を設立し、土地建物を取得したのだ。“出資”とは言っても、それが将来の収益を生むような事業への出資というわけではない。出資者を募るに当たっては、「堀川運河に1人100万円を捨てたと思ってくれ」と呼びかけられたという。資金を提供した人たちは皆、ふるさと油津の財産を守ろうという志があっただけだった。今ある「油津赤レンガ館」の姿は、ふるさとを愛する人たちの志の賜物なのである。

2004年(平成16年)、「油津赤レンガ館」は、その土地建物のすべてが「合名会社油津赤レンガ館」から日南市へ寄贈された。その後、補強、改修工事を経て、2010年(平成22年)から「油津赤レンガ館」として開館、一般に公開され、市民の活動の場としても活用されている。
油津
油津 油津
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堀川橋の西側の袂に鳥居がある。吾平津神社の鳥居だ。吾平津神社は「元明天皇の御代の和銅2年(709年)の創建」と伝えられているそうだが詳細はわからない。元々は「乙姫大明神」といい、1881年(明治14年)に「吾平津神社」と改名されたものだが、地元では今でも「乙姫神社」、あるいは単に「乙姫さん」と通称している。堀川橋は通称を「乙姫橋」とも言うが、その名もこの神社に由来する。吾平津神社はその名が示すように吾平津姫を祀り、天照皇大神、武甕槌命、天児屋根命、木花咲耶姫、経津主命、倉稲魂命を併せて祀っている。吾平津姫は神武天皇がまだ日向に居た頃の妃で、この油津の出生であったという。吾平津姫は神武東征には同行せず、油津の地に残って東征の成功と道中の安全を祈ったと伝えられている。吾平津神社は飫肥11社のひとつで歴代の飫肥藩主の崇敬を受け、古くから航海安全、商売繁盛の神社として人々の信仰を集めている。例大祭は11月14日に執り行われ、御神輿や獅子舞が町中を練り歩いて賑わうという。
油津
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吾平津神社の鳥居の傍らに「男はつらいよロケ地」を示す案内板が建てられている。堀川橋を中心とした一角は山田洋次監督による松竹映画「男はつらいよ」の第45作「寅次郎の青春」(1992年)の舞台となった。そのロケ地になったことを示す案内板だ。堀川橋周辺には明治期から昭和初期に建てられた建物も多く、その景観は古き佳き時代を彷彿とさせて郷愁を誘う。その町並みの佇まいが「男はつらいよ」の作品世界のイメージに合致したのだろう。山田洋次監督も主演の故渥美清もこの町並みに愛着を覚え、関係者にそうした感想をもらしていたと聞く。主役を演じた渥美清はすでに故人となり、往時が偲ばれる。
油津
堀川運河の西側の河岸を道路が辿っている。車のすれ違いもままならないような狭い道だが、この道沿いに並ぶ家々にも昭和初期に建てられたものが少なくないという。そうした家並みを眺めながらのんびりと歩いていると、時間の流れまでがゆったりとしたものに感じられるのが不思議だ。
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JR日南線油津駅の北東側に「岩崎」という名の町がある。1937年(昭和12年)に国鉄志布志線が油津まで開通した頃から、交通機関の整備を受ける形で岩崎の町に商店街が形成され始める。これらの商店街は戦後さらに発展し、昭和30年代から昭和40年代にかけてピークを迎える。すでに多くの商店が建ち並んでいた岩崎商店街にはアーケードが設けられた。アーケードは1961年(昭和37年)から建設が始められ、1965年(昭和40年)に完成している。「銀天街」の誕生である。アーケードの設けられた商店街は雨の日にも濡れずに歩けるという利便性もあり、またアーケードのある商店街というものが当時の感覚では現代的で洗練された都会的イメージをもたらしたこともあって、その集客力は高かった。1961年(昭和37年)には港百貨店(昭和40年に山形屋に移行)が開店、港百貨店と「銀天街」を繋ぐ通りにも商店街が形成されてゆく。1963年(昭和38年)には地元の長年の希望だった「日南線」の全線開通が実現、商店街はさらに集客力を高め、昭和40年代には多くの買い物客で賑わった。油津駅を降りて少し北へ行けば「銀天街」の西端だったこともあり、油津駅前には宮崎交通のバスターミナルもあったから、油津駅から「銀天街」を抜けて港百貨店(後の山形屋)まで行き、帰りはその逆を辿って買い物を楽しむというのが、当時の定番のコースだった。日曜日の「銀天街」は近隣から訪れた買い物客でごったがえし、真っ直ぐに歩けないほどだった。当時、これらの商店街こそが「油津の町」だった。

「銀天街」に西から、すなわち油津駅側から入ってゆくと、南側の並びに「松坂屋」という洋装店があった。男性用のカジュアルウェアを扱う店だったが、学生服なども扱っており、当時の男子中高生たち御用達の店だった。この店でよくズボンやシャツを買ったものだ。同じ側の並びに、名は忘れてしまったが食堂があり、そこではよくうどんを食べた。「銀天街」の中ほどには「日南(ひな)人形店」と「ひとみ人形店」という二つの玩具店が斜向かいで建っていた。二つの店は品揃えが微妙に違っており、子どもの頃におもちゃを買って貰うときなどには、必ず双方の店に立ち寄って目当てのものを選んだものだった。二つの玩具店のすぐ近くだったか、南側の並びに「鰻の寝床」のような狭い間口のたこ焼き屋があった。おじさんが店先でたこ焼きを焼いていた。奧に入ると二人がけの小さなテーブルが二つほどしかないほどの狭さだったが、子どもたちで賑わっていたものだ。

昭和30年代から昭和40年代にかけて日本は高度経済成長期の真っ直中だったこともあり、油津の町は時代に迎えられて繁栄を謳歌したのだ。しかし、やがて時代の変遷と共に油津の町の繁栄にも翳りが見え始め、「銀天街」に建ち並んだ商店も櫛の歯が抜けるように少なくなっていった。繁栄の時代から40年以上を経て、今ではすっかり寂れてしまった観がある。時代の象徴だったアーケードも、すでに一部が残るのみだ。かつて馴染んでいたさまざまな店も今は無い。「銀天街」の二つほど南側の筋には映画館の並ぶ一角があった。かつては近隣から多くの客を集めたものだが、これも今は無い。
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かつて繁栄を謳歌した油津の町も、いつしか時代に置き去りにされるように活気を失ってしまったが、ひっそりと鄙びた港町の風情が郷愁を誘って興趣に溢れている。堀川運河とその周辺の町並みの歴史的価値が見直され、観光に訪れる人も増えてきたようだ。かつて宮崎県南の商業の中心として賑わった油津の町だが、今では宮崎県南部を代表する観光名所のひとつである。
油津
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ページ内の写真は2017年夏、2018年夏に撮影したものです。本文は2019年4月に改稿しました。