幻想音楽夜話
Relayer / Yes
1.The Gates Of Delirium
2.Sound Chaser
3.To Be Over

Steve Howe - guitar, vocals.
Alan White - drums.
Chris Squire - bass, vocals.
Jon Anderson - vocals.
Patrick Moraz - keyboards.

Produced by Yes and Eddie Offord
1974 Atlantic Recording Corporation.
Thoughts on this music(この音楽について思うこと)

 「海洋地形学の物語」の制作を終えたイエスからリック・ウェイクマンが脱退したというニュースを聞かされた時、イエス・ファンとほとんどのプログレッシヴ・ロック・ファンの落胆はかなり大きなものだった。「こわれもの」から「海洋地形学の物語」にかけての作品群に於いて比類無き独創的な音楽世界を造り上げたイエスにとって、リック・ウェイクマンの果たした役割はあまりに大きく、彼の操るキーボード群の音世界がなければもはやイエスの音楽は成り立たないとさえ思われた。今やリック・ウェイクマンはイエスにとって必要不可欠なメンバーであり、彼の代役など見つかるはずもないと誰もが思ったのだ。イエスというバンドの存続さえ危ぶまれた。

 しかしイエスは解散には至らなかった。新たなキーボード奏者を加えてバンド活動を存続させる方針のようだった。それがせめてものファンの救いだった。イエスのメンバーたち自身にとってももちろんそうだっただろうが、ファンたちにとってもリック・ウェイクマンの跡を継いでイエスに加入するキーボード奏者は誰なのかということが最大の関心事だった。さまざまな噂が期待と憶測の中で飛び交ったものだった。

 やがて信頼できる情報としてヴァンゲリス・パパタナシューが加入するかもしれないという報せがもたらされた。すでにイエスのメンバーとセッションを開始しているという。彼は後に単に「ヴァンゲリス」として名を馳せるその人である。当時のヴァンゲリスは一般のロック・ファンには「無名」の存在だったと思うが、一部のプログレッシヴ・ロックのファンにはギリシャのバンド「アフロディティス・チャイルド」のキーボード奏者としての経歴が知られていた。アフロディティス・チャイルドの音楽を知る者は当惑と期待を抱いたのではないかと思う。少々アヴァンギャルドな音楽性のアフロディティス・チャイルドのキーボード奏者がイエスのメンバーとして成立し得るのかという不安。そしてまたアフロディティス・チャイルドの「エーゲ海」のような音世界がイエスの音楽と融合した様を想像したときの期待。しかし、ヴァンゲリスのイエス加入は実現しなかった。

 最終的にもたらされた報せはパトリック・モラーツの加入というものだった。パトリック・モラーツはスイス人で、当時はレフュジーのキーボード奏者として活動していたが、レフュジーを脱退してイエスへの加入が実現した。パトリックは技巧的にも非常に優れたミュージシャンだったが、やはり当時は「無名」に近い存在だったと言っていい。ファンは期待と不安の中でその成果を待った。パトリックとイエスはセッションを重ね、やがてそれは一枚のアルバム作品に結実した。それが1974年に発表された本作「Relayer(リレイヤー)」である。

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 アルバム「リレイヤー」はイエス・ファン、そして多くのプログレッシヴ・ロックのファンの期待に応えたものだったろうか。さまざまな評価が入り乱れた。「大作主義から抜けきれずに難解さを増した駄作」、あるいは「見事に再生を果たしたイエスの緊張感溢れる傑作」、「海洋地形学の物語」のときと同様に、その評価は二分した。

 「リレイヤー」は、イエスというグループによるアルバム作品の中で、おそらく最もハードで、アグレッシヴで、アヴァンギャルドなものであることは間違いないだろう。否定的な見方をすれば「とっちらかって」いて騒々しい音楽であるし、肯定的な見方をすれば器楽演奏の緊張感を極限まで高めた躍動感に満ち溢れた音楽だ。叙情的で神秘的な色彩で構築された音楽世界という性格は薄くなり、技巧的な器楽演奏によってもたらされるダイナミズムに音楽の主体が置かれている。象徴的に言うなら、「シンフォニック・ロック」に「ジャズ・ロック」の方法論が持ち込まれたのだ。

 そうした音楽の在り方は、LP時代にA面のすべてを費やした大作「The Gates Of Delirium(錯乱の扉)」やB面の前半部分だった「Sound Chaser」に於いて特に顕著だ。この両者の演奏に見られる緊張感は鬼気迫るものがある。メンバーの演奏が互いに呼応して融和してひとつの音楽世界を造り上げているというものではなく、競い合い、挑むように繰り広げられる演奏の緊張感の中に音楽の全体像が見えてくるのだ。

 「The Gates Of Delirium(錯乱の扉)」は「戦争と平和」をテーマにした楽曲であるという。きらきらとした光の煌めきを彷彿とさせるイントロ部分による幻惑的なイメージも束の間、演奏は緊張感漲る展開へと突き進んでゆく。メンバーの演奏が互いに絡み合うように繰り広げられて音楽を成してゆく様は非常にスリリングで、中間部分の戦闘を思わせる演奏パートはまさに圧巻だ。やがて戦闘の終わりと平和の訪れを象徴するように「Soon」のパートが歌われる。激しく緊張感に満ちた演奏から静けさに満ちた世界へと移行して、ジョン・アンダーソンによる歌声の聞こえてくる瞬間の何と美しく、切なく、哀しいことだろうか。20分を超える楽曲での、こうした構成、「動」と「静」の対比が見せる表情の豊かさは、まさにイエス・ミュージックの真骨頂と言えるだろう。

 「Sound Chaser」は、誤解を恐れずに敢えて言えば、イエス流の「ジャズ・ロック」であろう。それぞれの楽器が奏でる鋭角的な音の表情、凛として張り詰めた空気感、時にアグレッシヴに時にリリカルにと、めまぐるしく変化する曲想など、それは本来のイエス・ミュージックの持ち味とも言えるものだが、ここではそれがさらに研ぎ澄まされ、音楽の主体が演奏技法そのものの美といったものに移行しているようにも見える。楽曲の全体像から受けるイメージも、イエス特有の神秘的なシンフォニック・サウンドではなく、前衛的なジャズを彷彿とさせる部分さえある。

 「To Be Over」に於いてようやく、透明な静けさの中に雄大な広がりを感じさせる叙情性が戻ってくる。穏やかで波間にたゆたうようなイメージ、美しく牧歌的なメロディ、神秘的で幻想的な広がり感など、イエスの音楽にそうした魅力を感じているファンにとっては、このアルバム中で最も魅力的な楽曲に違いない。しかしそれでも、明らかにリック・ウェイクマン在籍時の音楽世界とは異なった表情を携えている。

 このアルバムに見られるそれらの特徴的な音楽の表情は、もちろんパトリック・モラーツの演奏技法や思想性がもたらしたものだと言えるだろう。パトリックは技巧的に非常に優れ、シンセサイザーの使い方なども巧みだ。しかし決してリック・ウェイクマンの「代役」ではない。リック・ウェイクマンが自らの操るキーボード群の音像によって、まるで音楽に背景を与えるように幻惑的な色彩を与えていたのに対し、パトリックの演奏はあくまでひとつの「楽器」としての在り方を強く意識させる。彼の演奏は他のメンバーの演奏と対峙し、時に競い合い、時に調和しながら音楽の全体像を造り上げてゆく。敢えて言えば、パトリック在籍時のイエスの音楽の主体は、緻密なバンド・アンサンブルによって造り出される壮大な音宇宙ではなく、それぞれのメンバーのインプロヴィゼーション・プレイの拮抗が生み出す緊張感にこそある。それがこのアルバムに独特の張り詰めた空気と激しさを与えているのだ。

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 リック・ウェイクマン在籍時の神秘的で宇宙的で神話的で壮大な音楽世界を愛したファンにとって、そしてさらに言うならリック・ウェイクマンというミュージシャンの造り出す音宇宙を愛したファンにとって、「リレイヤー」は魅力的な作品とは言い難かっただろう。そうしたファンにとっては「演奏技法に酔った駄作」と見えたかもしれない。

 しかしパトリック・モラーツをメンバーとして擁した時、イエスがさらに新しい地平へ踏み出そうとしていたであろうことは間違いない。それは「プログレッシヴ・ロック」が真に「プログレッシヴ」な「ロック」であることの証左のようなものだ。イエスがトニー・ケイを失ってリック・ウェイクマンを得たときに変化したように、この時にもまた変化が生じ、イエスの音楽は新たな領域に踏み込もうとしていたのだ。そうした変化を是とし、パトリック・モラーツの演奏とその音楽に魅力を感じたファンにとって、「リレイヤー」は紛れもなくイエスの傑作のひとつであるし、「プログレッシヴ・ロック」というものの生み出した最良の作品のひとつでさえあると言える。

 しかしその変化を「是」としなかったのは、他でもないイエスというバンド自体だったのではないか。デビューからの経緯や、「リレイヤー」以後のイエスの音楽の辿った経緯を見ても、彼らは決して「ジャズ」の方法論を大々的に持ち込もうとしたことはない。パトリック・モラーツの音楽的思想とその演奏形態は、イエスが望むものではなかったのだ。けっきょくパトリックはこの一作のみでイエスを去る。

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 パトリック・モラーツをキーボード奏者に擁したイエスとしては、「リレイヤー」が唯一の作品だ。それはイエスの歴史にとってバグルスのふたりを迎えて1980年に発表された「Drama」のように、変異的な作品であるかもしれない。それらはイエスの数々の作品群の中でなかば無視され、不当な評価を受けてきたような気がする。本来は素晴らしい作品であり、見る角度を少し変えるだけでその魅力が理解できるのに、すでに出来上がってしまった「イエス」というグループのイメージに邪魔されて正当な評価が与えられにくい。

 音楽のスタイルはまったく違うが、そうした状況にはトミー・ボーリンを擁したディープ・パープルに与えられた不当な評価が重なって見える。「リッチー・ブラックモアのいないディープ・パープルはディープ・パープルではない」というのと同様に、「Drama」の時には「ジョン・アンダーソンのいないイエスはイエスではない」と扱われる傾向があり、「リレイヤー」の時には「リック・ウェイクマンのいないイエスはイエスではない」と扱われる傾向が、やはりあった。

 そうした見方をする人々にとって、「リレイヤー」は「イエス」というバンドの作品ではなく、「パトリック・モラーツ&イエス」とでも言うような、一種のコラボレーションが生み出した作品のようにも見えるかもしれない。一歩、いや百歩も譲ってそうであるとしよう。「リレイヤー」はリック・ウェイクマンを欠いたイエスとパトリック・モラーツというミュージシャンによるコラボレーション・アルバムであるとしよう。しかしそれが何の問題になるだろうか。イエスはその長い歴史の中で、パトリック・モラーツという才能溢れるキーボード奏者をメンバーとして迎えた時期があり、その時「リレイヤー」という傑作を残した。他のイエスの作品群とはその在り方や表情が異なっているかもしれないが、この作品が優れたものであることは認めなくてはならない。

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 当時、このアルバムを貪るように何度も何度も聴いた記憶がある。リック・ウェイクマンの造り出す音楽を愛する立場だったが、パトリック・モラーツの参加したイエスが素晴らしい作品を届けてくれたことに心が沸き立ったものだった。ドラマティックに構成された「錯乱の扉」から少々前衛的な味わいの「サウンド・チェイサー」を経て、リリカルで美しい「トゥ・ビー・オーヴァー」まで、それは新しいイエス・ミュージックとしての興奮を携えていた。ジャケットを飾るロジャー・ディーンのイラストも相変わらず美しく、ジャケットを眺めながら音楽の世界に浸ったものだった。そのまま新しいメンバーを擁した構成で、イエスはさらに素晴らしい作品を造り続けてくれるものだと信じて期待したものだ。残念ながらパトリック・モラーツを擁したイエスの作品はこの一作のみとなってしまったが、それだけに「リレイヤー」は今も色褪せない魅力を放っているように感じる。

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 「リレイヤー」発表の後、パトリックはイエスを去り、イエスはバンド活動を休止してメンバーのソロ活動を開始した。イエスというバンドでの次作が発表されるのは1977年のことだ。その作品「Going for the One」にはなんとリック・ウェイクマンが復帰していたが、アルバム・ジャケットを飾るのがロジャー・ディーンからヒプノシスに変わったことが象徴であるかのように、その音楽性は大きく変わっていた。

 敢えて言おう。イエスにとって「リレイヤー」は1970年代初期の「プログレッシヴ・ロック」というものの総体が携えていた空気をその中に湛えた最後の作品である。そして紛れもなく「プログレッシヴ・ロック」というものが残した傑作のひとつである。