幻想音楽夜話
ゴールデン・ピクニックス / 四人囃子
1.Flying 〜フライング
2.Carnival 〜カーニバルがやってくるぞ(パリ野郎ジャマイカへ飛ぶ)
3.Continental Laid-Back-Breakers 〜なすのちゃわんやき
4.Kool Sailer & Fools 〜空と海の間
5.Bird's & Nessy's 〜泳ぐなネッシー
6.A Song For Lady Violetta 〜レディー・ヴァイオレッタ

YONINBAYASHI:
Daiji Okai: drums, synthesizer, percussion, background vocal
Masahide Sakuma: bass, recorder, synthesizer, percussion, background vocal
Hidemi Sakashita: keyboards, synthesizer, percussion, background vocal
Katsutoshi Morizono: all guitars, synthesizer, percussion, lead & background vocal

GUEST MUSICIANS:
John Yamazaki: acoustic piano, hammond organ on "Kool Sailer & Fools"
Satoshi Nakamura: soprano saxophone on "Kool Sailer & Fools"
Motoya Hamaguchi: flute on "Flying" & "A Song For Lady Violetta", percussion on "A Song For Lady Violetta"
Toshi: percussion on "Kool Sailer & Fools"

Produced by Hideto Isoda
1976 CBS/Sony
Thoughts on this music(この音楽について思うこと)

 当時、このアルバムを毎日毎日、何度も何度も繰り返し聴いたものだ。何しろ、待ちに待った四人囃子のセカンド・アルバムなのだ。「一触即発」の衝撃から二年、まさに“待望の”と言うべきアルバムだった。待たされ続けた二年の間、四人囃子の次作についてはさまざまな情報が断片的にもたらされ、期待は増す一方だった。そんなふうにこのアルバムを待ったロック・ファンはきっと少なくなかったに違いない。そんな期待の中で、ようやく1976年になって発表された、四人囃子のセカンド・アルバム、「ゴールデン・ピクニックス」である。

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 1974年に「一触即発」を発表した後、1975年になって四人囃子からベースの中村真一が脱退する。以前からのサポート・メンバーだったキーボード奏者の茂木由多加と茂木の友人だったベース奏者の佐久間正英を加えて五人編成となり(バンド名は「四人囃子」のままだった)、シングル「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」を発表する。しかしその後すぐに茂木は脱退、森園、岡井、坂下、佐久間の四人による「四人囃子」となり、1975年の秋に来日したディープ・パープルのオープニング・アクトを務めた後、1976年初頭からニュー・アルバムのレコーディングが開始される。レコーディングが終了したのは3月、先行シングルの「レディ・ヴァイオレッタ」が発売されたのが4月、アルバム「ゴールデン・ピクニックス」が発売されたのは5月1日である。

 「ゴールデン・ピクニックス」に収録された楽曲は全部で6曲、インストゥルメンタルの小品を冒頭に置き、その後に比較的コンパクトな楽曲を収録、LPのB面には“大作”とエンディングにインストゥルメンタル曲を配置するという構成は「一触即発」の構成と似たものだった。

 冒頭に収録された「Flying」はビートルズの楽曲で、アルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」に収録されていたものだ。元々インストゥルメンタル曲で、独特の浮遊感を漂わせる楽曲だが、四人囃子はさらにドリーミーでふわふわとした感触に仕上げている。

 2曲目の「カーニバルがやってくるぞ(パリ野郎ジャマイカへ飛ぶ)」は茂木由多加による楽曲で、そもそもは茂木と佐久間によるバンドのレパートリーだったものだ。この楽曲を森園が気に入って収録されたものという。そのためか「一触即発」時代の四人囃子とは違った色彩を持つ楽曲で、ポップでカラフルな表情が楽しい。中盤の間奏部で聞かれるメロディはフランスの作詞家/作曲家/シンガーのレオ・フェレ(Leo Ferre)による「パリ野郎(Paris Canaille)」だ。そのため、「カーニバルがやってくるぞ(パリ野郎ジャマイカへ飛ぶ)」の作者欄には茂木由多加と共に「L.フェレ」の名が記されている。

 3曲目の「なすのちゃわんやき」はインストゥルメンタル曲だ。変拍子を使った演奏は緊張感の中にもコミカルな印象も漂わせていて面白い。突っ走ってゆく演奏が途中でブレイクし、夢想的な表情を見せるのが印象深い。アルバムのレコーディング・セッションの中で即興的に生まれた楽曲のようにも聞こえてしまうが、実は四人囃子のライヴでの定番曲で、「ゴールデン・ピクニックス」発表時にはすでに脱退していた中村真一の作曲による。四人囃子の演奏力の高さを窺い知ることのできる楽曲だろう。ちなみに「なす」は「那須」だそうである。

 4曲目の「空と海の間」はこのアルバムのために書かれた楽曲だろうか。2001年に発売された「From the Vaults」にも2008年に発売された「From the Vaults 2」にも、この楽曲のライヴ音源は収録されていないから、以前からのレパートリーではなかったのだろう。末松康夫と森園勝敏とのコンビによる「空と海の間」は、このアルバムの中で最も「一触即発」時代の四人囃子の音に似た風景を持つ楽曲だと言っていい。タイトルが示すように空と海の青さを連想させるような曲想の楽曲だ。中間部で森園のギターソロがふんだんに聴けるのがファンとしては嬉しいところだ。LP時代には、この「空と海の間」までがA面だった。

 5曲目の「泳ぐなネッシー」は演奏時間17分ほどという“大作”で、アルバムのタイトル・チューンとも言える楽曲だ。この楽曲は四人囃子の初期からのレパートリーだったようで、当時のライヴ音源が少なからず残っており、それらのいくつかは「From the Vaults」や「From the Vaults 2」などで聴くことができる。ちなみに1974年頃に演奏された「泳ぐなネッシー」を聴いてみると、イントロ部には「一触即発」の冒頭に収録されていた「hamabeth(本来は発音記号で表記されているが、推測されるスペリングで代用した)」が使われている。というより、本来は「泳ぐなネッシー」の初期ヴァージョンのイントロだった部分を独立させて、「hamabeth」として「一触即発」に収録したものなのだろう。

 「ゴールデン・ピクニックス」に収録されたヴァージョンの「泳ぐなネッシー」では「hamabeth」のイントロ部は省略され、初めからゆったりとたゆたうような曲想で展開されてゆく。やがて曲想が変化し、焦燥感や喧噪感を伴う演奏が展開され、途中、銃声や車の走行音といった現実音を効果的に使用しながら実験的で前衛的な演奏が繰り広げられてゆく。現実音を使用する手法は「プログレッシヴ・ロック」の世界では珍しいものではなく、このアルバムが発表された1976年の時点ではすでにその手法自体が陳腐化してしまっていた側面もあった感は否めない。それでも「プログレッシヴ・ロック」のイディオムをここまで消化して展開されたロック・ミュージックは、当時の日本ロック・シーンでは他に類例がなかったことは特筆しておかなくてはならない。万華鏡のようにさまざまな要素を孕んで展開された演奏はやがてテーマへと回帰し、ゆったりと神秘性の彼方へと帰って行く。

 「泳ぐなネッシー」のタイトルに使われている「ネッシー」について少し触れておこう。「ネッシー」はイギリス、スコットランドのネス湖に棲息する(であろうと)と言われている未確認生物のことだ。ネス湖では1900年代に入ってから正体不明の不思議な生物の目撃例が報告されるようになる。その未確認生物に対する通称が「ネッシー(Nessie)」だ。決定づけたのは1934年に発表された一枚の写真だった。ロンドンの医師ロバート・ケネス・ウィルソンが撮影したという写真には、まるで首長竜を思わせるシルエットが捉えられており、ネッシーの正体はプレシオサウルスの生き残りかと話題になった。その後も数多くの報告例がもたらされ、未知の生物に対する興味をかきたてた。しかし1990年代になって、この写真がトリックであったことを当事者のひとりが暴露し、「ネッシー」に対するさまざまな見解が一気に陳腐化し、世間の興味も失われてしまった。それでもネス湖の未確認生物の目撃例は数多い。「あの写真がトリックだったとしても、やはりネス湖には何かがいる」とする人たちもいれば、「そんなものはいない、すべてトリックか、誤認なのだ」とする人たちもいる。

 「泳ぐなネッシー」はその「ネッシー」をタイトルに用いた楽曲だが、歌詞中には「ネッシー」という単語は登場しない。歌詞には「ネッシー」を連想させる表現もあるが、 SF的、あるいはファンタジー的な視点から“不思議な生き物”を描いた楽曲ではない。この楽曲の歌詞世界の基本は現代社会に対する批判的視点、いわば“物質文明批判”的なところにあり、無垢で素朴で純粋なものの象徴として「ネッシー」の名が用いられているにすぎない。だから「ネッシー」であることに必ずしも必然的な理由があるわけではなく、例えば「イエティ」でも「ツチノコ」でもよいわけだが、やはり湖の奥底に棲んでいるかもしれないという「ネッシー」の、(当時の)社会の注目度や、もしかしたら遙かな太古の生き物の生き残りかもしれないという独特の神秘性が、この楽曲のイメージに少なからず作用しているのも確かだ。現代文明に対する批判的視点の象徴として用いるなら、やはり最適なモチーフだったろう。

 「泳ぐなネッシー」がネス湖に沈むようにエンディングを迎えた後は、「レディ・ヴァイオレッタ」だ。この「レディ・ヴァイオレッタ」は、「ゴールデン・ピクニックス」の“もうひとつの”タイトル・チューンと言っていい。この楽曲は森園勝敏のギターをフィーチャーしたインストゥルメンタル曲で、全編に渡って森園のギターが思う存分に歌っている。ギタリスト森園勝敏のファンにとっては最高の楽曲なのだ。しかし、「ゴールデン・ピクニックス」が発表された当時、ほんの少しの戸惑いもあった。この楽曲は果たして「ロック」と呼べるものなのか、と。今にして思えば、この演奏はいわゆる「フュージョン」である。シングル「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」のB面曲だった「ブエン・ディア」でもフュージョン的アプローチを試みた四人囃子だが、この「レディ・ヴァイオレッタ」は“フュージョン的アプローチ”どころではなく、フュージョン・ミュージックそのものだ。しかし1976年当時、「フュージョン」はようやくその台頭期を迎えたばかりで、ジャンルとしての概念が確立しておらず、「フュージョン」という呼び名もまだ一般化していなかった。一般のロック・ファンにとって「レディ・ヴァイオレッタ」は、日本のプログレッシヴ・ロック・バンドの演奏する、少しジャズっぽい、心地良いインストゥルメンタル曲という印象だった気がする。ちなみに先行発売されたシングル盤の「レディ・ヴァイオレッタ」での演奏は、アルバム収録バージョンとは別ヴァージョンで、アルバム収録バージョンで重要な役割を果たすフルートが加えられておらず、森園のギターもロックっぽく、もっと「プログレッシヴ・ロック」的な演奏に仕上げられている。

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 「ゴールデン・ピクニックス」は初期のレパートリーから(おそらく)新曲、そしてカヴァー曲まで取り上げ、ヴァラエティに富んだ内容だが、散漫な印象がなく、全編を通して統一された音楽世界が貫かれているのはさすがという他はない。ただ、「一触即発」の四人囃子を愛したファンから見れば、「ずいぶんと印象が変わったな」と思えたのも事実だ。「一触即発」から「ゴールデン・ピクニックス」への最大の変化は、その音楽を覆う色彩の変化だ。

 「一触即発」では、どちらかと言えば彩度とコントラストを抑えた風景写真のような色彩の中に既視感を誘うような懐かしさを漂わせ、現実からほんの少し位相のずれた世界を垣間見るような音楽世界が展開されていた。収録された楽曲のもたらす印象は、例えば時刻で言うなら昼下がりから夜にかけての時間帯だった。昼下がりの白日夢を見るような「空と雲」、宵闇の中に漂う幻想のような「おまつり」、そして夕闇が訪れる時刻の不安な感覚を見事に表現した「一触即発」など、アルバム全体を覆うのは昼下がりから夜にかけての風景だ。

 しかし「ゴールデン・ピクニックス」は違う。「ゴールデン・ピクニックス」は明らかに陽光の下にある。時間帯で言うなら朝から昼過ぎまでだろう。「フライング」は朝、「カーニバルがやってくるぞ(パリ野郎ジャマイカへ飛ぶ)」と「なすのちゃわんやき」はお昼前、「空と海の間」や「泳ぐなネッシー」は正午近く、そして「レディー・ヴァイオレッタ」は正午を過ぎて昼下がりへと移ろうとする時間帯だ。それらの楽曲の印象は、そうした時間帯の陽光の印象に対応しているように思えてならない。そしてその音楽世界は朝から昼までの陽光に照らされながらも現実感を伴っておらず、次元の異なる異世界の出来事のようにも感じられるのだ。言うなれば“陽光に照らされた異世界”である。「一触即発」での現実のようで現実ではない位相のずれた世界から、「ゴールデン・ピクニックス」に於ける陽光に照らされた遙かな異世界へと、四人囃子は旅立ったのだ。「ゴールデン・ピクニックス」というアルバム・タイトルがどのような意図で決定されたものかは寡聞にして知らない。しかし、このアルバムを覆う異世界感覚は「ゴールデン・ピクニックス」というタイトルと見事に符合するではないか。

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 1970年代日本プログレッシヴ・ロックの名盤としてその名を残す「ゴールデン・ピクニックス」だが、時代はすでに「プログレッシヴ・ロック」の終焉期を迎え、「プログレッシヴ・ロック」の総本山とも言える英国本国では「プログレッシヴ・ロック」の総体そのものが方法論的に八方塞がりの状態となって失速していた。ニューヨークのアンダーグラウンド・シーンでは「パンク」が台頭し、やがて「パンク」はロンドンへ飛び火し、ロック・シーンに大きな変革をもたらす。今にして思えば、そうした時代にあって、「一触即発」から「ゴールデン・ピクニックス」までの二年間はあまりに長かったかもしれない。

 「ゴールデン・ピクニックス」発表の後、四人囃子のファンに衝撃的なニュースがもたらされる。四人囃子から森園勝敏が脱退するというのだ。四人囃子を去った森園は当時話題になっていたバンド、プリズムに加入するという。驚愕と落胆の中で、個人的には“ああ、やっぱりな”という気がしたのも否めない事実だ。「ゴールデン・ピクニックス」に収録された音楽を聴いてみれば、「ゴールデン・ピクニックス」制作時に於ける森園のフュージョンへの指向はすでに明らかではないか。「レディ・ヴァイオレッタ」はそれを如実に象徴する楽曲だが、他の楽曲、例えば「空と海の間」の間奏部に於ける森園のギター・ソロもロックというよりフュージョン的な味わいの濃いものだ。個人的には「ゴールデン・ピクニックス」に於ける森園のギター・プレイは、「一触即発」でのそれではなく、プリズムでの森園の参加曲のそれと、すっきりと繋がってしまう。「レディ・ヴァイオレッタ」は、例えばプリズムのセカンド・アルバムに収録された「Daydream」へと繋がる系譜の中にあるのであって、「おまつり」の延長上には位置していないのだ。

 この頃、個人的にも音楽的嗜好が急激に変化してフュージョンや(いわゆる)AORへと向かっていた時期だったから、森園の抜けた四人囃子より森園が加わったプリズムへの興味の方が遙かに大きかった。森園が四人囃子を抜けるのなら、では森園について行ってみようか、といった気分だった。そうしたことを考えながら意味もなく象徴的に捉えるなら、四人囃子の「ゴールデン・ピクニックス」は、「プログレッシヴ・ロック」というものの終焉と、来るべき「フュージョン」の萌芽を見事に具現化した作品だった気がする。

 「ゴールデン・ピクニックス」を、当時熱中して聴いた。それだけに、あれから三十年以上を経た今になって聴けば複雑な気持ちになる。当時の彼らの音楽的アイデアを存分に詰め込んで制作された「泳ぐなネッシー」、さまざまな音楽的実験を駆使して練り上げられた17分間は、しかし果たして充分に“楽曲”としての魅力に昇華できていたのだろうかと、今ではそんなふうにも感じてしまうのだ。「泳ぐなネッシー」のテーマ部がたいへんに美しい曲想を持っているだけに、実験性や前衛性といったものに意義を見いだそうとしていた“時代”のうねりを感じずにはいられない。その対極として存在するのが「レディ・ヴァイオレッタ」だろう。シンプルでダイレクトな器楽演奏の魅力だけで聴かせる「レディ・ヴァイオレッタ」は、音楽のスタイルやジャンルを超えて、その魅力を放ち続ける。「レディ・ヴァイオレッタ」は永遠の名曲なのだ。「ゴールデン・ピクニックス」は良くも悪くも“時代”と共にある。その“負”の部分も含めて、やはり日本ロック・シーンに残る名盤、傑作であることは確かだ。さあ、もう一度、「レディ・ヴァイオレッタ」を聴こう。