幻想音楽夜話
Come Taste The Band / Deep Purple
1.Comin' Home
2.Lady Luck
3.Gettin' Tighter
4.Dealer
5.I Need Love
6.Drifter
7.Love Child
8.a)'This Time Around' / b)Owed To G
9.You Keep On Moving

Tommy Bolin : lead guitar and vocals
David Coverdale : vocals
Glenn Hughes : bass guitar and vocals
Jon Lord : keyboards
Ian Paice : drums

Produced by Martin Birch and Deep Purple
1975 Warner Bros. Records Inc.
Thoughts on this music(この音楽について思うこと)

 1974年に「Stormbringer(嵐の使者)」を発表した後、1975年になってリッチー・ブラックモアがディープ・パープルを脱退した。そのニュースは世界中のファンを驚愕させたのではなかったかと思う。特に日本ではディープ・パープルの人気が高かったこともあって、そして個人的にも大好きなバンドだったから、そのニュースはまったく衝撃的な一大事だったような記憶がある。

 ほとんどのディープ・パープル・ファンにとって、そして大方のロック・ファンにとって、当時、リッチー・ブラックモアこそがディープ・パープルだったと言っても過言ではない。1970年代の「ハード・ロック」というものの、おそらく頂点に位置するディープ・パープルに於いて、リッチー・ブラックモアのギター・プレイこそはなくてはならないものだった。1973年にイアン・ギランとロジャー・グローヴァーが脱退した時の衝撃も大きなものだったが、リッチーの脱退はその時とは比較にならないほどの重大事だった。ディープ・パープルというバンドの存続さえ危ぶまれた。事実、ジョン・ロードとイアン・ペイスのふたりはバンドの解散も考えていたという。

 しかしバンドは存続した。新たなギタリストとしてアメリカ人のトミー・ボーリンが加入することになった。トミー・ボーリンはジョー・ウォルシュが脱退した後のジェームス・ギャングのギタリストとして活躍していた人物で、テクニックにも優れ、幅広い音楽性を持った、新進気鋭のギタリストという評判だった。期待と不安が入り交じる中で、ファンは新生パープルの新作を待った。そして1975年のうちに、ギタリストにトミー・ボーリンを擁したディープ・パープルのアルバム「Come Taste The Band」がファンの元に届けられた。

 「Come Taste The Band」への評価は惨憺たるものだった。トミー・ボーリンのギタリストとしての実力、アルバム収録曲のほとんどを共作するコンポーザーとしての実力などを認めながらも、ほとんどのファンが異口同音に言ったものだ。こんなものはディープ・パープルではない、と。

 一方、パープルを抜けたリッチーはロニー・ジェイムス・ディオのエルフと合体する形で「レインボー(当時は「Richie Blackmore's Rainbow」)」を結成、同じ1975年のうちにデビュー・アルバムを発表した。皮肉にもこのレインボーのデビュー・アルバムは、「Come Taste The Band」のディープ・パープルより遙かに「ディープ・パープル」らしかった。リッチー・ブラックモアのギター・プレイに惚れ込んでいたディープ・パープル・ファンの多くは、新生ディープ・パープルにさっさと見切りをつけ、レインボーへと期待の目を注いだというのが正直なところではなかったか。

節区切

 個人的にも、「Come Taste The Band」を聴いての第一印象はやはり「これはもはやディープ・パープルではない」というものだった。しかしあまり落胆は感じなかった。リッチー・ブラックモアが脱退して他のギタリストが加入した時点で、ディープ・パープルはその音楽性を大きく変化させなくてはならないだろうというのは、当然予想できたことだったからだ。「Deep Purple」の名を受け継いではいても、黄金期とも言える、いわゆる「第二期」のディープ・パープルを担ったメンバーはすでにジョン・ロードとイアン・ペイスしかいない。バンドの「顔」とも言えるヴォーカリストとギタリストが変わってしまっては、すでに第二期ディープ・パープルとはまったく別のバンドになってしまったのだと考える方が妥当ではないか。名は「Deep Purple」でも、実質は別のバンドに生まれ変わったのだと、そんなふうに思ったものだった。

 そのことが、「Come Taste The Band」という作品に向き合う上で、とても重要なことだったのだろうという気がする。もしトミー・ボーリン加入後のディープ・パープルに対して落胆ばかりを感じていたなら、このアルバムは駄作以外の何物でもなく、聴くに堪えないものだっただろうからだ。実は「Come Taste The Band」への第一印象には、「これはもはやディープ・パープルではない」というのと同時に、「なんてかっこいいんだろう」というのがあった。そう、素直に「かっこいい」と思ったのだ。リッチーが抜けて全く別のバンドのようになってしまったが、それはそれ、トミー・ボーリンの加入したディープ・パープルもまたこれはこれでとてもかっこいいではないか。そんなふうに思ったのだ。この新生ディープ・パープルはきっと素晴らしいバンドになるに違いないと確信した。しかし今にして思えば、そんなふうに思ったファンはあまり多くはなかったのだろう。

節区切

 「Come Taste The Band」はとても優れたロック・アルバムだった。硬質で乾いた音質のトミー・ボーリンのギターも素晴らしかった。トミー・ボーリンのギターを前面に据えたサウンドは、サクサクと「縦に切れる」ような感触が爽快で痛快で、そこにソウルフルなデヴィッド・カヴァーデイルのヴォーカルが絡む様子はぞくぞくとするような興奮を与えてくれる。

 収録された楽曲のどれもがスリリングで素晴らしい。スピーディで疾走感に溢れる「Comin' Home」から重厚感のある「Lady Luck」へと続くあたりで、すっかり引き込まれてしまう。ファンキーな要素の色濃い「Gettin' Tighter」や「I Need Love」、重厚でブルージーな「Dealer」や「Drifter」、重厚なリフが印象的な「Love Child」など、どの楽曲もそれぞれに魅力的で聴き応えがある。少しばかり幻想的な雰囲気を漂わせる「This Time Around」とインストゥルメンタル曲の「Owed To G」のメドレーもなかなか味わいがあり、単調になりがちなアルバム構成のアクセントにもなっている。ドラマティックな構成の「You Keep On Moving」も聴き応えのある楽曲で、ジョン・ロードのオルガンが堪能できるのも嬉しい。

 デヴィッド・カヴァーデイルの歌唱はリッチー・ブラックモアのギター・スタイルよりトミー・ボーリンのギター・スタイルとの方が遙かに相性が良いように思える。デヴィッドと共にパープルに加入したグレン・ヒューズもファンキーな音楽を指向していたミュージシャンだったから、この三者の演奏はまるで「水を得た魚」のように、自らの信じる音楽を自信に満ちて展開しているという感じがある。その三者をジョン・ロードとイアン・ペイスが支えることによって、この見事なロック・ミュージックが出来上がっている。表層的にはアメリカン・ミュージック的な乾いた音の感触やソウルフルでファンキーな色彩が色濃く出てはいるが、その深層には英国ロック特有の翳りと重厚感がしっかりと残っている。ある意味では、ブリティッシュ・ロックとアメリカン・ロックとの理想的な融合のひとつだったと言えるのではないか。

節区切

 トミー・ボーリンが加入した後のディープ・パープルの音楽は、乱暴に言い切ってしまうならばすでに「アメリカン・ハード・ロック」だ。それまでのディープ・パープルの音楽を愛し、その存続を望んだファンにとって、その音楽は唖然として「あいた口のふさがらない」ようなものだったにちがいない。「自分たちの望んだものはこんなものではない」と、ファンの誰もが思ったに違いないのだ。口の悪いファンは、「ディープ・パープルがデヴィッド・カヴァーデイルとトミー・ボーリンに乗っ取られた」などと言って憚らなかった。

 しかし、それまでのディープ・パープルの音楽の変遷を思えば、やがてこうした音楽に行く着くであろうことは当然予想し得ることだったのではないか。クラシカルで流麗なポップ・ソングをロック・サウンドと融合した「第一期」の時代、そこからさらにハードにエキセントリックに過激なロック・サウンドを完成してみせた「第二期」の時代、野太くソウルフルな味わいを増した「第三期」、それぞれの時代の音楽性の特徴は、その時代のディープ・パープルのメンバーの音楽的指向と密接に関連しているが、こうして俯瞰してみれば、少しずつアメリカン・ミュージックへ歩み寄っていったことがわかる。その延長上に「第四期」があるのだとすれば、「Come Taste The Band」の音楽性は当然の帰結だったのではないか。

 敢えてもう一度はっきりと言っておくが、「Come Taste The Band」は傑作だ。あの頃に聴いた時にもそう感じたし、今になって聞き直してみてもそう思う。それぞれの楽曲の良さ、演奏の素晴らしさ、アルバム全体の密度、どれをとっても素晴らしい。やはりさすがは「ディープ・パープル」の名の下に制作されたアルバムだという気がする。しかし逆説的だが、「Come Taste The Band」の素晴らしさは「ディープ・パープル」の名や「リッチー・ブラックモア」の名の呪縛から解き放たれた後にようやく認識できるものだったかもしれない。ジョン・ロードが当時を振り返って「ディープ・パープルを名乗るべきではなかった」との旨のことを語っていたのを何かで目にしたような記憶があるが、すべてはそこに集約されるような気もする。

 結局、「Come Taste The Band」はディープ・パープル・ファンの間でなかば無視され、不当な評価を与えられ続けてきた。いや、評価の対象にすらされなかったというのが正しいかもしれない。これほど完成度の高いロック・ミュージックが造り上げられていたというのに、「ディープ・パープル」の名の下に評価が歪められてしまったのだ。悲運の作品という他はない。

節区切

 トミー・ボーリン加入後のディープ・パープルに失望したファンは、リッチー・ブラックモアの復帰を望んだ。トミー・ボーリンが演奏するステージに向かって「リッチー・コール」が起こることさえあったという。トミー・ボーリンの心痛は想像を超えるものがあっただろう。やがてトミーはドラッグに溺れてゆく。ディープ・パープルは結局1976年に解散し、トミー・ボーリンはソロ・アルバムを発表するが、それから間もなくドラッグのオーヴァードーズにより他界してしまった。

 当時のファンの気持ちもわかる。自分もまた「第二期」時代のディープ・パープルが大好きだったから、その気持ちはわかりすぎるほどにわかる。しかし、時代は移ってゆき、メンバーが変わればバンドの音楽性もまた変化してゆかなくてはならないのだ。そこに進歩があり、飛躍があり、次の栄光が待っているのだ。それを阻んだのは、他ならぬ過去に固執したファンの姿勢そのものだったのではないか。それを責めるつもりはない。「第四期ディープ・パープル」の頓挫やトミー・ボーリンの哀しい末期を、そうしたファンの姿勢に帰結させようとも思わない。何かが食い違い、すれ違って、物事が好ましからざる方向へと転がっていってしまったのだ。そうしたこともすでに歴史のひとこまとなって、今になって何を語ってもただの思い出話にしかならないが、しかしやはり残念でならない。過ぎてしまった日々の出来事に「もしも」を差し挟む無粋を許して欲しい。もしもあの頃ほんの少し何かが違って、すべてが良い方向へと向かっていったなら、我々はトミー・ボーリンとデヴィッド・カヴァーデイルが音楽的リーダーとなった新時代のディープ・パープルの素晴らしい作品の数々を聴くことができたかもしれない。悲運の名作「Come Taste The Band」を聴きながら、そんなことを思う。